第2話
目を覚ますと、そこは見慣れたいつもの天井だった。
築三十年の木造アパートの天井。1LDKのその部屋は、洋室のリビングを除けば後は和室で間取りはそれなりに広い。そのアパートで私は義姉の亜香里とともに暮らしている。
義姉の亜香里は二十代でありながら、その持ち前の正義感と情熱から刑事に抜擢され多忙の日々を過ごしている。そのせいで普段、滅多に家に帰ってくることはなかった。
しかし今朝は、隣の布団の上に黒のスーツ姿のまま突っ伏し、寝息を立てていた。
「昨日は帰ってこられたんだ‥‥‥」
それでも私が床についた十一時には帰宅していなかったので帰宅したのはその後だったのだろう。
「お疲れ、姉さん」ぼそりと労いの言葉をかける。押し入れからブランケットを一枚取り出し、起こさないようにそっと背中に被せる。
それから私は寝室の襖を静かに閉めてから、キッチンの方へと向かった。
冷蔵庫から卵を三つ取り出す。小さなフライパンに油を敷き、卵をその中へと落とす。ジュウジュウ音を立てる卵を放置し、リビングテーブルに置いてある食パンを二枚取り出しトースターの中に入れ、スイッチを回す。
食器棚から二枚の皿を取り出し、焼けたトーストをそれぞれ乗せ、仕上げに焼き上がった目玉焼きをその上に乗せれば朝食の完成だ。
姉さんの分はラップで包んでおく。せっかちな姉さんのことだ、目を覚ませばまた直に仕事だろうから移動しながら食べられる物がいいだろう。
朝のニュースを見ながら、そそくさと朝食を済ませる。そうしていると、もうすぐ家を出なければならない時間が迫っていた。手早く制服に袖を通して洗面台へと向かう。そこに写る冴えない顔をした少女と眼が合った。
「暗い、かお‥‥‥」
漏れそうになるため息を押し殺し、櫛とヘアピンで髪を整えれば準備は完了した。
楠女学院。伝統ある女子高であり、高校入学と共に大学部への進学まで約束されている名門校でもある。中等部も隣接しており、朝の登校時間ともなれば校門前は大勢の女学生で溢れかえっていた。
あと一週間で三月も終わるというのに未だに外は寒い。マフラーに顔の下半分を埋めて、楽しそうに談笑をする他の生徒に紛れながら昇降口へと向かう。
その時、周囲がかすかにざわめいた。
先ほどまで談笑していた少女たちが水を打ったように静まり返り、陶然とした面持ちのまま歩みを止めていた。その様子に私も足を止め、周囲の視線の先を眼で追いかけた。
誰もが足を止めて見つめる先には、黒いブックカバーに包まれた文庫本を片手に、悠然と歩く一人の少女。周囲の喧騒になど興味はないと、本から眼を逸らさず泰然とした立振舞い。ふわりと吹いた横風に艶やかな銀色の髪が揺れる。
黒条 凜―――。
楠女学院一の有名人。直接のかかわりを持たない私でさえ、彼女のことは知っていた。
日本有数の黒条財閥。その一人娘にして、成績優秀、眉目秀麗、更にはピアノのコンクールで数多くの賞を受賞しており、その存在は学院だけに留まらない知名度を誇っている。以前、学院にテレビ局の取材陣が押し寄せてきたこともあったが、そこは関係者以外の立ち入りを厳しく制限している学院側によって阻まれていた。
一方、黒条さんの方は、周囲のそんな様子を気にした様子もなかった。
教室の片隅で、独り静かに本を読む彼女へ多くのグループが接触を試みたが、黒条さんはどのグループの色にも染まらず、美しい孤立を保ち続けていた。
そんな彼女へ向けられる級友たちの眼差しには、同性に向けるものとは違う、妙に熱っぽいモノが混じっているように思える。
恋に恋する乙女たち。
楠学院という狭い鳥籠に閉じ込められる温室育ちの令嬢たちにとって、黒条 凛という存在はあまりにも魅惑的すぎた。
まるでエデンの園に咲く禁断の果実。
食べてはならないからこそ、黒条 凜は孤立していながらも周囲を魅了し続ける。
同じように教室の片隅で、誰からも認知されずに日々が過ぎていく私とは雲泥の差である。
と、朝からネガティブな思考に耽っていると、マフラーを巻いた首元に背後から、蛇のようにスルリと腕が巻き付いてきた。その正体は振り向かなくてもおおよその察しがつく。先ほどまで感じていた空気の冷たさとは別種の寒気がうなじの辺りをゾワリと撫でる。
恐る恐る、肩越しに振りむくと、
「おはよ~、白柳~」
「き、木村さん‥‥‥」
肩に腕を回してくる同学年の少女・木村 千鶴。黒条 凜とはまた別の意味で、学院で知らぬ者のいない有名人である。成績は常にトップクラス。明るい髪色に、唇に薄く塗られたルージュの口紅。化粧の類は校則で禁止されているが、市議会議員の実父が学院に多額の寄付をしているため、教師たちも口うるさく注意できないでいた。
その利点を有効活用―――悪用して、学内では(無論、教師の目のあるところを除いてだが)、クラスに馴染めない生徒や、立場の弱い者に狙いを定めては、恐喝や金銭の要求、トイレに数時間閉じ込める等、酷い時には暴力行為に及ぶこともある。
無論、そのことを教職員たちも認知している。それでも誰一人、彼女の凶行を止めようとしないのは、彼女に逆らう=彼女の親へ逆らうことを意味するからだ。逆らえばどうなるかくらい私のような女子高生にも容易に想像できる。
教師も会社員と何も変わりはしない。生徒の救世主じゃない。誰だって自分の生活が大事だ。だから仕方がないと私を含め、周囲も諦めていた。
そして現在、彼女の玩具として私は目を付けられていた。
「ウケる、何そんなにビビってんの?」
「‥‥‥ハハッ、そ、そうだよね」
乾いた笑みを浮かべる私に、木村さんは嘲るように鼻を鳴らすと、
「何笑っちゃってんの?」
「ッッッ‼」
突然、首に回されている方とは逆の手が、私の膨らみかけた乳房を乱暴につかんだ。
驚愕、次いで鋭い痛み。顔をしかめる私の耳元とで「さわぐな」と告げられ、私はその言葉に大人しく従った。
「あ~あ~、つまんないよなぁ~。皆、アイツのことばっかり注目してさ~、ちょー目障り」
痛みに顔をしかめながら、木村さんが何を言わんとしているのかを察し、伏せられていた顔を僅かに持ち上げた。
「黒条さん、のこと?」
途端、つま先を革靴の固い踵で踏みつけられた。
「~~~~~~っっ!」
今度こそ、声にならない悲鳴が洩れる―――寸前、木村さんの五指が、私の口元を塞ぎ喋れないようにした。
そんな私たちの様子に周囲の人たちが気付く様子はない。
その辺りの狡猾さ木村 千鶴という少女は、実に非凡な才能を持ち合わせていた。
痛みに耐えかね、目尻に涙を浮かべながら「もう、許して」と許しを請う。
しかし、その事がより一層木村さんの嗜虐心を刺激したのだろう。口端をぬっと三日月形に吊り上げ、耳元で私にだけ聞こえる声でそっと囁く。
「あんたさぁ~、最近、調子にのってんじゃないの?」
そんな訳はない、と拘束された腕の中で頭を振る。
「まぁいいや。今日さ、放課後にちょっと用事あんだよねぇ~。白柳~、もちろん付き合ってくれるよね~?」
言葉だけなら、旧友との何気ない会話のように聞こえるが、その言葉には一切の否定を許さない高圧的な響きが含まれていた。
蛇に射すくめられた蛙のように凍り付いていると、
「じゃ、そういうことだから、放課後いつものとこでね」
首に回されていた拘束がするりと解ける。丁度そのタイミングで黒条さんを見つめていた生徒たちが体の向きを変え、登校を再開する。喉が軽く閉まっていたせいで、私は呼吸を荒くしながら、溜まらずその場にぺたりと座り込んでしまう。
肩越しに振り向けば、木村さんの姿は周囲の雑踏の中に消えて見えなかった。
校門と昇降口との間で息を荒くしながら座り込む私へ、周囲から容赦のない失笑と侮蔑の眼差しが向けられてくる。
「何、あの人?」
「てか、こんなとこで邪魔」
「いるよねぇ、皆いる所での虚弱アピール」
「マジウザい」
聞こえてくる言葉の全てが鋭利なナイフのように、私の胸を容赦なく抉っていく。
さっきまで掴まれていた乳房がちくちくと痛んだ。でも、それ以上に、心が痛い。
鼻先がつんと熱くなる。のどの奥からこみ上がってくるモノを、グッと堪えるも、私は周囲の反応を直視することが出来ず、顔を伏せながらゆっくりと立ち上がった。
カツン、自分の足元だけを映していた視界に、別の黒い革靴が映りこんだ。
「す、すみません‥‥‥!」
通行の邪魔をしてしまったと、慌てて顔を持ち上げるや私は鋭く息を呑んだ。
何の感情も伺わせない、無機質な硝子のような眼差しが其処にはあった。
身じろぎ一つとれず凍り付く私へ、銀髪銀眼の少女は無表情に問い掛ける。
「アナタは、何のために生きているの?」
「‥‥‥‥ッ‼」
まるで私に生まれてきた意味など、最初から存在しなかったのだと言われているようで、私は何も答えることができない。
周囲からは、「誰、黒条さんと喋ってる子?」「私、黒条さんが誰かと話してるの初めて見たかも!」「何で、あんな子と?」などと、様々な憶測、憤懣とした囁き声が飛び交う。しかし今の私には、きーんと響く耳鳴り以外の音全てが遮断されていた。
「そう、ありがとう」
短く告げ、黒条さんはそれ以上何も言わずにその場を後にした。
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