Recipe1 黒竜の道場破りとてきとうスープ(1)



 ソラン・ヴェル=アーガストは、鳥の鳴き声で目を覚ました。

 眠ったときには暗かった室内が、朝の光で優しく照らされている。風も穏やかなようで、気持ちのいい朝だった。

「ふぁ……朝か……」

 欠伸交じりに起き上がると、短い黒髪がところどころハネている。それをがしがしと手櫛で直しながら、ランプ台に置いておいた黒縁のメガネを手に取った。

 魔法書の読みすぎで視力の低下した目は、メガネがないと目の前の人間が誰なのか判別できないくらいに悪い。教会で高位の治癒魔法を受ければ治らないわけではないが、もはや裸眼に違和感を抱くので、放置している。

 起床後の日課として、空気の入れ換えのために窓を開ける。

 眼前には、朝の光を照り返す緑の森が広がっていた。

 森は、どこまでも広がっている。ここからでは、果てが確認できないくらいだ。そんな森の奥深い場所に、このコテージはある。

 もちろん、勝手に建てているわけではない。

 この森はすべて、ソランの私有地なのだ。

「あっ、こら」

 開けた窓から、風の精霊シルフェが2体、室内に入りこんだ。

 美しい女の姿をした小さな精霊たちは、クスクスと笑いながら、室内を好きに飛んで回っている。

 普通は、精霊の姿など見えない。けれど、ソランほどの魔導士になると、姿を見るどころか好かれて、精霊にからかわれたりする。

 特にソランは、幼い頃から精霊と接してきた。それがわかる彼女たちは、尚のことソランに対して気安い。

 ソランにとって彼女たちは「近所のお姉さん」的存在であり、精霊たちにとってソランは「可愛い人間の友人」なのである。

「まったく……着替えるときには、出ていってくれよな」



 金細工のペンダントを首からかけて、私室を出る。

 コテージの1階へ下りていくと、焼きたてのパンのこうばしい香りがしてきた。

 リビングとメインフロアを共有しているダイニングのテーブルに、朝食が用意されている。

 ダイニングは無人で、誰もいない。

 しかし、ソランは、カラの空間に向けて声をかけた。

おはようグースト影従エージュ

 誰もいないはずのダイニング。その床から、ズルリと〝影〟が立ち上った。

 シルエットから、執事服のようなものを着ていることはわかるが、それ以外は不明だ。全身が、身につけているものも含めて、真っ黒いからだ。まるで、頭から黒インクを被ったかのようだった。

 顔立ちも口の位置もわからない。いや、正確には、「無い」。

 影のようなそれは、朧気な影から人の形になり終わると、恭しくソランに頭を下げた。

 ソランが創作魔法で生み出した、魔法の従者だ。ソランに代わって家事や雑務を引き受けてくれる。ソランはこれを、影従エージュと名付けた。

 エージュは口を持たないので、喋らない。しかし、人の言葉は理解しているし、主人であるソランとは言葉を使わなくとも意思の疎通ができた。

 椅子を引いてもらい、着席する。

 何かを訊ねられて、ソランは肯いた。

「頼む」

 エージュはペコリと頭を下げると、コーヒーを淹れにキッチンへと向かった。

 今朝のメニューは、焼きたての丸パンとオニオンスープ、トマトが色鮮やかな彩りサラダとベーコン付きのスクランブルエッグだった。

 ソランは、まだ温かいパンを齧った。



 ソラン・ヴェル=アーガストは、7代目勇者パーティの魔導士だった。

 当時――と言っても、1年くらい前のことだが――の年齢は、22歳。いっかな伸びない背と童顔のせいで初見の人間にはまず少年と間違われるが、才覚ある魔導士としては、確かに若い。

 およそ300年に一度生まれる「魔王」討伐のため、勇者パーティに加わり、2年かけて討伐をやり遂げた。

 数々の褒賞、名誉ある叙勲。その後の人生は、約束されたも同然。

 しかし、ソランは褒賞として得たこの聖棲森に引きこもって、他に特別なことはしていない。

 「偉人」やら「救世主」やらと祭り上げられ働かされるのは、御免だった。

(他の連中は、違ったようだがな)

 高僧ソーンは光務教会で次の総主と目されているし、女魔導士のラジェンナは、有名な魔導大学で教鞭を執っている。拳闘士ガイはドラゴンハンターになると言って旅立ち、勇者フェイドに至っては聖リュンヌ守護国の王女マリアンヌの婚約者。全員、順風満帆だ。

 ソランだけが、魔王討伐後のプランがノープランだったのである。

(というか、生きて帰ってこられると思ってなかったからな……)

 しかし、今代の勇者パーティは、強かった。

 苦戦したものの、誰一人欠けることなく戻ってくることができた。

 これまで散々苦労したのだ。そのあとは少しくらい自由に過ごしてもいいだろう。

 そんな理由から、ソランは見事な引きこもりになっていた。

 2杯目のコーヒーを飲みつつ今日の予定を立てていると、エージュが控えめに声をかけてきた。

「ん? 今日の昼食と夕食か。昼食は任せる。夜は……今日は自分で作る」

 そう告げると、エージュは頭を下げて、コテージの奥の方へと消えていった。

「さて、と……」

 ソランは、料理が好きな方ではない。

 孤児院の出で時々厨房を覗いていたので、幼い頃から調理の方法は見てきたが、食べることは好きでも、作る方は特別上手くない。と、本人は思っている。

 料理とは、サボろうと思えばいくらでもサボれるが、きちんとおいしいものを作ろうとすると、面倒な作業と無縁でいられないものだ。

 面倒くさがりなソランは、だから料理があまり好きではない。

 それでも、時々妙に料理をしたくなることがあった。

 難しいものは作れない。スープなら、ベースとなるスープストックを作ったりはしない。食材室にあるものや、勘で、好きなものてきとうに入れて煮込んでアクを取っていき、塩と胡椒で味を調えて終わり。名付けて「てきとうスープ」。

 どんな味になるのか想像しながら食材を選んだり切ったりしていくのは、魔法を創作するときみたいに好奇心が刺激される。

 ソランは食材室から、野菜を数種類と肉の塩漬けを持ってきた。

 夜まで時間があるが、どうせなら長く煮込みたかったので、今から始めてしまう。

 魔導士のローブを脱ぐと、簡素なエプロンを身につけた。

「……始めるか」

 基本は、エシャロットと人参とリーキ。これを適当な大きさに切って、まずは花種オイルで炒める。

 それぞれに軽く火が通ったら、別に沸かしておいた熱湯で煮込む。

 火は魔法で熾せるが、時間短縮は不可能だ。きちんと時間を取って、熱していく。

 スープストックの代わりに、キューブ状のスープキューブを入れる。どこかの料理家が発明したものらしいが、手軽にスープの味が調って便利だ。

 アクを取りながら、適当なところでカットした豚の塩蔵肉を投入。大きさは適当だが、形とサイズは合わせる。

 そして再び、アクを取っていく。スープなどの煮込むものは、アクとの戦いとなる。

(たっぷり煮て、トロトロにしよう)

 そうしたら、朝のパンの残りにハムとチーズをサンドして焼いたものと一緒に食べるのだ。

 軽めではあるが、そんな夕食を想像したソランの口の中に、じゅわりとヨダレがしみた。

 すると――。

 〝何か〟が、ソランの感覚に触れてきた。

 いで、エージュが足下から這い出てきた。来訪者を察知したのだろう。

「あぁ、わかってる。……来客か? 今日は、王宮からの定期連絡の日じゃないはずだが……」

 この聖棲森には、ソランによって結界が張られている。森に迷いこんだ旅人であれ、来訪者であれ、何者かが森に近づくと、ソランもしくはエージュが察知できる仕組みになっている。

 ソランは〝ある特殊な役目〟を王から賜っている。そのため、月に一度、王宮から使いが来る。

 しかし、今日は違う。であれば、来訪者の素性はわからない。

「面倒だが、仕方ないか……。エージュ、鍋を見ていてくれ」

 ソランはそう頼むと、エプロンからローブに着替え、コテージの外へと出ていった。



 玄関を出ると、カララン……と、カウベルの音が響いた。

 出てすぐの玄関先は、テラスになっている。テーブルセットを出すと、晴れた日には森を眺めながらお茶ができる。

 そこから木製の階段を降りていくと、庭と呼ぶには殺風景だが、拓けた芝生がある。ソランはそこに立ち、空を見上げた。

 さっきまで快晴だった空が、曇天に変わりはじめている。

「何か……来るな」

 遠くから、何かが近づいてくる気配がする。魔導に精通したソランにはわかる。それが強大な魔力を持った〝何か〟だということが。

 魔物。それも魔族レベルの特別な個体。鬼が出るか、蛇が出るか。

 やがて、空に黒点が浮かび上がってきた。

 それは近づくほどに大きくなり、鳥のような翼を持ったシルエットへと変わっていく。

 大きな翼の音が聞こえる頃には、それが鳥などではないことがはっきりとした。

『フハハハハ! やっと見つけたぞ! 貴様が、魔王様を倒したという魔導士か!』

 体長およそ20mメーツ。黒い皮膚と鱗が全身を覆っている。

 一際目を引くのは、重い身体を悠々と持ち上げる、強靱で強大な翼。そして長い尾。魔界でも滅多にお目にかからないレベルの、見事な漆黒のドラゴンだった。

「黒竜が人里に降りてくるなんて、珍しいな」

 漆黒のドラゴンは、金色こんじきの瞳をギョロリと見張った。その眼は、獲物を見つけた獣のように高揚している。

『貴様と戦うために、わざわざやってきたのだ』

「なんのために? 魔王の敵討ちか? だったら、勇者フェイドを狙う方が筋が通ると思うんだけど」

 フェイドに面倒を押しつけるわけではないが、魔王の敵討ちなら、ソラン一人が狙われるのはおかしい。不公平だ。

 黒竜は、何やらうんうんと肯いた。

『魔王様か……。確かに、勇者とはいえ人間に討たれたことは、残念であった。しかし、この世は弱肉強食。討たれたものは、仕方がない』

 ドラゴンほどの高位の魔物となると、魔界と表界の境は、魔王の力がなければ越えられない。魔界から来た個体でないとしたら、このドラゴンは北雪山脈か、秘境の深き山々に棲んでいる表界種だ。魔王を信奉するには、世界が遠い。

「ならば、何故?」

『決まっているであろう! 魔王様を倒した人間を倒せば……われが地上最強の竜になれるからよ!』

 胸を張ってそう言い切ると、黒竜は大声でワーッハッハッハ!と笑いはじめた。

 対するソランの目は、冷え切った。

 時々いるんだよなぁ、こういう奴……。なんでも勝敗で決めようとする、力任せの奴が。相手を倒して勝ったら、それで自分が一番強いと思いこむ。

 挑まれた方も同じタイプならいいかもしれないが、あいにくソランは真逆の性格だ。

 やらなくていいことは、やりたくない。わざわざやることを増やそうとする、こういうタイプとは相容れない。

『ム? なんだ? 何か文句でもあるのか?』

「文句しか無ぃ……いや、話はわかった。つまり、僕と戦いたいということだな?」

『話のわかる奴だな! そうだ! 我と戦い、〝最強〟の称号を我に寄こせ!』

「僕がもらったのは〝偉人〟の称号なんだが……まぁいい。わかった。けれど、今日は遠慮してくれないだろうか」

 すぐさま戦えると思っていたらしい黒竜は、肩透かしを食らったようになった。

「何故だ? ……ハハァン、我と戦うのが怖くなってきたか? 無理もない。我は深き山々で負けなしの竜であるからな。貴様のような小さな人間など、一撃よ!』

「実は今、『てきとうスープ』を作っているところなんだ」

『てきと……? なんだ、それは』

 肉をそのまま捕食するドラゴンは、「料理」という概念を持たない。

「食べ物の一種だ。しかし、これが時間のかかる代物でね。とても今日中には出来上がりそうにない。出直してもらえないか」

 遙か上の方で、ドラゴンが、悩むように腕組みをした。

『むむぅ……なんだかよくわからんが、日が悪いということか? 我、ここに来るまでに1日半かかったのだが……。仕方がない。急に出向いたことは確かだ。出直すとしよう』

 バサ……ッ、と、漆黒の翼を広げる。

『では、出直してくる! 次に来るときは、ちゃんと勝負するのだぞ!』

 黒竜はそう言い残すと、バッサバッサと北の山の方へと帰っていった。

 スープによっては、1日どころか何日もかけたりするらしい。

 しかし、それは料理人の領域だ。

 黒竜を見送りながらソランは、

「……まぁ、『てきとうスープ』は、あと数時間で煮込み終わるんだけどね」

 彼がやる気をなくしたり他のものに夢中になったりして、もう来ないことを願った。








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