14話 ————解脱者————
一巡前に歩いた道には、血溜まりの一つとして無かった。やはり、自分は一度世界を終えたのだろう。キョウカへと視線で是非を問うと、小さく頷いて「やっと信じた?」と薄く笑う。信じていなかった訳ではなかった。だが、自分の今までの記憶を探っても、世界が終わる瞬間という光景は見当たらない。一巡前の世界の記憶は、夢の中での取り留めない繋がりのない記憶と記憶の断片の積み重ねにも感じた。
「何か気になる感じ?」
「‥‥‥世界が終わる時って、どうなるんだ」
「もしかして怖い?」
嘲笑う小さな鼻息に自分も頷いた。
「一つ前の世界が滅ぶ時、もう自分は死んでいたから。何が起こるのかも分からないのは不安なんだ」
「そう。でもきっと想像通りだよ。この学校こそが最後に許されている領域。崩壊を免れないって事は、足元から消え去る感じな訳。新たな世界が始まる時は、真下から新しい大地が顔を見せて脱皮っぽく感じるけど───私も、完全に世界が消えるのは初めて見るんだ。だから、あんまり参考にしない方が良い」
「キョウカも、怖い?」
「少しだけね。うん、ちょっとだけ」
二人で隠れた更衣室に、独鈷杵を立て掛けたベンチ。血塗れにした芝生の数々も記憶通りに配置され、血など跡形も無かった。これが世界の更新なのだとしたら、一体どれだけの資源を用いて今まで新たな世界を創造していたのだろうか。完全に同じ物を、完璧に仕上げて配置するなんて。
「‥‥世界も、もう嫌気が差したのかな。誰にも気付かれない自分の役割に」
「意外と詩的だね。そうかもしれないよ。同時に少しずつ万物、世界も含めて狂っていった。全部同じ光景に見えるかもしれないけど、確実に心という物には亀裂が走り続けている。ただの木片、砂粒、精子の一粒だって変わらない。確実に終わりに近付いていってる。もう、限界だった。この世界もね」
「───つらかったな。善良な人間も、次の世界では悪人になるなんて。信じられなくなったな」
「うん、そっか。覚えてるんだ」
腕から離れたキョウカがステップを踏んで校庭へと舞い降りていく。揺れる黒髪を追って自分も数段の階段を飛び降りると、隙を突いたキョウカに胸に抱きつかれる。したり顔で見上げる頬を撫で上げ、ますます気を良くした黒いパーカーの少女が笑みを浮かべる。
ゴム製の校庭を見渡しても、何処が軋んでいるのか皆目見当が付かなかった。吹き抜ける風の砂の香り、多くの生徒がスタートを切ったコースの出発地点が若干黒く染まっているのみ。
この世界は新たに造られた。ならば、この時刻、この日時に到達するまでの時間は経過している筈だった。———きっと、ここまでは、そういう仮定を踏んだと算出されているのだろう。
「俺が生まれたのは、この時間だ」
「そうだよ。あなたが救世主として覚醒するのは、いつもこの時間だった。人々を導く先導者にも、病に苦しむ人類を救う科学者にも、終わらない苦しみを慰撫する聖者にも成った。そして、人間の欲望を埋め合わせる為の生贄にも。誰も彼もがあなたを求めた。虐げてでもね」
「外は、どうなるんだろう」
遂に太陽を見上げた。黒い太陽の正体は、とぐろを巻いた巨大な蛇であった。世界を閉ざす大いなる堰塞の蛇。その身で雨を閉ざし、水を堰き止める強大な壁そのもの。あまりにも巨大過ぎて気付かなかった、途方もない存在の外など自分が知れる筈もなかった。
「少なくとも、ここよりもマシ。これは断言してあげる。必ず、あなたは気に入ってくれるよ。なんて言っても、」
「キョウカがいるなら、何処でも構わない。この世界でなければ—————」
蒼炎を纏う槍を造り出し、左目に炎を灯す。青く輝く視線に射抜かれ、鎌首を悠然と操る存在には見知ったものがあった。生命の始まりであり、終わりの終着点で世界を喰らう竜を思い出す。命そのものを喰らう存在にも匹敵し兼ねない太陽をその身に宿す蛇へ、矛先を向ける。
「うん。いけるよ、あなたしかアレを砕けない———私には出来なかった」
「嘆かないでいい。必ず、俺が撃ち落とす」
純白の海から受け取った力は、青い炎と槍だけではなかった。
天空を焦がす蒼炎を槍に付与し、黒い太陽へと向ける。だが、振り落とす相手は違った。大量の質量を持つ校庭を渾身の力で焼き尽くす。校庭全域を巻いたとしても炎は勢いを留まる所を知らなかった。背後の中庭へ続く緑道の樹木を喰らった暁には、その質量以上の背丈を得て近場の窓ガラスを砕き、校舎内へとなだれ込む。白かった建物は青く焦がされ、たちまち支えを失い轟音を立てて形を失う。全てを喰らったとしても終わらない破壊の手に、何処かに残っていた人間の悲鳴が響く。目と閉じ、賛美歌のように鼓膜を傾けた。自分にとって、やはりこの校舎は特別ではあったが、情愛という感情は持ち合わせていなかった。
「崩落するぐらいなら、全てを喰らってリソースにする。味は最悪だけど、俺は今世界を喰らった。そして世界を破壊した————これで足りる。これで、あの蛇に届く」
腕と胸の中にキョウカを収め、世界を喰らった代償に得た———空を駆ける戦車を呼び出す。
世界の底を覗かせていた校庭は砕かれ、真下から現れた白い道へと自分達は足を乗せる。白い道は使用者の意思のままに行先を決め、空でこちらを見据える蛇へと一直線にその身を伸ばし、瞬く間に自分達を空へと誘った。そして風を全身で浴びながら、徐々に縮んでいく校舎を見下ろした。腕の中から眼下に広がる、世界であった者の破壊、崩壊、崩落を見据えたキョウカが強くしがみ付いた。
「怖いか?」
「うんん。全然、だってあなたがいるから—————別の私達は、どうなったのかな」
「‥‥きっと別の世界を辿った。今の破壊を邪魔しなかったんだ。もう、何処にもいない」
彼らも、抗えた筈だ。男神と女神の合一化を果たした、自分達とは違う解脱を果たした神仏そのもの。世界に対抗する光を持った俺の対、世界を救済する光を生み出す力の持ち主達ならば、もう一度自身の力を移した化身を生み出しても不思議ではなかった。だから、消えている。
螺旋状に織りなす白い道の先、巨大な太陽そのものである蛇の眼光を正面から見返す。
表情の無い黒い貌の蛇は、自身の生まれた意味を果たす為に観測側と取引を交わした。人間では耐えられない膨大な時と時の彼方、世界開闢の瞬間から終焉の時間までを余す事なく視界に収め続ける蛇にとって、このたったひとつの世界が崩れ去るなど驚くに値しない————けれど。
「蛇は砕く。この世界から脱出、観測側の境界に侵入する為に。だけど殺す必要まではないんじゃないか?」
そこで口を噤み、目を閉じてしまったキョウカが小さく頷いた。
あの蛇は世界と世界の継ぎ目を守護する境界線の主。自分達にとっては看守とも映る存在ではあったが、同時にあの蛇がいたからこそ世界は成り立っていられた。そして、堰塞の蛇が見据える世界は、自分達がたった今まで足を付けていた校舎ひとつじゃない。
「‥‥そうかもね。だけど、他の世界も碌なものじゃないんだよ。沢山の私達はみんな心を砕いて観測を続けている。私は特例なんだ、だって感情をここまで色濃く保持しているなんてあり得なかったから。————あんな物、世界の奴隷と変わらない。だから、観測され続けている世界も全部、」
「キョウカ、どうして俺達が今まで存在していられた?」
「—————可能性の問題として、私も何度も考えた。私達と同じような解脱者を守る為に、わざと感情を殺してるんじゃないかって。でも、そんなもの全部終わらせて上げたい」
腕の間から見上げる目元に指を当て、そっと涙を奪う。
知らない筈がなかった。長く、きっとあの蛇にも匹敵する時間を過ごしてきたのだから、何かの拍子で連続する同位世界の知識を得てしまっても。定期報告をも行っていたかもしれない。
「だけど、奪っていい話にはならない。確かに、必ず世界は狂う。善人が生まれるまでもなく、悪人と狂人が蔓延る—————いや、善人の裏側から悪が析出する。それも多くの。だけど、俺は抗い続けている俺達を見捨てたくない。まとめて火にくべたくはないんだ————だって、俺達みたいな出会いすら許されないなんて、余りにも寂し過ぎるから」
衆人の奴隷となる前の自分は、最後の最後まで抗っていた筈なんだ。
親に売られ、見世物にされようと。友人達に騙され、穢され侵されようと。信じてきた同志達、救ってきた人間達に差し出され、最後の瞬間まで死と痛みの恐怖に苛まれようと。
それは無感情だった代償だ。何も考えず、生きてきた報いだ。そう叫ばれれば否定は出来ない。抗ったのではない、それしか知らなかった卑怯者だと断罪されれば、何も言い返せない。
「キョウカ、やっぱり俺はひとつの世界しか破壊しない。蛇を砕く、だけど命までは奪わない。最後に裏切って酷いと思ってくれても構わない、向こうに行った暁には————暁には、」
「別れるとか言わないから。それに、私もあなたを最後の最後で裏切った。殺した————うん。やっぱり、あなたは私の思い通りにはならないんだね。そういう所が、私は大好きなの」
白い校舎の外は、黒い影に覆われていた。あらゆる物質、現象、概念が途絶した終わった領域。形ばかり残っているのは、あれも世界の一部だから。誰に喰われる事もなく、腐り、灰となり、ただそこに佇むのみ。自身に振り下ろされる終わりを待ち望んで見えた。
最後に学校を一望した時、思い浮かんだ形状は一輪の花。曼珠沙華─────美しき終わりの花だった。自分達は巨大な花から生み出され、花弁の上にて死と生を繰り返したいたのだと、顔を背けた。
白い道は雲を突き抜け、残された青い空へと自分達を連れ去った。空と宇宙の境目、大気圏内外の中央に、その蛇は自身の身体を用いて宮殿を作り上げていた。黒一色に見えたのは、発する光が余りにも強すぎたからだった。長い首を持ち上げた蛇は同じ位置、同じ次元に到達した俺達に対して、自身のその身を、白と金の装飾で飾られた純白の蛇へと真の姿を晒した。
到底、人間が抗える存在ではなかった。
世界を覆う、世界から雨を奪う、世界を乾上らせる強大な蛇。世界の全てを一口で嚥下する顎門を持つ姿には畏怖だけではなく畏敬の念をも持たせる姿は、荘厳であり常軌を逸した力を象徴する顕現そのもの。槍から吹き上がる蒼炎を手に、自分達は蛇の眼前へと白い道を伸ばした。
「あなたが、堰塞の蛇か」
「—————」
「俺達は何も望まない。あなたに指図するつもりもない。ただ、外へと逃げ出す為だけに、此処に来た。あなたの役目は世界を監視し、継ぎ目と境目に壁を作る事だけの筈だ。逃げ出す者の捕食など、あなたはする必要がない―――」
深紅の瞳を携える蛇は、舌先すら見せずに自分達を長く熟視した。震えるキョウカと共に、目を逸らさず一直線に蛇を捉え続ける。青い光を宿す左目と共に、槍からも青い炎をはためかせ————さもなければ、お前を始末すると示し続けた。そして、ようやく蛇が動きを見せた。
まるで少女のような声で。
「その力、何処より飛来した。或いは、何人から授かった」
「‥‥白い海、虹色の極光に覆われた世界。水晶の大樹の袂にて、世界の主である竜より」
「————不思議な事もある。アレが手を貸すなど。長らく続いた戦乱に、アレは終ぞ狂ったと判断したが、未だ一握の理性は残っていたとはな。それとも、人間という矮小な姿が————ほう。貴様、神々の王の倅か何かか?なればこそ、納得も出来よう。海の主を喰らった事で、記憶を受け継いだか。しかも、果実を喰らっていながら自身も砕けぬとは、なかなかどうして良く出来た織物よ——————何も望まぬと申したな。何故だ。何故抗わぬ。何故私に挑まない」
美しき白蛇が、何故かと問うてくる。たったそれだけだというのに、生命の奥底に刻まれた本能が警告を示す。不義を働けば喰われる、無礼を察すれば噛み砕かれると。
「世界の壁の主は。この私だ。なれば壁は私そのものでもある。我が肉体、易々と預けると思うかや?答えろ。私に挑まず、私の視界を潜り抜ける意味を。如何と申すか」
声を発したのみで、自分に対して与えれた言葉のみで、残り少ないとは言え世界全域を震わせた。雲さえ、その身から逃れる光景は神と相違なかった。校舎の全員全域をくべた自分だとしても、到底敵うとは思えない。直接相見えたのはキョウカも同じだったようだ。
「‥‥‥俺達は逃げ出す為に解脱者と成った者。あなたと契りを結んだ者達にとって、許し難い存在かもしれない。だけど、そもそもこの世界は解脱者を輩出する為の機構。世界とは似て非なる実験場だ。なら、解脱者が通る道が用意されていても不思議じゃない。俺達は、その道を通る資格がある。この世界に残された最後の人間として、通らせて貰う。────門番としての役割は、持っていない筈だッ!!」
元は人間だった自分とは明晰に異なる生まれを持つ、神にも匹敵、そして苦しめ甚振る堰塞という奪う概念から降臨した蛇は鋭く目を細める。蛇の一挙動一挙動で自分の終わりが肉薄する気さえした。再度、まぶたを開いた蛇は牙を覗かせ言葉を吐き出す。
「確かに、私は門番の役目など担っていない。欲していた筈もない————私は、ただ閉じ込めるのみの歯車だからだ。そちらの言う通り、解脱者に対して開かれた道は存在する。そちらの言う事は正しく、解脱者ならば道を通れよう。忌々しくもあるが、そちの中には私の頭を砕いた王がいる上、私の—————これは必要ない。私は、答えの在り得ざる難題は殊の外嫌いでな。その力、破壊神の系譜であろうとも、未だこの身には届かず。行くがいい————」
白い道へ繋がるように、白金の階段が天より降り注いだ。
お眼鏡に叶った様子ではなかった。見逃されたが正しい。緊張の糸が切れた訳ではない、安堵の息が吐ける筈もない。未だこの世界は存在しているのだから、これが罠である可能性も捨てきれない。踏み出せないのはキョウカも同じだった、ふたり顔を見合わせる余裕すら持てない。
そして、最初に踏み出したのはキョウカの方だった。
「ひとつ、ひとつ聞かなくちゃいけない。今までの解脱者も、ここから逃げたの」
「求めるのなら、その代償を支払って貰う。いや、そちらも神の末裔か。誠、神との交渉の席になど着くものではない—————この世界には、そちらと同じ男女の一組だった。先んじて私の眼下を素通りして壁を越えて行った。では、こちらからも伺おう」
次の一歩を踏み出す直前だった。その巨体からは信じられない可憐な鼻息を吐いた。
「そちは、あの者達の許可も得ずに我が壁を超越せしめようと画策している。世界の創造主から逸脱するは、宇宙の理から身投げすると変わらず、我々も神から産まれ落ちた物数多。しかして、須く逆らった者灰塵と帰するが道理であった。そちらよ、その裏切りは何処から生まれる欲望か?此処で終わりを迎えるでは、足りないというのか?」
先程の言葉が頭に残っていた。俺は破壊神の系譜だと口を衝いている。自分の中に生まれた力の深層の底は、何者をも逃さない浄化の炎であった。そして、もう一つキョウカとの誓いの言葉が頭に過った。
浄化という言葉は、そこから見出した自分達の到達点であった筈。ならば、俺達は自ら終わりに近付いているのではいだろうか。破壊神の炎と海より生まれた魔族の終わりは、破壊神の手によって下された。
─────堰塞の蛇。雨を呑み干した蛇の意図が計れない。今、何故このタイミングなのかと。
「あなたは、一体何が見えている。どうして、此処で死ねと言うのか」
「私は、多くの世界を堰塞し観測し続けた。世界と世界の狭間を越えるは、そち達が初めてではない。私の目を盗み、逃げ出した者達は多くいた。悪魔、邪神、獣、死神、そして解脱者。それらは皆逃げ出せたと大いに喜び勇んだ。しかし、私は見ていた。死からは絶対に逃れられぬと。生命の灯火を使い果たし魂となって一へと戻ることさえ叶わぬ終焉は、誰もの頭上より降り注ぐ。そちが零に至ったは理解している、だが──────死の恐怖を先伸ばした結果、生きとし生ける者、あらゆるが狂い果てる。丁度、その従者と同じく」
腕と胴体にしがみ付くキョウカの頭を抱き締め、言葉を潰す。
「私の力は魂の一欠片すら逃さず。流動する生命を一つの世界に押し留め、新たに分配される創生の力により、また新たに産まれ落ちる。そち達が生まれた世界、確かに砕け散り最後の断片も火と水に帰った─────何故、それ程までに一つの生に拘るか。再度構築させる世界で、次の終わりまで重なるは可能な筈だ。何故、それ程までに今の関係の持続を欲するか。それ程に一へと帰るが恐ろしいかや?」
蛇の言わんとしている事に、ようやく理解が至った。
死はどの世界に居ようと、必ず降り注ぐ。抗いようのない完全なる終わりは、すぐ隣で首に値札を付けている。自分は、この世界が擦り切れるまで一へと戻り続けた。何故、それを今更忌避するのか。創生の力にも思い当たる節がある。何故なら、自分の中でそれが鼓動しているからだ。
この力が、枯れ果てた世界に新たに注がれるのなら、世界は息を吹き返し再始動する。
「‥‥‥もし、もし答えなかったら、どうなる」
「────答えよ」
鎌首を支え、興味深そうに顔を覗き込む蛇へ振り返ると同時に、僅かに息を吐き、胸の中で顔を隠しているキョウカへと語り掛ける。それを聞き届けた恋人が頬擦りでもする様に頷き、二人一緒に蛇へと相対する。自分よりも数次元上に在る神以上に神そのものへ視線を傾け、口内を唾液で湿らせる。
「確かに、この世界で新しく産まれ直せば、今度こそ救世主として生誕できるかもしれない。誰をも救え、誰もが笑顔で善人になれるかもしれない。悪として生まれた人達も、衆人への教えに必要となる。あらゆる人間の営みを学び、人間の限界を理解すれば、清濁併せ呑む理性ある人間社会を、目指すべきなのかもしれない─────だけど、俺はもういい。もう飽きたんだ。同じ事の繰り返しは」
「うん、私もいいや。もう、この人の隣で悪を囁くのは止める。そういうの飽きたの」
微かに、しかし自分達からすれば大いに顔を傾け耳を澄ませた蛇は、それ以上続かない言葉に首を持ち上げる。全てを超越し、全てを苦しめた魔の本懐とも見えていたが、その実、この蛇も自身の生まれ持った役割に疑問を持っていなかったらしい。或いは、楽しんで自身の力を振っていたのかもしれない。
「飽きた?それが理由で、己が生まれから解脱するのか」
「六道を経験し、いずれかの世界で悟りを開いた覚者達も揃って言うと思う。飽きたから解脱したって」
蛇が混乱した瞬間、白い道に繋がっていた白金の階段が崩落していく。蛇の言う通り、解脱者が通る道は存在している、けれど、蛇にとって解脱者が現れようが現れまいが何方でも構わない。多く在る世界の中の、たった一つの出来事に過ぎないのだから。そして、その道を蛇が操れるのも違和感を覚えていた。
だとしても、俺達は通るしかなかった。罠とわかっていても、誘われるしかなかった。
「堰塞の蛇よ。この世界の外は、今どうなっている。質問に答えたのだ、何か対価が欲しい」
長らく沈黙していた蛇が、ふむと質問者たる破壊神の系譜に目を向ける。
「成程、あの竜が手を貸す事はある。私と問答を交わし、外への疑問を臆面もなく聞くとは。外への扉は誰もが待ち望む事象なり、そち達が世界へ反旗を翻したが直後、私に直接交信を試みる者達が多くいた。私の役目は世界の堰塞こそが主軸、監視は副次的なものに過ぎない。観測場の外など知らぬわ」
知らぬと判じていながらも、多くいたと説明された。外への扉の意味が分からず、キョウカへ目を向けるが首を振られた。キョウカも、この世界に囚われていたのだ、不要な知識は奪われていても不思議じゃない。その扉とやらが、俺達が踏み出した瞬間生まれるのなら、きっとその袂には多くの人間がいる。
「敵、だと思うか?」
「私達は、別世界から訪れる侵略者。悪意であれ善意であれ、全員が敵になり得る。しばらく身を隠すつもりだったけど────想定外だった。気付かれてるのは知ってたけど、まさか観測者達以外にもなんて。いえ、だけど私達は解脱者として認知されてる、敵もいるけど保護をして関係構築を望む人間も」
全てを言い終える前に、苦虫を噛み潰したようの顔をした。前に自分が言った、そうあって欲しいという願望は持たない方がいいという意向を思い出した様だった。
「‥‥最悪の場合、俺が」
「それじゃあダメ。────信じられないかもだけど、あなたに匹敵する力の保持者がいると思った方がいい。それも、明確に私達に敵愾心を持った者が。まさか、これを伝える為に‥‥」
信じられない物でも見る顔で、蛇を見つけたキョウカが声を絞り出す。
それに対して、何も答えず沈黙を続けた白の蛇が首を伸ばした。まるで山が動いたと錯覚する轟音、空を歪める大質量の行動に、白い道の上で二人で耐え忍び、蛇の身体から放たれた鉄風を受け続ける。
そしてようやく過ぎ去ったと目を開いた時、蛇は空の彼方を眺めていた。
「これで良かろう。いや、答えなくても構わない。そちらの化身は、確かに私達の試練に打ち勝った。そちも何処へなりとも去るがいい。その半身と共に。私も、久しく活動出来なかった、まさか首元に突き付け交渉を始めるとは。ますます、神との交渉が嫌いになってしまったわ。帝釈天の因子よ」
まさかと思い、蛇の視線の先を望むが、其処は青く煌めく星々が見下ろすばかりだった。大気圏外が青紫に縁取られ、青黒く彩られている。空の向こうは、これほどまでに麗しいのかと脱帽する。ずっと校舎の、あの部室の空しか知らなかった所為だ。星々とは、あんなにも自由で美しいのだ。
「‥‥俺達と戦ったのか。俺よりも、強いのか」
「答えるまでもなかろう。ああ、見事にしてやられたわ。お陰でこうしてとぐろを巻くに押し留められる程だったのだぞ。あの金剛杵を二度も目にするとはな。ああ、ここまで敗北を喫したのは、頭を砕かれた時、そして───あの光景は思い出したくもない。忘れやれ」
痛めつけられた身体を気遣い、身体を丸めていたとしたら、自分はあの二人には絶対に敵わない。
破壊神の系譜と呼ばれた槍が細く見えてしまった。最後の最後で、自分の本体に救われてしまうとは。
「────堰塞の蛇。この借り、返したくはないか?」
「あれらが逃げ去った世界は、真なる外の世界。多くの貴き物、私も含めて神々にも開かれた、恩寵と恩恵が入り乱れる強欲の世界だ。そして観測者供の棲家でもある。そちらの願う、解脱とは違う結果に到達してしまう。私は、交渉を違える訳にはいかない。そちらは、楽園へと誘うと誓ったのだ」
「いい、教えて。そして私達を誘って─────ここまで来て、最後の最後に救われていたなんて気に食わない。それに選択肢には入っていたから後悔はない。私も自分の主、オリジナルへは恨み言の一つも百も持ち合わせていたの。私達を待ち望んでいた連中には悪いけど、殺し合いを続ける事にしたから」
腕が軋むほど強く組んだキョウカが、顔を見上げた。構わないよね?と。
「行こう。俺も一言言ってやりたくなった。それにキョウカが居る場所が、俺の居場所だ。────俺達は、やはり争うからは逃れれない。借りを返したら、今度こそ幸せに成ろう。結婚しよう」
「‥‥うん、私もお嫁さんに成りたい」
仕方ないと、そして楽しげに口角を上げた蛇がその身を伸ばしきり、空を縫う様に突き進んでいく。移動の余波のみで身体が吹き飛ばされそうになるが、キョウカと二人強固に、一体化するが如く同じ方向を眺めた。そのまま天へと昇る蛇を追い、宇宙にまで到達した時だった。
「イツキ、私達はずっと一緒だから。アムリタだけの縁じゃない。ずっと先も、私、あなたが、」
「告白するのは俺の役目だ。キョウカは待っていてくれ。必ず俺から好きになる。必ず、好きにさせて上げるから」
「ふふん♪ざぁーこ。知らなかったの?実はね、本当はね─────私から、あなたを────」
異世界へと降り立つ痛みが全身に走る。変換される細胞の全てが悲鳴を上げ、視界が白みがかっていく。一つの世界で彷徨う魂の数は決まっている、それを己が欲望の為に侵入するのだ、全身を燃やし尽くす程度の激痛、予想は付いていた。それはキョウカだって同じ筈。しかし、自分達にはアムリタが在る。
どれだけ魂と身体を奪われようが、自分達の存在は修復される。燃やされながら再生する痛みに気を失いそうになる。蛇の背を眺め、キョウカと共に寄り添い合いながら─────青い星を見つけた。
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