第27話
長かった冬が終わり、季節は春へと移り変わろうとしていた。
遠く、体育館の方から新たな学徒を歓迎するべく新二、三年生たちによる校歌斉唱が聞こえてくる。その歌声に耳を澄ます。伽藍とした教室には私の他には誰の姿もなかった。
入学式の今日。私は人生で初めて寝坊をしてしまった。
仕方がないので入学式が終わるまで、教室で待つことにした。
その間、特にすることがなかったから昨夜の夢について反芻してみる。
奇妙な夢だった。
不思議な花に触れ、魔法使いとなった私は、物理法則すら捻じ曲げ、自由に空を飛び、病気や怪我で苦しむ人たちを救っていた。その隣にはいつも銀の髪をした少女が微笑んでいて。
寂れた廃墟に置かれた場違いな傷一つないグランドピアノ。降り注ぐ月明りをスポットライトに少女が美しい旋律を奏でていく。その姿に今は亡き母の姿が重なって見えた。
やがて演奏が止み、少女は振り返る。
夢はそこで終わり、少女が誰であったのか知る術はない。
夢なんってそんなものだ。しばらくすれば忘れる。
それなのにどうして、その少女のことを想うだけで、こんなに胸が苦しくなるんだろう。
こみ上げてくる嗚咽を抑えることが出来ない。
不意に、机の上を濡らすものがあった。
寂しい。両親を事故で亡くしてから孤独であることには慣れ切っていたはずなのに、どうしてこんなにも心が冷たいのか。胸の中にぽっかりと大きな穴が開いたかのような形容し難い違和感がどうしても拭いきれない。
こんな姿を、入学式を終え教室に帰ってきたクラスメイトたちに見られたら変な子だと思われてしまう。私は慌てて埃一つないブレザーの袖口で目元を乱暴に拭う。
不意に、開いた窓から風に乗り、ひらりと桜の花びらが私の前へ迷い込む。
おずおずと顔を上げ、窓の外を見遣る。すると、体育館の方から聞こえてくる歌声とは異なる、ピアノの旋律が聞こえてきた。気が付けば私は立ち上がり、教室を飛び出していた。
耳を澄ませ、微かに聞こえる音だけを頼りに、音源を追いかけた。
どうしてそんな事をしているのか自分でも説明出来なかった。
だけど、この先に――――待っている、そんな気がする。
徐々に聞こえてくる音が鮮明になっていく。
足が止まったのは音楽室と書かれた扉の前だった。
早鐘のように脈打つ心臓を無視して、私は引手に指をかける。
中へ入ると、そこには夢の中でみたのと同じピアノが置かれ。
窓から差し込む春の日差しを背に、一人の女子生徒が演奏席に腰掛けていた。
滝のように流れる黒い、烏の濡羽色を思わせる髪に。鍵盤をたたくその指は華奢で、強く握れば脆く砕け散る硝子細工を想起させる。処女雪を思わせる白い肌に、唇を薄く彩る桜色。御伽話の中から抜け出してきたように可憐な少女は、ニコリと優し気に微笑んでみせる。
「あら? 私の他にも悪い子がいたみたいね」
「え?」
「違った? てっきりアナタも遅刻して、入学式が終わるまで時間を潰していると思ったのだけれど」
「い、いや、違わないよ。実は寝坊して。それで教室でみんなが帰ってくるのを待っていたんだけど、ピアノの音がしたからちょっと気になっちゃって」
「フフ、そうだったのね」少女はクツリと相好を崩すと「ねえ、よかったら一緒にどう?」
体を少しずらし、演奏席に二人分のスペースをつくり、空いた場所をポンポンと叩く。
いつもの私なら、初対面の相手にピアノの連弾の誘いを持ち掛けられても角がたたぬよう断りを入れていたことだろう。入学初日ということもあり浮ついているのか誘われるままに、少女の隣、空いた演奏席にそっと腰掛けていた。
「なんだか不思議ね。アナタとは初めて会った気がしないわ」
「‥‥‥うん。実は、私も」
「良かった。アナタとはいい友達になれそう」
「あの、名前、訊いてもいいかな?」
「そういえばお互い自己紹介がまだだったわね」
不意に、暖かな春の風と匂いが空いた窓から流れ込み。
「私の名前は――――」
終
そして、花は咲く @issei0496
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