第3話

 今でも時折、夢に見る。

 三か月前のあの夜。死ぬはずだった私の前に現れた、白皙の少女。

 差し出された手を前に、私は‥‥‥その手を、どうしたのだろう?

 この三か月、何度も同じことを考えた。でも記憶の糸をいくら手繰ろうとしても、頭の中に濃い霧が立ち込め上手く思い出すことが出来なかった。

 「良いというのは悪いことだ。悪いことは良いことだ。さぁ、この靄がかかったひどい空を飛んでいこう」

 「はい、そこまで」と、初老の女性教諭の声。

 文学の授業。『マクベス』の一節を朗読し終えた、銀髪の少女が静かに着席する。その妖艶な響きを含んだ声に、他のクラスメイトが陶然とした面持ちで聞き入っていた。当の本人はつまらなさそうに窓の外を見ながら小さく欠伸を洩らしている。何気ない仕草一つとっても、可憐な少女―――黒条さんの背中を、私は他の生徒に紛れながら眺めていた。

 ―――似ている、かな?

 三か月前の、あの少女に。 

 妙に熱っぽい空気に、女性教諭の咳払いが釘を刺した。

 それで我に返った生徒たちは、一斉に視線を教壇の方へ戻した。その様子を確かめてから女性教諭の解説が再開される。

 カッ、カッ、と乾いた音と共に黒板に白い文字が書かれていく。そこで自分が集中していないことに気づき慌ててA4ノートに板書しようと、シャープペンを持つ手に力を込めたところで、ブブッ、という無音の震動が右ポケットで鳴った。視線だけを周囲へ注意深く向ける。

 教科書片手に板書を続ける女性教諭の注意がコチラから外れている僅かな間隙を衝いて、私はそっとポケットからスマホを取り出す。画面に写るメッセージを見た途端、鬱屈とした気分になった。

 派手な装いのプロフィール画像。その横に並ぶ『☆Chizuru☆』という名前。そこには短く、『夕方、いつもの高架線のトコに集合』と書かれていた。

それだけで意味が察せられ、同時にちくりとした痛みが胸の内側に奔った。

 すぐに返信しなければ、あとで何を言われるか解らない。『わかりまし‥‥』と、打ち込んだ所で、カツンと木目の板を踏む足音が間近で聞こえた。弾かれるように顔を上げれば。

 「白柳さん。授業中の携帯電話の使用は校則で禁止されています」

 ズイッ、と掌を向けられる。それが意味することは一つしかない。

 「‥‥‥ぁ‥‥‥私、その‥‥‥」

 しばらく言葉を考えたが周囲からの咎めるような視線に、委縮してしまい「すみませんでした」という謝罪とともにスマホを差し出した。

 「放課後に職員室へいらっしゃい、話をしましょう」

 放課後は外せない用事があるんです! そう言えればどんなに良かっただろうか。  木村さんへの返事だってまだ返せていないのに、この上約束の時刻に遅れでもしたら、逃げたと思われて過剰な報復を受けるかもしれない。

 それでも私は、女性教諭の怜悧な眼差しに気圧され、「はい‥‥‥」と答えることしか出来なかった。そんな私の失態を嘲るように、くつくつと忍び笑いが周囲から洩れ聞こえてくる。

 更に肩を小さく狭め、これ以上の余計な注目を避けるように、静かに黒板に書かれた文字をノートに書き写していく。

 はらりと目元にかかった前髪の隙間から、チラリと周囲に視線を巡らせるが、既にスマホを没収された愚図への興味は消え去り、生徒たちは女性教諭の話に聞き入っていた。

 その中で一人だけ、コチラを凝視する者がいた。

 恐る恐る視線を向けると、硝子のような無機質な色をした黒条さんとたっぷり数秒ほど視線が重なった。否、黒条さんの瞳はさながらブラックホールのようで、私は眼を逸らすことが出来なかった。

 すると、黒条さんの小ぶりな唇の端が僅かに吊り上がった。

 私はしばらく、それが笑みであることに気づけなかった。

 だって、黒条さんが笑っている姿を見たのは、それが初めてだったから―――。

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