そして、花は咲く

@issei0496

第1話

 十二月の夜空に瞬くオリオン座を、私は廃ビルの屋上から眺めていた。

 人生最後の景色にしては悪くない。白く息づいた吐息が横風に流されていく。

 十二月二十四日。クリスマスイブの今日―――、見下ろす先には、夜にも関わらず昼のような灯りと喧騒が広がり街を行き交う人々は皆一様に幸せそうに見えた。

 その様子に、私は柔らかく微笑んでから踵を巡らせる。

 十階建ての廃ビルは、屋上から七階までが『回』の形をした吹き抜け構造になっている。

高さにして十五メートル。ここから真っすぐに落ちれば、苦しまずに死ねるだろう。

 最後の幕引きくらい、誰にも迷惑をかけず、誰にも認知されず、独りでそっと終わらせたい。

 私は今日、ここで死ぬ。

 両親の死から七年遅れて、私はようやくあっち側に逝くことが出来る。

 ばいばい、セカイ。

 ばいばい、わたし。

 吹き抜けの縁にそっと足をかけ、最後の一歩、終わりへの一歩を踏み出そうとした。

その時――――

 何処からか、ピアノの音色が風にのって流れてきた。

 知っている曲だ。

 ピアニストだった母さんは子守唄替わりに色々な曲を聞かせてくれた。

 その中でも特に、私が好んで聞いた曲。『ベートーヴェン ピアノソナタ・第十四番・月光 第一楽章』。これから死に向かおうとする私には、皮肉としか思えない美しい音色だった。

 はたっと脚を止め、私は音の鳴る方向。吹き抜けの下、今まさに私が踏み出そうとしている先の穴底を覗き込んだ。

 そこには剥き出しのコンクリートの上に似合わないグランドピアノが置かれていた。

階下の割れた窓から差し込む月明りに優しく照らし出されている。

 しかし、私の眼を何よりも釘付けにしたのは演奏席に座る一人の少女だった。

 外国人? そう見紛う程に、その少女は私の知る日本人の規格から大きく逸脱していた。

 腰まで流れる長い髪は純銀を溶かしたような銀髪。鍵盤をたたく細い指は、雪のように白く、触れれば儚く砕け散る硝子細工のような危うさが絶妙なバランスで同居している。

 天使なるものが本当にこの世界に存在するならば、彼女こそがそうなのだろう。

 魂を奪われるような錯覚を覚え、陶然と白銀の奏者を見つめ続けた。すると、不意に演奏を続けていた少女が振り仰いだ。

 同性の私ですら思わず息を呑むような美貌を湛えた少女の、純銀の双眸と視線が重なる。

 白磁のように白い肌、スッと通った鼻筋、その下の唇を薄い桜色が彩っている。

 その口元に、薄っすらと笑みを浮かべ。

 「こっちに来る?」

 鈴を転がすような玲瓏な声に導かれて、私は踏みしめるたびにギィギィと嫌な悲鳴を上げる錆びだらけの非常階段を下った。

 階下に降り立った頃には、演奏は第三楽章に入っていた。

第一楽章の静かさから一転、それまでの葛藤が臨界点を越え、感情が暴れ狂ったように激しさを増していく。加速していく音色、肌を震わせるような迫力。演奏が終わってからも、鼓膜には美しい音の余韻がこだましていた。

 天井の陰から、月明りのさす向こう側へ踏み込めずに固まっていると、演奏を終えた少女が椅子の上でクルリと身を翻す。そのまま無言でずかずかと歩み寄ってくる。

 突然のことに反応できず固まっていた私の手首を掴むと、そのまま月明りの下へ強引に引っ張られた。

 「ぁ‥‥‥」

 そう思った時には、相手の吐息を感じられるほどの距離で見つめ合っていた。

 視界が白皙の少女で埋め尽くされる。ドッ、ドッ、と心臓の音がうるさい。

 「アナタは、本物の孤独を知る人」

 「え?」

 何を言われているのか解らず、間抜けな声が洩れる。それでも少女は構わずに言葉を続けた。

 「誰もかれもが、気付かないフリをしている」

 「あの、わたし‥‥‥」

 「でもね、本当は皆気付いてるんだ」

 少女はさらにもう一方の手を私の背中へと這わせる。

 「みんな、本当は孤独で、本物の繋がりを持たない、哀れな存在なんだって」

 その意味は何となく解る気がした。

 「だからね、人間は誰かと繋がりを持とうとする。でも、今は本物の繋がりなんてほとんどない。空っぽで、見てくれだけは豪華な、偽物の群れ」

 「‥‥‥‥‥」

 「私はね、そんな世界に抵抗したい。孤独を知ろうともしない人たちから、孤独を押し付けられる前に示すんだよ」

 「示すって、なにを?」

 その問いにクツクツと忍び笑いを洩らし、

 「孤独であることの正しさを。孤独に生きることの絶望を。私たちがこの世界に示すの」

 「私たち?」

 「そうだよ。私とアナタ、二人ならそれが出来る」

 少女が何を言っているのかは解らなかったけれど、私は無理だと思った。

 「大丈夫だよ。その為の力ならちゃんとある。でもそれには覚悟が必用」

 「覚悟?」

 「世界に、お別れを告げる覚悟。アナタにはその必要はなさそうだけれど」

 「それって‥‥‥」 

 言い終わらぬうちに、少女が掴んでいた手首と腰に回していた腕を解いた。そのまま優雅なステップでピアノの側まで後退すると、「こっちに来て」と手招きする。

 その誘いを断ることも出来たはずなのに、私は迷うことなく歩み出していた。

 「これは⁉」

 ピアノの陰に隠れて、どんな高名な硝子職人だろうと作り出せない一凛の花が咲いていた。

 触れば簡単に折れてしまいそうな脆さと、儚さが同居した花に触れるように、少女は無言で促してくる。月明りは当たっていないはずなのに、花はその内側から純白の輝きを放っている。よく目を凝らせばドクン、ドクン、と心臓の音に似た胎動が伝わってくる。

 花が、私を求めている。

この時、私は確かにそう感じたのだ。

 「この花を摘めば、アナタはこれまでとは違った存在になれる。だけどその瞬間、アナタの孤独は、あなた一人だけのモノじゃなくなるんだ」

 「一人だけじゃ、なくなる?」

 「そう。私とアナタ。二人でひとつの存在になるから」

 少女の言っている言葉の意味はまるで理解出来なかったけれど、不思議と否定の気持ちは湧き起こらなかった。

 静かに、言われるがまま、私は花へと手を伸ばす。

 細い茎をつかみ、パキッという小さな破砕音と共に花を摘まみ上げる。

 その瞬間、折れた花の断面から、その内側に蓄積されていた光が溢れ出した。

 視界が白く塗りつぶされていく中、少女の声だけが聞こえた。

 「さぁ、行こう――――新世界へ」

 それが私――白柳 華と、黒条 凜の最初の出会い。

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