2.旅立ちと出会いと・後

 空は青く、澄んでいた。

「いい天気ね」

 大神殿までの道のりは長く遠い。馬を休ませるために立ち寄った町の広場で、ミルドレッドは空を見上げながら言った。

 結局父の問いかけの理由はわからなかった。分かる前に呼び出されて、大神殿の礼拝に参加してくるように言われて、今に至る。―― 正確には、礼拝に参加するついでに街に立ち寄って〈グラス・ホッパー座〉の劇を観てくるとよいという話だった。

「どうかした?」

 大好きな劇団の公演を観覧する許可を貰ったにもかかわらず、落ち着いた様子でいるミルドレッドを見つめていると本人から首を傾げられ、ユージーンはあわてて首を振った。

「あまり嬉しそうではないなと思いまして」

「嬉しいわよ、そりゃあ」

 広場の噴水では子どもたちが水を掛け合って遊んでいる。ミルドレッドもおそらく、今よりずっと幼い頃に同じように遊んだこともあろうが、全く覚えていない。

「でもね、今回真面目にしっかり…… いえそれ以上の結果を出して大神官を感心させることができたら―― というかむしろ、私はそこに賭けているのよ」

「というと?」

 ユージーンが首を傾げると、ミルドレッドはじれったそうに言った。

「わからない? 今回上手くいったら次があるかもしれないじゃないの。次の次もね」

 ミルドレッドの説明を受けてユージーンはなるほどと呟いた。

「さすがです」

「でしょう? だからはしゃぐのは後よ」

 ミルドレッドが得意げに言ったときだった。

 女性の悲鳴のようなものが聞こえて、二人は振り返る。やせ型の男が何かを小脇に抱えて広場へ走ってくる。

「ひったくりよ! 誰かそいつを捕まえて!」

 ミルドレッドは即座にユージーンを見上げ、彼は同時に頷き走り出した。

「あなた、大丈夫?」

 駆け寄ってみると、女性は足を少し痛めているようだった。後ろからついてきた侍従に彼女の手当てをさせていると、ほどなくしてユージーンが戻ってくる。

「犯人は自警団に引き渡しました。奪われたのはこれで間違いないですか」

「ええ、本当にありがとう」

 少しだけ息を切らしながら帰ってきたユージーンが彼女に差し出したのは、明らかに偽物の宝石がはめ込まれたネックレスだ。本物と偽った売買をしなければ違法ではないし、本物に手が届かない層にはよく親しまれていると聞く。

「…… 何か、大切なもの?」

 ミルドレッドが尋ねると彼女はほっとしたようにネックレスを胸に押し当てた。

「劇の小道具なの。小さい劇団で、もちろんこの宝石はまがい物ですけど、でも少ない稼ぎから劇団の皆で工面してようやく買ったものだから、戻ってきて本当に良かった」

 喜ぶ女性を尻目にユージーンは侍従が応急処置をした女性の足を見た。あまり芳しくない様子なのを確認すると、女性に問いかける。

「ちなみにあなたは何か役を?」

「ええ、一応主役よ」

 女性は立ち上がると、ユージーンに向かって微笑んだ。

「もしかして心配してくれてるの? 平気よ、主役とはいってもそんなに大きな立ち回りはないし、何よりすごく小さい小屋なのよ。よかったら、あとで観にきてくれたら嬉しいわ」

 そう言うと女性は片脚を引きずりながら歩き出した。ミルドレッドは急いで彼女に寄り添い、腕を取る。

「送るわ」

「ありがとう。でもそんなに痛くないから平気よ」

 ユージーンや侍従が時間がないという顔をしていたが見ないふりをする。小屋の前まで行くと彼女は「どうもありがとう」と再び礼を言った。

「名前をまだ言ってなかったわね。私、ケイトっていうの。〈山猫(ワイルド・キャット)一座〉の劇団員よ。このあとの劇、観て行ってくれる?」

 ミルドレッドは背後からの視線に耐えながらごめんなさい、と謝った。

「私たち、先を急ぐのよ。予定があるの。また今度観に来させてもらうわ」

 ケイトは食い下がることなく、残念ね、と口にして小屋の中へと身をひるがえす。

「それじゃ――」

「ケイト!」

 突然よろめいた姿にミルドレッドが声を上げ、同時にユージーンがとっさの勢いで手を伸ばす。が、彼女はあえなくそばの木箱にもたれるようにして尻もちをついた。その様子に、中にいた他の劇団員たちも駆けつけてくる。

「どうした?」

 心配そうな顔の男に、ユージーンは先ほどあった出来事を説明する。団員たちが顔を見合わせるなか、ケイトが「大丈夫よ」と声を上げる。

「まだ時間があるし、それまで安静にしていれば」

 彼女の足首は直視するのをためらうほど赤く腫れている。手拭いを水で濡らしてきた団員が、ケイトの患部にそれをあてながら渋い顔をする。

「出られるわ」

 もう一度ケイトが言うが、座長らしき男は首を振る。

「今日は中止にするしか……」

「嫌! 絶対に嫌!」

 ケイトは必死に抗議する。けれど、患部の腫れは見たとおりだ。

「代役はいないんですか」

「うちは人数が少なくて、女の劇団は彼女だけなんだ。それに、皆ほかの役がある」

 ユージーンの問いかけに、団員の男が肩を落とした。ふと、ケイトがじっとミルドレッドを見つめた。するとそれに気付いたように団員たちもミルドレッドを見つめる。頭から爪先まで舐めるように姫を見る集団に、思わずユージーンは前に出る。

「ねえ――」

「だめです」

 切り出された文句にユージーンは瞬時に反応した。

「ひ…… うちのお嬢様はこれから大切な用があって、もう時間がないのです」

 いいかげん広場に戻って馬車に乗らないと、主日の礼拝には間に合わない。そうなれば次の外出機会もなくなり、ユージーンもこうして彼女の供をすることがかなわなくなってしまうのだ。それだけは絶対に避けたいと思うユージーンに、ケイトは悲しそうな顔を見せる。

「さっきの広場でやる短い劇なのよ。台詞は全部私が袖から言うから声を出す必要はないし、仮面を被っている役だから顔は見えないわ。ね、恥ずかしいこともないでしょう?」

 恥ずかしいとかそういう問題ではない。

「申し訳ありませんが……」

「私、やるわ」

 ユージーンが再び断ろうとした時、ミルドレッドは言った。

「引き受けるわ、代役」

 言葉が発されると同時に、団員が沸く。

「ちょっと……!」

 同時にユージーンが抗議の声を出す。ミルドレッドはそれに動じずに彼を真っ直ぐ見返した。

「ほかの皆には私からちゃんと説明するわ」

 有無を言わせない調子できっぱりと言ったあと、それから王女は団員らに向き直る。

「でも本当に、さっきの条件はすべて守ってくれないと困るわ。顔も声も、私だとわかると少し面倒なことになると思うの」

 もちろんよ、とケイトは片足立ちになってミルドレッドの手を取った。

「出てくれるだけで助かるわ。よろしくね、ええと…… ごめんなさい、まだ名前を聞いていなかったわね」

「な……」

 名前だと?

 ミルドレッドは頭が真っ白になった。そのままミルドレッドを名乗るのはさすがにまずい。辺境の村とかならまだしも国中を巡る彼らが王女の名を知らない可能性は低い。ミルドレッドは困り果ててユージーンを見るが彼も蒼い顔でこちらを見ていた。

「私たち、あなたのことなんて呼んだらいいかしら」

 再度尋ねてくるケイトに、ミルドレッドは冷や汗が止まらない。何か適当な名前をでっち上げねばと思うがこんな時に限って何も出てこない。と、後ろから誰かがミルドレッドの肩をがしりとつかんだ。ユージーンだ。ミルドレッドはわけもなくほっとした。

「ミリー。ミリーお嬢様とおっしゃいます。私は側近のユージーン。―― どうか身分に関しては詮索なさいませんよう」

「ミリーとユージーン、良い名前ね。もちろん詮索なんて野暮なことしないわ」

 ミリーはミルドレッドの愛称だ。ユージーンの言葉にケイトは笑いながら返した。団員がミルドレッドに合うよう衣装に簡易的な処置を施している間に、ミルドレッドとユージーンは一旦広場に戻る。

「さっきは助かったわ」

 ミルドレッドが礼を言うが、ユージーンはむっつりとした顔を崩さない。

「納得はしていません。このままあなたをむりやり馬車に乗せることだった考えています」

「それをはっきり私に向かって言ってしまうのがユージーンだわ」

 姫に指摘され、ユージーンはぱっと頬を染めた。どうやら無自覚だったらしい。ミルドレッドはその反応に微笑みながら口を開いた。

「さっきここで、私とそう変わらない歳の子たちがいたでしょう」

 彼女が見るのは狭く暗い路地だ。

「文字が読めないけれど、劇なら本と違って字を読む必要がないって、だから楽しいって、そういう話をしていたわ。今日やっと休みがもらえたから観に行くんだって」

 ユージーンは黙り込む。

「字を読めない苦労なんて私にはまったく想像もつかないけれど、物語に出会うよろこびなら誰よりもよくわかるわ」

 ミルドレッドはそのまま、馬丁やほかの従者たちを説得しに向かった。ベンジャミン王子のような知識も、まして先ほどのユージーンのような順序だてて話す要領の良さも、何ひとつなかったが、彼女は不思議な説得力を持ってユージーンを含めた全員を納得させてしまった。

 小屋に戻るともうすでにほとんどの準備が終わっていた。

「緊張する」

「大丈夫、何かあればみんながフォローするわ」

 落ち着かない様子でこぼすミルドレッドに、ケイトが木箱に乗ったまま言う。

 少ない費用で必死にやりくりして作られたであろう衣装を身にまとったミルドレッドは、良くも悪くも一国一城の姫君には見えない。

「変じゃない? ユージーン」

「ええ。…… よくお似合いです」

 正直に言うと、従者たちを説得するミルドレッドは父王エイドリアンに似ていた。あの堂々とした声や立ち居振る舞いは、庶民には到底出しえないものだ。彼女は生まれながらにして王なのだ。それは隠すことはできない。ユージーンは急に不安になった。



「もうすぐよ」

 幕とも言えないようなぼろの薄布の向こうからは、劇団員たちが劇の台詞を交わしているのが聞こえる。ケイトの声に、無意識にかミルドレッドがユージーンの服の袖をつまんでいた。彼女はユージーンと目が合うと、彼女らしくない誤魔化すような笑みを浮かべた。

「私なんだか、ことの大きさに今ごろ気がついたみたい」

 ミルドレッドの指先はかすかに震えていた。ユージーンは彼女を落ち着かせようと、あえていつもの小言を言うときのような渋い顔を作る。

「もう遅いですよ。というか姫様、もっと大勢の前に立ったことだってたくさんおありになるじゃありませんか」

「それとはわけが違うわよ」

 姫という部分だけ声をひそめつつ軽口で返せば、ミルドレッドは言った。

「いつもは顔を知ってる貴族連中しかいないし、それにこんなふうになにか見せることなんてなかったもの」

 まあそうか。しっかりと自分の緊張の原因を説明してくるミルドレッドにユージーンが納得しているうちに、ケイトが「この長台詞のあとよ」と再び予告してくる。こわばる姫の肩に、ユージーンがそっと手を置く。

「…… 大丈夫。ここには俺たちもいるし、舞台には団員がいます。何かあっても―― 何があっても、必ず俺が、見ていますから」

 何かもっと気の利いたことが言えればよかったが、あいにく舞台の上ではできることが何もない。それでもミルドレッドは安心したのか、ケイトの声に従って舞台の上へと出て行った。

 ほんの数歩しか歩く広さのない、小さな舞台だ。ミルドレッドは、ユージーンのたったひとりの姫はそこに立っている。薄暗い小屋に、オレンジ色の灯りが鈍く光って彼女を照らしていた。ミルドレッドが右へ左へと動くたび、彼女のまとう衣装が証明の光をうけてきらきらとひらめいた。

 劇は進む。話は千年ほど前の大陸が舞台だ。辺鄙な村に生まれた男が、夢に現れた仮面の女に導かれるまま世界を歩き、旅をし、やがて世界を救い国を建てる。よくある建国物語だ。

「あなたはいったい誰なのですか」

 男レグルスを演じるのは座長のハンスだ。座長というだけあって演技がうまく、声もいい。

「わたくしはわたくし以外の何者でもない。けれどこの世に存在する何かではない。あなたにこの意味がわかるかしら」

 謎の女性の不思議な雰囲気を、ケイトは見事に表現していた。先ほどの話し声とはまるで違う。

「わたくしは誰かではあるけれど、きっと誰でもない。レグルス、あなたをよく知る者」

 謎の女はレグルスの前に時折現れては助言だったり、あるいは不思議な言葉を残して去っていく。彼女の正体は最後まで解き明かされないまま、観客に判断をゆだねる形で物語は終わる。

「出番だわ」

 手早く着替えを終えたケイトが長いドレスの下に負傷した足を隠しながら立ち上がった。このあと、魔物にさらわれた姫がレグルスに救われる場面がある。姫は無論、仮面を被ってはいないので代役で済ますわけにはいかない。器用に自分で結い上げた髪にドレス、作り物の冠を身につけてはいるがこちらも良い意味で姫には見えない。

「お気をつけて」

 ユージーンが言うと、ケイトはにっこり微笑んだ。

「ありがとう。おかげでかなり痛みは引いたわ」

 ケイトが舞台に上がっていく。

 謎の女性を演じていた時とはまたすっかり変わって、姫君らしい、淑やかな声だ。

「綺麗ね、ケイト」

 反対側の袖からこちらへ回ってきたらしいミルドレッドがユージーンの傍までやってきて言った。出番がもう終わったからか、彼女は舞台へ上がる前よりも晴れやかな顔をしている。

「お疲れ様でした」

「まだ終わってないわよ」

 口では言いつつも、ミルドレッドはほとんど安心しきった様子だ。ユージーンも、彼らの巧みな演技を見て安心しつつある。

 その時だった。

 不自然な場所で、ケイトの話す台詞が止まった。ふたりは舞台を振り返る。魔物から助けてもらった姫が、レグルスに駆け寄る場面のはずだった。ケイトがこぶしをにぎりしめ、蒼い顔で舞台に立っていた。足の痛みに耐えているのだと気づいてすぐに、幕を一度下ろすべきかとミルドレッドとユージーンがそろって袖にいる団員を振り返ったその瞬間、ハンスが―― レグルスが動き出した。

「ああ、姫、おかわいそうに」

 レグルスは姫の前に膝をつく。

「悪い魔物にやられたところが痛むのですね。私が早く助けに来られなかったばっかりに。これからは、この私があなたの腕になりましょう。足になりましょう。あなたの望むものすべてを―― すべてを。すべてを手に入れてごらんにいれましょう。ですからどうか、私の妻になってはいただけませんか」

 話が本来の流れに戻った。姫がレグルスの顔をじっと見つめ、やがて頷く。

「ええ、レグルス。あなたの妻になります」

 幕が下りる。拍手が聞こえる。

 一度下りた幕がもう一度上がって、演者たちが少ない観客に向かって礼をする。ケイトが手招きしてくれたが、ミルドレッドは遠慮して袖からケイトたちを見ていた。


「本当にありがとう。助かったわ」

 心からといった様子で礼を言うケイトにミルドレッドは「こちらこそ」と微笑んだ。

「特に最後は、失敗したって思ったのに。あんなふうに乗り切るなんてすごくびっくりしたし…… 感動したわ」

 ハンスの方を振り返って言うと、彼は茶目っ気たっぷりに片目をつむって見せる。

「舞台の上じゃ、間違えたって何したって、終わりじゃないのさ。良くも悪くもな」

 翌朝、ミルドレッドたちは今度こそ町を発った。

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