第7話 隻眼のカイト


シュバルツとワイスの“名付け”の後。

リヒトは、これまで黙って甲板に佇んでいたロイエが音も無くシュバルツに歩み寄るのを見た。


「あれ?」


―ロイエが自分から人に話しかけるなんて・・・珍しい・・・。


普段は用事でも無い限り自分から誰かに話しかける事はおろか、誰かと居たとしてもずっと黙っている事が多いロイエ。そんな彼が自分からシュバルツに話しかけに行ったのだ。驚かないわけがない。

彼の意外な行動が気になり、リヒトは少し離れた場所でそのまま二人の会話をそっと聴くことにした。


そんなリヒトの様子を気に留めることもなく、ロイエは静かにシュバルツの前に立つなり低い声で言った。


「・・・カイト・・・貴様は“隻眼のカイト”か?」

「!」


シュバルツの顔色が変わる。


「・・・・・・アンタその名前を・・・」


動揺を抑えるかのように必死に声を押し殺して。

その隻眼でロイエを見上げ静かに唸るシュバルツ。

ロイエを見据えたまま僅かに身構えた彼の周りにじわりと生まれる緊張感。


「その名前を知ってるってことは・・・アンタやっぱりあの“ゲベート”か?」

「・・・・・・」


ぴくりとロイエの頬が動く。途端に重苦しさを増す空気。

しかしその氷の瞳は揺らぐことなくシュバルツを捕らえたままだった。


「「・・・!」」


突然の緊迫した空気。

二人を最初から見守っていたリヒトだけでなく、状況に気づいたグランツもトレネも、皆が二人を見つめていた。グランツはじっと様子を伺いながら。

暫くの沈黙の後・・・シュバルツの口元に小さな笑みが漏れた。


「アンタはおれのウラの名前を知ってた・・・。

 そーだぜ、おれは“隻眼のカイト”。ウラの世界で・・・おれはそう呼ばれてた」


―ウラの世界?


聴こえてきた耳慣れない言葉に、リヒトは僅かに眉を顰める。

視線の先ではちらりと、シュバルツの漆黒の瞳がロイエの右手―彼の人差し指に嵌められた燻銀の指輪を映した。


「その鎖剣のセラス・・・アンタは・・・あの暗殺者の“ゲベート”だな?

 イルの・・・イルに飼われた“氷の暗殺者”」

「・・・!」


“イル”。

シュバルツの口から漏らされた突然の言葉に息を呑むリヒト。

その横で、トレネが小さく身体を震わせ顔を青ざめさせるのを感じた。


「・・・暗殺者、か」


低く吐き捨てるように言うと、ロイエは冷ややかな瞳でひたとシュバルツを見据えた。

深い闇を湛えた、夜のような瞳。

その瞬間二人を取り巻く空気が一層凍りつく。


「・・・否定はしない」


ロイエの口から返された言葉に、リヒトは驚愕する。

信じられない思いで食い入るようにロイエの姿を見つめる。


―否定しないって・・・ロイエが暗殺者だった・・・?しかもイルの!?

 それに・・・この感じだとシュバルツも、前は何かしていたってこと・・・?


思いがけない状況に、二人を見つめたままリヒトは狼狽えた。

“隻眼のカイト”。それに“氷の暗殺者ゲベート”。

二人の口から告げられた互いの“名前”を彼女は知らなかったが、仲間であるロイエがまさかのイルの暗殺者だった事実に呆然と二人を見つめるしかない。


―グランツ達は・・・知ってたの?


ちらりと視線を向ければ、グランツは動じた様子もなく腕組みをして状況を見守っていて。その傍らではトレネが緊張した面持ちでロイエを見つめていた。どこか苦しげに眉根を寄せて。


「・・・・・・」


重苦しくなった空気の中、ロイエは静かに宵色の前髪を掻きあげる。

シュバルツを見下ろす冷ややかなその目がそっと細められた。


「・・・ただ確認しただけだ。そう構える必要は無い。

 ・・・・・・私が貴様を殺す命令はもはや潰えている。大分昔に・・・な」

「殺す?」


今まで黙ったままじっとロイエを見つめていたワイスが、彼の言葉にぴくりと反応する。


「キミ、シュバルツ、殺すの?」


彼女はその綺麗な翡翠の瞳でロイエを見上げた。

しかし其処に宿るのは、小さいながらも強い意志。


「シュバルツ、殺す、ボク、許さない」

「・・・・・・」


恐れる事なく告げられる言葉。澄んだ声が静まり返った甲板に響く。

ロイエはその一心な視線を受け止め、スッと目を細めた。


「・・・安心しろ、昔の話だ。

 貴様等がこの船に乗ったのなら、私が貴様等を殺すことは無い」

「・・・・・・」


シュバルツは俯いたままギッと拳を握り締めた。

黒い瞳は何かを深く思い出すかのように、戸惑いに揺れていた。

その時。


「あー・・・お取り込み中すまんが・・・お前さん達、そろそろ出航したいんだがー・・・?」


静かに睨み合う三人に向けて、後ろから控えめに掛かる声があった。

見るといつの間にかグランツが恐々といった様子で三人の顔色を伺っていた。僅かに身を屈めて、わざとらしく遠慮がちな顔をして。

よく見ればもみ手までしている。


「「・・・・・・」」


途端に、その場の空気がまた一瞬で変わった。

シュバルツ達はグランツを見るなり固まっているし、トレネはほっとしたように苦笑を漏らすし、リヒトは緊迫した状況も一瞬忘れ思わず噴き出す。


「グランツ、変!すっごく変!!」

「んなっ!?」


笑いながら言い放たれたグランツは、ショックを受けたような顔でリヒトを見た。

しかしその澄んだ灰色の瞳は相変わらず笑っている。

さっきまでの張りつめて重苦しかった空気が、いつの間にか和んでいた。


「・・・船室に戻る」


ロイエは一言そう言い残すと、戦いの前に脱ぎ捨てた上着を手に取り静かに船室に向けて歩いて行った。


「ロイエ!待ちなさいよ!!」


ハッと我に返ったトレネが慌ててその後を追う。

そんな二人を少しの間横目で見送って、グランツは腰に手を当てると笑顔を湛えてリヒトとシュバルツ、ワイスを見回した。


「ま、あの二人は暫く置いといて、俺達で出航の準備だな。つっても大した事はしないが。

 シュバルツ、ワイス!お前さん達は船に乗ったばかりだから、とりあえずはあの帆を張る仕事をしてくれ」


グランツが指差す先には、船の中心にそびえる太い柱、そしてそこに掛かる深い蒼の帆が風にはためいていた。

帆は空に溶けそうなほど澄んだ色をして見えた。


「帆自体はすでに掛けてあるからな、後は縄を引いて張るだけだ。出来るだろ?」

「リョーカイ!おっし行こうぜワイス!」


ワイスの手を取り元気良く柱に向かって走り出すシュバルツ。その様子からはさっきロイエと対峙した時の重々しさは想像できない。

次にグランツはリヒトの方を向いた。


「俺達は船体の確認だ、リヒト。まぁ多分損傷は無いだろ。なんてったって鋼鉄製だからなぁこの船は」


コンコンと柱を拳で軽く叩き、グランツは苦笑した。


自由賊の船はこの世のあらゆる科学を駆使して造られた鋼鉄の機械船。

見た目は帆もある帆船だが原動機があり、風のないところでも進む事ができるのだ。普段は空を飛び、時には海を渡る船。


リヒトは空を見上げる。

どこまでも広がる青と、降り注ぐ陽の光の眩しさに目を細めて。


自由賊が船に乗り、この空に生きる理由・・・


―・・・“地上はあまりにも狭すぎる”。

 これが自由賊の行動理由だって、前にグランツは言ってた。

 そう・・・地上は狭い。

 自由を求めるオレ達には、イルに支配された地上は・・・狭すぎた。


だからこそ自由賊は空を選んだ。

まだ誰にも支配されることの無い聖域。


「早いとこ空に戻らんとなー。いつイルが来るか・・・」


機体を調べながらグランツがぼやく。

けれども今回は特に襲撃を受けたわけでも機体が損傷したわけでもないから、このまま直ぐに飛び立てる。


「・・・よし!異常なしだ」

「今回は着地失敗しなかったもんね」


リヒトはニヤリと笑ってみせる。


「・・・お前さんも言うようになったよなリヒト・・・」


途端に目に見えないダメージを受けたとばかりにうな垂れるグランツ。

俺の教育が・・・などど呟いているグランツを尻目に、リヒトはふと言った。


「・・・ね、グランツ。

 ロイエが・・・イルの暗殺者だったって・・・ホント?」


リヒトの突然の言葉に、グランツは驚いたように振り返る。

そしてゆっくりと手摺に寄りかかった。


「・・・あぁ、そうだ。つっても、本当にずいぶんと昔の話さ。

 俺もその頃のロイエは詳しくは知らんが・・・裏の世界や、当時の自由賊の間では相当恐れられていた存在だったな。

 ・・・“氷の暗殺者ゲベート”の名は、よく聴かされていた」

「“ゲベート”?」

「あぁ、ロイエの元の名さ。自由賊になる前の、“母からの授かりもの”だ。

 ・・・“ゲベート”祈りだなんて綺麗な名なのになって、俺はよく思ったもんだった」


―『綺麗な名前だよね、“ゲベート”って。

  貴方もそう思わない、フライア?』


「・・・・・・」


遠く海を眺めるグランツの目に、不意に僅かな悲しみが過ぎった。


「・・・グランツ・・・?」


リヒトが心配そうに声を掛ける。

その声にハッとし、けれどもグランツは僅かに微笑んで見せた。


「・・・ロイエが怖いか、リヒト?」

「え・・・」


暫く俯いて言い淀むリヒト。


「・・・・・・うん。なんか・・・雰囲気とか、怖いよ」


―ロイエっていつも・・・感情が無くて、氷みたいで・・・。

 しかも・・・イルの暗殺者だった、なんて。


「・・・まぁ、確かにな」


グランツは明るくそう言うと、よっと身を起こした。


「けどな・・・いや、何でも無いや」

「?」


いつになく歯切れの悪い様子にリヒトが見上げると、グランツはちょっと戸惑うような表情をしていた。


「・・・なーに、グランツ?」


何かに言いよどむその姿。

はっきり言ってくれない事に少し不機嫌な声を出すと、グランツは困ったように笑った。


「何て言うかな・・・ロイエはロイエなりに、思うところが有るのさ」

「思うところ・・・あれで?」


リヒトはうーんと唸った。


―オレには、ただ無心に敵を殺しているようにしか見えないけど・・・。


「・・・でも、そうならオレ、少しは・・・頑張れるかも」

「何をだ?」

「ロイエという恐怖を乗り越えること」


きっぱりと言ったリヒトに、グランツは驚いたように彼女を見下ろした。

そして何を思ったか突然声を上げて笑い出す。


「??

 そ、そんなに笑わないでよ!」


訳が分からず怒り出すリヒトに、グランツの笑い声は更に大きく響いていった。


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