12話 ————革命への進行————
キョウカと共に駆けた。白い小さな手を握りしめ、二人で足音を立てて。
教育委員会の人間は恐れ慄き、餌を求める魚の如く口を開閉────見苦しいから殺した。
追手たる教員、独占インタビューでも仕掛けようと働いたメディア────邪魔だから殺した。
本来ならば閉鎖され、一人たりとも生徒は入れないというのに、校舎内には自分達二人を視認した途端に襲い掛かる同級生達が跋扈していた─────鬱陶しいから殺した。
血と脂と内臓と骨片と。腕と足と肋骨、散らばる皮膚は一体何処の部位だったか。
咽せ返る血の匂いに鼻が痛む。そして酸味を感じる匂いも辺りに蔓延る。これはきっと胃液だ。消化液とは意外と緑らしい。踏み付ける気も起きず、無視する訳にはいかない膨大な量だった。
だから燃やした。青い炎に焦がされた肉塊達は、たちまち灰へと変貌。血も蒸発する。
顔をしかめる気も起きなかった。言葉遣い、意識、欲望、どれもこれも取るに足らない。自分に差し向けられた欲望の数々は根幹を見渡せば、どれもこれも同じ。快楽だ。
肉体の快楽、安寧の快楽、発散の快楽、美食の快楽、渇愛の快楽、掌握の快楽、統制の快楽。
美しい事この上ない。純粋無垢な我欲の、なんと傷一つなき有様よ。これさえ満たせば、自分は必ずや救われる。この鬱屈さえ解放すれば、必ずや自分は救われる。そう言って憚らない。
「何もかも満たしてやった。何もかも与えたやった─────本当に、全てを」
「結局救われなかったね。あなたも人間達も。救世主なんて、誰も求めてなんていなかった。ただただ刹那的な快楽さえ満たしてくれれば、誰でも良かった。刹那的だからこそ瞬間的に憤怒する。一瞬一瞬の捌け口が欲しかっただけ─────誰かが言ってたかな。カッとなってとか、つい魔が差して、とかは存在しないって。皆んな、自分のしている事を理解して振る舞ってるの」
「生きづらいし、救い難い。ああ、きっと俺が為すべきは奴隷だったんだ。支配者なんて求めていなかった、聖者も賢者も、邪魔で邪魔で仕方が無かった───奴隷として生きて来たのは、こういう事か。皆んなが求めている救いは、自分の求める通りに働く奴隷」
「そして、たまに反抗して躾を施せる奴隷。楽しいんだよね、正義と慈愛の拳を振るうのって」
戻った部室の天井、星々の位置が記された狭い空こそが自分達にとって相応しかったのだ。喰らえば喰らう程、知識と快楽を得れば得る程、際限なく欲望は暴食と成る。知らなければ、救われなければ─────いいや、この世界は終わりへと落下している。いつか誰かが気付いた筈だ。
『なんだ、こうすれば楽しいじゃないか。気持ちいいじゃないか。なら、皆んなに教えよう』
「俺は、要らなかったんだ」
「そう思う訳?」
「そもそも必要ないから自然と産まれなかった。化身として生を受けなければ、産まれなかったんだから。もう終わりで良いって、海に帰ろうと決めてた」
繋がりが切れた、あの神仏はどうしたかったのだろう。抗いたかったのか、否定したかったのか。本当に救いたかったのだろうか。自分達二人の合一神、男女神は解脱を成した彼らは。
「話したんでしょう、私達と。なんて言ってたの?」
「俺とあなた達は違うって言ったら、逃げる卑怯者の末路は知ってるだろうって。だから、自分達はこの世界に留まってるみたいだ。自分に成しえなかったから、俺にさせたがって」
「多分、違うよ────要らなかったていう所も含めて」
心臓をひと刺しされた気分だった。ぴしゃりと言い切った彼女の顔を見上げる。
「なんの為に、化身って生まれると思う。人間を救えるのは人間だからだよ。人間を救う為に、人間であるあなたを遣わせた。ふふん、じゃあ質問、お前は誰を救えって言われた?」
「誰って、誰にもそんな事‥‥」
「本当に?この世界の人間達を救えって、最後通牒もされなかった?されなかった感じだね。じゃあ、最後になんて言われた?言い当ててあげる、愛を捨てて逃げるのかって言われた、違う?」
自分達が憤怒していた理由が判明した。
あの神仏は、キョウカを置いて逃げるのかと言いたかったのかもしれない。太陽を模す黒い蛇を打ち倒せば、自分達はこの世界から逃げられると考えていたが────まさか違うのだろうか。
「疑問に思ったかもしれないけど、とりあえず空の蛇さえ砕けば私達は外の世界に逃げられる。崩壊寸前だからこそ、この世界の境界線は揺蕩っている‥‥私とあなたが合一化すれば確実だった。だけど、もう間に合わない。次の巡りはもう無い」
「本当に、俺達で逃げられたのか?」
「────あなたを主体にすれば、もっと堅実だった、かも」
「元々、この世界に君の席は用意されていなかった。監視側から当人として、この世界に留まれば次の世界では消えていたかもしれない、そういう事か」
大事な部分を除いていた恋人の抱き締め、次の言葉を失わせる。
あの存在は、きっと最後の一歩を踏み出せなかった。最後の世界へと踏み出してしまえば、キョウカは失われていたかもしれない。何処かのタイミングで彼らは神仏となった─────自分のキョウカを失わせない為に。だから、人間の化身を創り出した。
キョウカという人間を救えるのは、イツキという人間だけだから。
「いつ、この世界は実験場に選ばれた。何方が先だった?」
「ん?勿論、実験場として起動されてから、『今のあなた』が産まれた。最初の内はさ、この校舎だけじゃなくて世界の始まりから終わりまでをシュミレーションしてたんだよ。だけど、何度も続けた結果、あなたという存在が産まれて、確固たる解脱者として目覚める瞬間のターニングポイントは────この学校だと判明。不思議とね、あなたが世界の救世主と成るのは決まってたの。いつの頃からか、あなたは皆んなの生贄として在り方を変え────此処からは秘密」
惜しかった。気付かなければ、いつの段階でキョウカが接触して来たか分かったのに。
どうやら、自分の本体は最初から世界を救える資質を持ち合わせていたらしい。
「生意気過ぎ、雑魚のくせして。でも、これだけは教えてあげる、間違いなくあなたから私に告白した。─────別の選択をした私達が次の世界に移行する直前、あなたを化身として造り替えたなんて。何も知らなかったのは私の方だったんだね。最初から私はあなたに出会う運命にあった────」
初めて見る光景だった。顔を朱に染めた途端、見るなとばかりに頭を抱えられる。
自分は元々救世主として世界に産み落とされた。自分の本体───元は人間であった神仏の自分は、『衆人の救世主』となったタイミングでキョウカと出会った。その後、数巡を過ごし、世界の終わりへと直面。『衆人の奴隷』と成った時、解脱を志し、神仏として完成してしまった。
だけど、合一神となったのはキョウカを失いたくなかったから。きっと『この俺』に賭けたのだ─────人間としてキョウカを救わせる為に、『衆人の奴隷』と成った瞬間に純白の独鈷杵を与え────最後より一つ前の世界で、あの部屋から逃げ出す勇気を与えた。
「本当に、俺は君が、キョウカが好きだった────キョウカを愛してる」
「あっそう。とっくに知ってるから────私も同じだから‥‥」
神仏にさせたくなかった。人間のまま生きて欲しかった。だから、世界を守って欲しかった。
あの独鈷杵を用いれば、何かしらの手段があったのかもしれない。手立てを残してくれたのかもしれない。だとしても───この世界を焼き尽くす労力を使えない程、自分は愛想が尽きていた。
「一緒に逃げよう。俺達も、愛し合いたい」
やはり、正面から伝える行為が一番響くようだ。出会った頃からの狂気は変わらずだが幼い顔付きから繰り出す、こそばゆそうに顔を朱に染めて伏せる行為が愛らしくて仕方ない。
「わ、私と愛し合うのはずっと決まってたんだし、当然じゃん‥‥ざぁこ‥‥」
黒いパーカーに頭が誘われる。自分のペースを取り戻すべく、しばし呼吸を整えたキョウカは雑誌を手に取って、何やら独り言を始めた。なんだ?と思い、近過ぎる表紙に目を向ければ─────恋愛、落し方、セックス指南という文字が踊り、成人女性向けの題材が取り上げられていた。時折見せ付けられた、手慣れた仕草の教唆者が、此処で判明した。
「なんで、なんでこんなに違うの。言われた通りすれば、向こうがドキドキするって書いてあるのに。状況を楽しむべし?楽しむって何を────籠絡した恋人との特別な時間?」
その後も矢継ぎ早に繰り広げられる悶々としたキョウカの吐息に、心臓を鷲掴みにされ、細い腰へと腕を伸ばす。試しに腰から下、臀部を軽く握ると小さく悲鳴を上げるが、文句も言わずにまたも雑誌に戻ってしまう。誰とも触れ合えない観測システムたるキョウカは、新たな知識にご執心であった。
そして、一秒にも満たない長い時間を過ごした後、
「うんうん。これで完璧、私は愛される側。元々、何もしていなくても告白される美少女なんだし、怖がる必要なんて無かったんだから。私を求めて止まないのは人間達の性、その中のひとりを落とすなんて簡単、うんん、何もしなくても堕とせた!!」
と、納得した様子で唐突に立ち上がる。何事だ?と弾かれた自分が目を向けると、手に持っていた雑誌をテーブルに投げ捨て、あの瞳を新円に開く笑みを浮かべる。
顔を真一文字に切り裂く、悦に入った微笑みは恐ろしくあり、掴み取りたい、自分の物にしたいと執着させる魔性の貌であった。とかく自分はキョウカに惚れていた。
「知りたくない?私が、あなたにアムリタを喰わせた理由」
「————ああ、知りたい。合一化するだけが目的じゃないんだろう」
「そう、じゃあ正解を教えてあげる—————まず最初に頭と胴体に染み込んだ二つのアムリタの内、胴体は私が喰らってお腹にある。そして頭はあなたが喰らった。教室の死体を通してね。前にも言った通り、この校舎こそが世界の中心にして、最後に残された須弥山。少ないソースの全てを喰らってでも力を得なければ『蛇』にはまるで届かない。それに私が入手したアムリタは零と一で造られたデータでしかないの、よって唯一馴染ませられたのが、あの死体達」
所感として想像していたが、いざ正解だと言い当てられると目の前の全てが違って見えていく。この世界に残された少ない資材の数々の内、限りある書物を先程まで貪っていた。その上、この狭い天井の星空が、外の世界を正確に記す最後の手掛かりでもあったなんて。
「確かに、さっきあなたが言った通り。二つのアムリタを用いたのは男女神へと昇華する為。だけど、この最後の世界へと移行する瞬間、あなたは何処か遠くに飛ばされて離れ離れに成った────最後の手段だったの。私達のアムリタは、お互いを惹き合う。運命みたいに」
そこで説明を終えてしまった。終わり?と首を捻るが、当のキョウカは真剣な表情を崩さない。いつの間にか、あの笑みを終えていたキョウカは、肩の荷が降りた様にソファーへと戻った。
「あ、アムリタを使った理由は?」
「‥‥離れ離れになっても、また会える様に‥‥」
ぽつりと呟いたキョウカが、フードを深く被って顔を両手で覆う。
頭と胴体に染み込んだ二つのアムリタとは、神々に紛れ込んだアスラの一人。乳海攪拌によって生まれた不老不死の薬を独占した神々の一人として装い、薬を奪ったアスラは月と太陽に告げ口をされ神の一人の一撃により、首を落とされる。そんな存在がデータとして漂っているとは。
「監視側から配られた?」
「んーん。奪ってみせた────この話は終わりでいいじゃん。そろそろ来るよ」
扉のドアノブが破壊され、足元に転がり落ちる。人間の骨格を大きく越す異形が、我先にと部室に入り込もうと試みる。しかし、扉が小さかった所為だ、肉が詰まって身動きが取れていない。巨大な牙を剥く顎ばかりを開き、唾液と血液を迸らせる。見応えのある光景だろうか?
「醜いな」
右腕から蒼炎の槍を引き出す。世界を破壊し得る神を模倣、或いは破壊神への入り口に立った自分は左目を青く輝かせる。授けられた力であるのは変わらない、しかし、これは力の供給ではなく紛れもない自分の命。全てを灰塵に帰する矛先を、軽い調子で飛び出した異形へと振るった。
両断される腕も気にせず、むしろ代償とばかりに疾走。首元へと牙を立てる。
これで仕舞いだ。ようやく喰えた。この身体に走るアムリタを奪える、復讐を終えられる。
「卑怯者ッ!!逃げた報い────」
頭が焼け落ちる。次いで首、胸、腕、胴体。終わりに足首までも蒼炎に包まれる。
日光を受けた吸血鬼よりも後を汚さず、恨言も残さず消え去った。この光景に慄いた、今も扉で詰まる肉共が挙って逃げようと身を退く。しかし、肥大化した身体が邪魔で動けていなかった。
「逃げたいのか?なら───手助けしよう」
槍から放たれた炎に包まれた異形が、この世界から排除、破壊されていく。キョウカとの誓いの言葉を思い出す。この光景は紛れもなく浄化であった、その上異形達が理解し、畏怖、媚態を示していく。一瞬の出来事に腰を抜かした異形が命乞いを始める、ひとまず逃げて体勢を整えようと叫ぶ異形、何事かと混乱する異形。酷く醜い情景だった、自分を求め喰らいに来た者と同じとは思えない────だから、視界に収めた。
蒼炎に閉じ込められる。数も巨大さも、知能も知識も変わらない。皆一様に荼毘に伏す。
屋上へと続く踊り場を覆っていた異形達が瞬時に消える。青い極光は誰一人逃さず、区別も差別もせずに浄化を施していく。これが世界の終わり、次がない我々は皆等しく閉じられる。
部室から姿を晒し、吹き抜けていく灰を浴びる。破壊された屋上の扉から風に乗って漂う灰には、香りも味もしない。もはや肉も血も必要なかった。意識すらも───生命さえも。
「ねぇ、これだけでいいの?」
後ろから背中を抱かれた。
「あれだけ殺されたのに。私知ってるよ、あなたが女の子の時もあった。酷い扱いをされてた、奴隷なんかじゃない。人形以下、ボロボロになって、子供も産めなくなって。最後は────」
「もう終わりなんだ。本当に、これで終わり。前の俺が許さなくても、次はない───復讐を果たしても見せ付ける相手もいない。‥‥ありがとう、俺の代わりに怒ってくれて」
きっと、その子はキョウカにとって特別な子だった。
「俺の望みは、この世界の救世」
「────そうだね。沢山のあなたは、皆んなそう言っていた。そう言って、私を一人にした。終わらせよう、あなた達を存在意義を果たそう。───トドメ、刺しに行かないと」
飛び掛かる異形を槍で突き刺し、灰と変える。
何が起こっていたのか理解した者から去っていく。背中を晒し、悲鳴を上げて逃げていく。
「浄化しないの?」
「‥‥会いたい相手だっているんだ。どれだけ罪に塗れていても、これで最後だから。俺達と同じ───行こう。時間はまだある。俺の罪の清算、決着をつけないといけない相手が、二人がいる」
思い出したのだ。見付けなければならない相手がいると、代償の精算をしなければならないと。
俺を使い/俺を使わせ、最も救われた/最も救った二人がいる。救世主たる自分の両親は、王と王妃の如く振る舞っていた。誰に嗜められても、気に求めずに人々に手を掛けた。
世界で最も救われた餓鬼。救われてしまった両親。例えシュミレーターの中だとしても、この世界は自分達の全てであった。世界を願望通りに貪った、最後の最後まで救われた二人を。
「キョウカ、俺はこれから親を殺す。あの二人だけは見逃してはいけない、隣にいて欲しい」
この期に及んで、自分は雑魚だった。
この手は既に血塗れ。今更、何者の血を浴びたとしても、その重みは変わらない。けれど。
「最後の救世を見ていてくれ。これで、俺の意義は終わる。見届けて欲しい───」
直ちに言葉を発する事はなかった。
そして深く、静かに頷いたと背中に押しつけられる頬で理解した。
「私の存在意義は世界の循環維持。私にも見届ける責任と義務がある。恋人としても。遅くなちゃったけど挨拶しに行こう‥‥。私達は幸せに成るって。遠くで孫も産むって」
やはり親子だった。これも造られた関係、一つの箱に収められた偶然の産物だとしても。例え、この数千回、家と呼ばれる建物に帰っていないとしても。自分達が向かいたい場所は同じだった。
「実はさ、この食堂って初めて入るの。まぁ、学校に侵入出来たのも最近だから当然なんだけど」
逃げる者、怯える者、乞う者。そして挑む者。校舎は結果的に静寂に包まれた。血も残さず、灰と成る者が多くいた。浄化から逃げ惑う者。浄化に怯え発狂する者。浄化を乞い願う者。
浄化から逃れるべく、蒼炎の破壊者に挑み愛する者を守ろうと画策する者達。
「俺は何度か入っていた筈だけど、久しぶりな気もする」
誰も彼も皆等しかった。生命の重みに価値はなく、ただ燃やし終えればそれで終わり。今後、どれだけの偉業を成し遂げられていたとしても、総じて無価値だった。終わる世界には不要だった。
「でさ、あの人間。教育委員会とかだっけ?信じていいの?食堂で時間を潰してるなんて。今までの世界で、大人って碌な奴いなかったんだけど。まぁ、子供も碌な連中じゃなかったけど」
「同意するよ。大人も子供も正気じゃなかった。───時間は幾らでもある。世界が終わるまで、俺が死ぬまで。消えるまで。世界は、もうこの校舎しかいないんだ。ゆっくり探そう」
「ふーん。それってデート的な?」
「ああ、デートだ」
今までの会話の何処にデート要素があったのかは計り知れなかった。その上、何処へ行くにも腕を組んで、手を握り合っているのだ。校舎デートなど、一つの循環は終わるまで続けている筈だ。
特別な感情を抱きながら、特別何を言うでもなく顔を覗くと。
「ん?どうかした?私の事、好き?」
と、聞いてくる。キョウカのオリジナルがどの様な人物であるかは知らないが、自然とこの様な質問が出来てしまえる程、自分は愛される側だと理解している。だというのに、長い黒髪を梳きながら背中を撫でると、気持ち良さげに目を細める。猫の様な顔をする。
触れ合えなかった。人肌が恋しかった。神の視点で生き続けたキョウカは一人だった。
「綺麗な髪だよ」
「そう、ありがとう。もう終わり?もっと撫でて欲しいな」
本館と別館の間、中庭に設置された緑道を歩いていた。向かう場所は緑豊かな食堂館。ガラスと白いコンクリートの外観を緑で覆う建物は、唯一我慢して居られる場所であった。満足に食事を取れていたかどうかは定かではないが、心の何処かで唯一の憩いの場だと覚えていた。
もはや、自分が何処から派遣されたかも覚えていない教育委員会のスーツ男に、一部始終を聞いた結果────飲食可能な場所であり、時折立食会すらも開かれる公的な場として、件の場所に、自分の両親は居ると答えた。一巡前の世界では、終ぞ足を運ばなかった場所だった。
「見えてきた」
視線で示した方向、中天で輝く黒い太陽に照らされた建物が静かに佇んでいた。
だが、静かだったのは建物そのもの。
耳障りな低い大人の嬌声が響く其処は、魔物の巣窟に見えていた。外からでも分かる王と王妃の横暴な言動には目を覆いたくなる。辺りの大人達、教員に命令を下し飲み物から食べ物までを要求、硬いプラスチック製の椅子の一つを足置きにしていた。
カメラの前では、肩を震わせ涙をハンカチに吸わせていた両親も、今は自分達の息子という『宝』を、世間の為に差し出した聖者として祭り上げられている。見るに耐えない。
「両親っていう設定、だったか」
「そうだよ、両親っていう設定。お腹を痛めて産んだかどうかは関係ない、あの二人はあなたの両親として仮想された人間。ヒステリックな母親は不安定な情緒で、何かと父親に泣き付く。父親は仕事と配偶者からの悲鳴とストレスを、あなたで解消。それを見た母親は、夫をあなたが奪ったと詰る。そして、また父親に泣き付く。────よくある光景だよ。特別なんかじゃない」
強く腕を握るキョウカは、無表情のままだった。世界を観測し続けた彼女は断言したのだから、きっと何よりも正しい。本当に、よくある光景なのだと自分に言い聞かせた。
自分の中を探せば、確かに恨みつらみは存在したのだ。
自分と、そこの子供は他人だと言い放った父親と、泣きわめくのみに徹する母親が、揃って口にした言葉がある—————責任を取れ。お前が全て悪い。私達に、人の前で謝れ。
「なんとなく覚えてる。一度も舞台の上に登れなかったから、どんな舞台でも良いから主役に成りたかった。救世主の両親として登り詰めた事はあっても、所詮は両親止まり」
「救世主に成りたかった訳じゃない。だけど、何でもいいから上に立ちたかった。一番人間らしい人間だったね。あなたは、私以外に誰にも興味を持たなかったのに。不思議な巡り合わせ」
煉瓦床を踏みつけ、食堂敷地内に侵入した時だった。
視界の隅に収まるベンチの上で、たばこを吹かす大人達は世界の終わりなど露とも知らない。そして、目を剥いた者から悠長にカメラを向けた。突き動かされる衝動は人によって違う。
校舎内の教員と生徒らは卑怯者と叫ぶ快楽を。カメラの大人達は第一発見者を気取る快楽を。
「始末は後で付けよう。それよりも終わらせたい関係がある」
あと一息だった。あと数歩でガラスの扉に手が届く。
背後で起るフラッシュと大人達の声。そして、遠くから蹄鉄、鉄柱が地面を踏みしめる音が鳴り始めた。もう遅い、止まらない。血に酔った異形達が、何も知らない大人を喰らい尽くす。
————ガラス扉は意外と重かった。肩を使って押し開けた時、俺の顔を認識した途端に両親は、外用の貌を造り上げる。満面の笑みで教師たちとはしゃいでいた母親は涙を零し、自慢話に花を咲かせていた父親は、机に両手をついて突っ伏し顔を振る。
舞台を目指していただけはある。作り込まれた演技に、誰もが目を惹かれる。この自分さえ、悍ましさに渋い顔をしてしまった。しかし、止まっていた身体がキョウカに引きずられる。
「この私に、アレを義理の親なんて呼ばせる気かよ?」
「————言わせない。俺も、アレが親だなんて嫌なんだ。縁を切ろう」
踏み出した足は止まらなかった。
求められている光景には、察しが付いていた。逃げ出した俺が、悲劇舞台の主役となった両親に首を垂れる事。許して欲しいと言うか、それとも罪を償うと申し立てるか。どちらにしても構わない。教室中の生徒を殺しつくした殺人鬼を、正論で打ち倒す両親の涙が必要なのだと。
下卑た笑いを響かせ、トカゲの如く退いていく教員達を尻目に、自分はテーブルを挟んで対岸で待ち構える王と王妃と邂逅した。この顔は知っている、わかっているな?と告げる表情だ。
ハンカチで目を隠しながらも口元は笑みを浮かべ、突っ伏しながら目を合わせる二人。
「今更何しに来た。逃げ出したんだろう————それとも、謝りに来たのか?」
父親が切り出した言葉に、誰もが息を呑む。もう笑いを堪えられない両親の肩が震え始めた。
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