11話 ————数万数億の一・ただひとつの零————

 瞑想の筈がなかった。心を落ち着かせるなど、自分には不可能だったのだから。

 部室内でも恐れ慄き、手先が震えていた。少女に腹で抱えて貰わねば常に嗚咽を零していた。校舎内の散策など望むべくもない。腕を組んでくれなければ、その場で倒れ膝を抱えていた。

 だから、あれは瞑想などではない。

 現実世界には逃げる場が無かったから心を閉ざしていた、閉ざした自分だけの根源世界に逃げ込んだだけだったのだ。さもなくば、また自害でも計っていた。

 そうやって終えた一巡もあった。それと同じくらい他殺もあったと記憶している。

「哀れだと見るか、白痴と笑うか」

 女性の細腕と男性の分厚い手。膨れた胸と張った肋骨。突き出した掌を拒否した自分に、ソレは自身の身体を覗かせた。骨格そのものは女性が主軸なのかもしれない、しかし、腕の筋肉や腿の張り、鋭い眼光と————隠す気もない殺気の類は、男性の物であった。狂いそうになる、混在する表情がまるで読めない。

 あまりにも、次元が違う存在に萎縮する自分がいた。

「————それとも面汚しと処分する」

 何も言わないソレは、頷く真似もまばたきも見せない。この自分は今までの化身———アヴァターとは類似しない行動、本体に対して疑問を持っている。その上、救世も出来ず、肉欲に囚われた自分など早々に排除し、新たな化身を造り出すが常であった筈。

「何も言わないなら、勝手に話させて貰う。あなたの望み通りに振る舞う気はない」

 何も言わず、ただ佇むのみの本体と視線を合わせ続ける。

「この世界を救う気はない。守られた所で、人間達はまるで変わらなかった。自らが穢した神々の化身に成り果て、救いを貪欲に求めるただの餓鬼共にしか成らなかった。あなたがどれだけ、この世界尊び、望まれて生まれたとしても俺には関係ない。守りたければ勝手に守護をすればいい、俺は解脱させて貰う」

「ならば、何処へ行く」

「俺の勝手だ。あなたの知る必要はない」

「汝が欲した愛も欲も、全てはこの世界から生み出された物。何処へ逃げ出す?」

 嘲りもしない。この世界で生まれた彼女は、この世界にしかいない。仮に逃げ出せたとして、その先で逢瀬を重ねられる彼女は本物なのだろうか。形ばかり似通った、別の存在である可能性が高い。むしろ、別人としか言いようがないのだろう。

「衆人を救えないのなら構わず。救い難いのなら諦めるがいい。けれども、置いて逃げるは望むところではあるまい。我が応身、愛を捨て、その先で愛を求める卑怯者の末路は————お前が最も知る終わり。逃げ出せず、奪われ凌辱される。つらいだろう?」

 無表情のまま語り出す言葉から少女を思い出した。

「あなたが逃げ出せなかっただけだ」

 ようやく表情を見せた。眼球から絞り出される色は、憤怒だ。

「あの子は俺を愛してくれている。数巡前からずっと。自分の想像通りに動かなかった、約束も契約も何もかもを知らない俺を守ってくれた。————同じ世界の別の時間軸にいる個体を愛して、思い出させてくれたんだ。別世界に顕現した同じ記憶を共有する彼女を愛せない訳がない。輪廻転生、俺達は何も変わらず愛し続けられる」

 蓮の舞台にて、一歩も踏み出せずにいるソレはきっとずっと昔に合一した俺達。

 何故、この世界に未だに拘っているのか。それはきっとこの世界こそが約束の地だから。愛し合った世界を捨てられず、崩壊しつつある現実の僅かな時間すら手放せない。

「あなたもそうだ。世界に嫌気が差したから、自ら渡り歩かずそこから離れない。俺の魂の到達点、俺はあなた達の子供ではない。ただ同じ運命を辿り続けた化身に過ぎない。浄化を自分の手でしろとは言えない。だから————後悔があるのなら断ち切れ。同じ運命の輪を作り続けるな。時間が無い、無礼ながら言わせて貰う。嫉妬は迷惑だ、新天地探しなら自力でしろ」

 向けられた手が、もう片方の手によって止められる。どちらがどちらを止めたかは定かではなかった。意識を融和させていないのは知れていた。

 どちらをも失いたくなかった。一人になるのを恐れていた。

「俺とあなた達は違う————消えろ、目障りだ」

「ならば、こう返そう────目障りだ、二度と我々の目の前に現れるな」

 掌の代わりに、一本の指を突き出された。そう認識した瞬間だった。

 自分という存在が細分化され────砕けていく。今まで授かっていた、神仏からの加護とでも呼ぶべき聖なる血が抜け落ちていく。喰らい得てきた今までではわからなかった。しかし、力を奪われ失ったからこそ、思い出せる記憶も存在した。

 —————神々と神族を拒絶する聖仙の力は、もう使えない。

「化身の席を失う事の恐ろしさ、己が無意味さ理解したか?」

「血肉を切り刻まれ、何もかも奪われる。何度も経験したよ、本当に何度も‥‥」

 身体が透けていく気さえした。自分という魂の終わりであり始まりの地からも排斥される————ようやく、笑えた。やっと自分を許せる気がした。もう奪われる物もない。




 目蓋を貫通する眩い七色の光に気が付き、目を開ける。

 切り離された身体は深く沈んでいた。頭上を眺め、水面までの距離を測り————呼吸をしながら頭から飛び出した。水底にいながらあれだけの光量を発していたのだ、太陽にも匹敵する恒星が見下ろしているのだろうと、漠然と想像していた。しかし、自分はまだまだ世界の真実は見据えられていなかった。

「樹だ‥‥」

 視界を埋め尽くす水晶の樹が自分を見下ろしていた。プリズムが冴え渡る空を支えんばかりに枝葉を伸ばしたそれに、圧巻され次の声が生まれない。樹が尋常ではないのは勿論、自分を包み込んで受け入れていた海ひとつ取っても、即座に目を焼かれる恐怖に襲われてもおかしくなかった。

 見渡す限り、世界を覆うのは海と空であった。陸地であろう物は存在せず、大海原の中心、其処に自分はただ一人漂っていた。瞬時に孤独に苛まれるが、此処には少女はいなかった。

「帰らないと———」

 取り付く島はない、ならば彼方にある樹を目指すしかなかった。

 慣れない遠泳ではあったが、自分が起こす波しか存在しない海の上、意外な程泳ぎやすい。しかも、不思議と速度でも出ているのだろうか、巨大な樹が更に巨大に見えてくる。ひとかきで数メートルに至り、足をばたつかせれば殊更距離が短くなる。もしかしたら、自分には水泳の才能でもあったのかもしれない。

 樹の巨大さもさることながら、その身から発する七色が異常であった。

 海の水も七色に光り輝いているが、樹はその数倍に及ぶ煌めきを晒している。この世界の太陽替わり、否、太陽そのものなのではと、呼吸を整えながら思案する。しかし、身を焼く類ではなく、むしろ遠い過去の人々が神を見出した事象、大地を肥やす神々とさえ映った。

「船でもあれば」

 あと一息。その距離が煩わしかった。先ほどまですぐに到達すると高を括っていたが、目算での寸評を後悔し始めた。そして、ようやく視界に全貌が収まり始める。

 何処までも巨大に変貌する樹の根本は、熱帯地域に自生する植物を思い出させる姿をしていた。絡み合った根は水底の何かを掴むよう強固に、幹は光を強く発し、樹冠部分は天を支えている————まるで柱だ。もしくは———。

「楔か」

 根のひとつを掴み、海獣の如く這い上がる。絡み合った根は自分ひとりでは軋む事すらなかった。そして、ようやくここが何処で、どうすればあの世界へと戻れるのか、と考え始めた。

「‥‥神であれ仏であれ、もう力は授けられない。完全に輪廻から外れた所為だ」

 解脱という当初の目的は、偶然達成してしまった。あっけなく見放された自分は、確かに鮮血と黄色い脂が滴る学校から脱出出来ている。だけど、自分はここで悟りを開く訳にも開眼するつもりもない。早々に戻り、恋人と時間を共有しなければならない。

「────ここは輪廻から外れた者が辿り着く三千世界の外。或いは三千世界の中心。なら支配者がいる筈、生命の配分が許された何かがいる」

 いつの間にか腰掛けていた身体を持ち上げ、渡ってきた海よりも巨大に見える樹を登る。

「階段みたいだ、登る生物がいるのかもしれない」

 世界に自分一人とは思わない。曼荼羅図にも中心がいるのだ、此処にも一人は意識ある者がいる。さもなければ自分が、此処で樹を登っていられる筈もない。すぐ様世界に溶けて、新たな何かに作り替えられている。意外と、世界を作り出せる資源は限られているのだから。

「アムリタのお陰か。だけど、少し怖いよ」

 知る筈もない世界の真理を検測しているようだった。疑問に思った事に対して、正解らしき物を用意される。それが正しいかどうかは知った事ではないが、何かに頭を覗かれている気分と成る。

 樹の根を踏み付け、渡ってきた海を望む。やはり大地と呼ばれる陸など存在しなかった、必要としないのかもしれない。此処はあくまでも世界を創り出す創生の地、無駄に何か置けるほど無駄な場所は無いと判断したらしい。もしくは、支配者の趣味かもしれない。物は持たない主義のようだ。

 ようやく、根本を過ぎ去り幹の真下へと到達した。見た目通り、この樹からは緑の匂いなど一切せず、滑らかな水晶の身体を持つばかり、芸術的と言えば芸術的かもしれないが、その実余りにも見る者を無視する構造をしていた。到底、真っ当な人間が見て正気でいられるとは思えない。

「神の素材。世界の欠片────全ての始源。喰らえば星になれるかも」

 創生の力とは全てに通ずる光明。その気になれば誰もが太陽に、誰もが星の主に成れる。自分の望む通りの世界を、自分の気分で作り上げられる。創生者とは欲く深くなければならないらしい。

「‥‥この樹を、いや実でも喰えば或いは。世界を創る気は無い、届けば良い」

 天高く捧げられた青い果実。見上げる程高く、見上げる程巨大なそれを落とす術はない。だけど、時間ばかりはあるのだ。何度落下しようと必ず辿り着ける。何度繰り返してでも。

 しかし、手を輝く幹に添えた時だった─────。

「主か」

 口の中だけで呟き、背後を見やった。

 ただ水底から出ずるだけ、鎌首を持ち上げただけだった。たったそれだけで生物、存在としての格の違いを痛感した。白い竜体が根本から身体を伸ばし、侵入者を興味深そうに眺める────無機的な眼球から滲み出る感情は、一体なんなのか。自分という人間と、同じものなど見出せない。

 巨大な白い鱗を燦々と輝かせ、長大な胴体でとぐろを巻く。そして人体を彷彿とさせる上半身の腕で自身を抱き、呑み込むように巨大な人の顔で覗き込む。顔ばかりは幼い少女そのものなのに────だからこそ無垢なる者の、計り知れない残虐性に身体を縫い止められていた。

「──────」

 その存在は瞬き一つとしてせず、舌舐めずりをするのみ。蛇の狩猟にも見える動きに、息を呑む。アレからどれだけの力をさずかっていようが、この存在からは逃げ出せない。丸呑みにされたと理解した瞬間、新たな鱗の一枚と化し、ただの消耗品と使い潰される。

 死の覚悟をした。ゆっくりと口を開き、今まで何億と剥いたであろう牙を覗かせる存在に。

「どうして─────何も言わないの?」

 気に食わなければ喰う。気に入っても喰らう。楽しければ食べる、つまらなければ暇つぶしに食べる。狩猟などする筈がなかった、三千世界の頂点捕食者は、ただ欲するから食事をするのみ。

 次元が違う。海の支配者、樹の主、世界の頂点。この身体さえ、自分に差し向けた部位の一つに過ぎない。輪廻から解脱した自分が、あらゆる世界の創造者と同じ地位を踏める筈がなかった。

「何も言わないなら食べるけど、いいの?」

「‥‥帰るべき場所がある」

「かえる?」

 白い髪を靡かせ、ゆっくり聞き返した。一言一言発する息に身を竦ませ、内臓を振り絞った。

「あなたは此処を目指したのではないの?なら、どうして此処にいるの?」

 顔を横にし、覗き込む竜体は笑みも浮かべなかった。気の迷いで、飽きたら殺されると告げている。どぐろを巻く身体を悠然と操り、水晶の樹に巻き付き始めた存在が更に問い掛ける。

「此処は生命の終着点。此処に来たのなら、帰る場所なんて存在しない。なのにどうして溶けていないの─────ねぇ、どうして?どうして、あなたは形を持って此処にいるの?」

「────落とされたから、」

 口を衝いた言葉が、辺り一面を震わせた。惑わしていると気分を害した訳ではないらしく、次の言葉を待つように目を開き続ける。呼吸さえ重く、一言目を発するだけで魂が削れた気がした。

「俺は、元々世界を救う為に遣わされた化身でした。崩壊寸前、きっとこの海と樹へ遠くない内に訪れる世界への。だけど、出来なかった────救う為の身体は、何度も奪われ犯されました」

 これもアムリタの力だった。自分が男性として産み落とされた回数は、女性として遣わされた回数と同じだと思い出した。どちらでも無い時もあった。そして男性であれ女性であれ奪われ、犯された身体は軒並み火に焚べられ、土へと帰った。その光景を、首を掴みながら絶叫を上げる人間達を思い出した。荼毘に付す身体を使い、視界に収めた顔は晴れ晴れとしていた。

「遣わされる、世界を繰り返す度に記憶は消えていました。死ぬ直前ですら思い出せない時もあった。人々の望む通りに振る舞い、求められるままに救いを振り撒き続けて来たんだ‥‥」

「望む通りに?」

「そうだ、俺は────確かに救い続けた。何もかもを捧げて救い続けた。身体を捧げて救えるのなら捧げた。財貨もだ。生命が必要ならば与えた。だけど、世界は終わりに落ちるだけで人間は変わらなかった。悪化し続けた。だけど、どれだけ悪性に染まっても、必ず救世を成し遂げられると信じて───信じなければ良かった。さっさと諦めれば良かった。化身なんて───」

 人々を導く聖者であった自分がいた。多くの人は自分の言葉に従い、清く正しく自分を律し続けた。虐げられる者もなく、奪われるだけの者もいなかった。そう思っていたがそれは違った。

 見えていないだけだった。掌から溢れた、存在を隠された人々がいた。

 だから自分は万人を救う為、聖者にも賢者にも成った。教え正す自分がいたのだ。

「救おうとしたんだ。笑って貰おうって、必死に導いた。足りないのなら補えば良いって。裏切られても、襲われても、殺されても、奪われても、否定されても────何万回も続けた。そしてようやく全てを成し遂げた。ああ、役目を終える寸前に至った時だって、何万回もあったんだ!!」

 人々は喜んでくれた。神々も王も消え、迷うばかりの人々に自分は救いを与えた。

 救われた人々は嬉しがってくれた。朗らかに笑む家族を見て、自分が遣わされた意味を見出せたのだ。恋人同士が将来を誓い合う光景に、自分は涙し世界の永続を心に決めたのだ。

「ああ、誰も彼もが救われた。万人が善人に、悪を嫌い、隣人を愛し、法を尊ぶ正しい世界への入り口に至ったんだ────だけど人間は変わらなかった。幾ら与えても救いを求め、欲望を終えられなかった。善人に見えていたのは欲が満たされていただけだった。悪を嫌ってなどいなかった、自分の欲を満たす為なら悪を無心で為し続けた。隣人を愛して見えたのは、隣人が獲物だったからだ。法を尊んでいたのは、まだ自分のしている事が法の内側でいられたからだ」

 地獄も極楽も大差なかった。秩序の壁は容易く崩落した。人々は餓鬼に落ち、醜く肥え太らせた身体を引きずって、喰っていい者かどうかの判別を開始した。逃げ惑い、救いを求める者を保護した途端に────餓鬼達は、我らにも救いをと宣った。

 救えない、救ってはならない。

 目を閉じ、救うべき難民と共に逃げ出そうとした矢先、難民達の中にも餓鬼が現れた。

 自ら階級を創り出し、飯が足りぬからと共喰いを始めていた。凌辱され花を散らした少女達、解体され肉へと姿を変えた少年達。消耗品と姿を変えた子供達を、奪い合い、殺し合って貪り尽くす大人達。自分は救世主であった、この世界でも救世を続けなければならない─────誰も救いに値しなかった。逃げ出した、自分が救わなければ、こんな光景は生まれなかった。

「見るに耐えなかった。自分が作り出した救世は、こんな終わりを迎えるのかと。逃げ出した自分に人々は言ったんだ─────卑怯者と。消え去っていた神々は姿を取り戻し、失われていた王達も席を取り戻した。全員が揃って言ったんだ、卑怯者って。俺の因子なんて後付けだから関係なかった。俺は、卑怯者なんだって。俺が与え、俺が教えた言葉と知恵を使って俺を捉えた」

「もう、逃げなかったの?」

「もう手足は喰われていた。俺の身体を喰らえば、俺の力を得られる。自分も────支配者に成れるって。ああ、こういう事だったのか。俺をバラバラに喰らおうとしていたのは。研究者供も結局餓鬼と同じか。喰らえば救われる、喰らえば黙らせられる───力を得られるなんて」

 だけど、この記憶はたった一つの記憶に過ぎない。

「何度も続けた。記憶を奪えば、新しい世界に産み出されれば、今度こそ救世を為し得られる。崩壊寸前でも必ず世界は生き長らえる。俺が男でも女でも変わらない、何度も救い続けたんだ」

 遠い未来の俺とあの子。二人が重なり、合一化された神仏は一体何をしたかったのか。

 ────いや、きっと知らないのだろう。彼も、何かに遣わされただけの生贄なのだから。

「俺を使って発展したのなら、俺の役目は終わっていた。だけど、」

「何度もあなたは遣わされた。あなたの世界は何度も滅び続けたから。世界は修正されず、終わりに近づく輪廻から抜け出せずにいた。そう、あなたが此処に来たのは、もう帰る場所がないから。──────だけど、帰る場所を知っているあなただから身体を持っている」

 顔を上げ、その言葉を使った竜を見つめた。

「帰る場所‥‥」

「忘れてしまった?あなたは、最初に帰る場所があると言った。嘘なの?」

「────いいえ、嘘じゃない。俺は帰るんだ」

 樹を見上げる。途方も無く高く屹立する大樹だが、何万と繰り返した人々の為の救いよりも、余程意味がある苦行だった。全ては自分の為の時間、しかも褒美に少女との逢瀬を重ねられる。

 きっと一緒シャワーを浴びられる。きっと一緒に雑誌を見てくれる。きっと腹で抱いてくれる。

「あなたの世界に侵入した事、お詫びします。だけど、俺は帰らないといけない────どうか、俺を喰うのなら覚悟を。あなたを内側から喰らい殺します」

 面食らった竜体から顔を背け、滑らかな幹に足を掛けた時だった。

 樹が揺れ、足を掛けた箇所が砕け落ちた。

 咄嗟に顔を、世界の主へと向ける。顔を伏した竜体が自身を抱いていた手を使い、創生樹を揺らし始めていた。破壊する事など出来ないとは言えなかった、この存在は余りにも強大過ぎる。

 世界を創生する為だけの存在とは思えなかった。守護の筈もない、この竜体は────。

「あなたは、何処から来た─────」

「遠い星の彼方。私も覚えていないの、だって私という自我を持ったのも、ここの神を喰らってからだから」

 巨大な創生樹を起点とし、海が掻き混ぜられる。あれだけ静寂に包まれていた水晶の海が世界を覆う壁となり、天を覆い決して崩れる事なく光を閉ざす。そして巻き上げられた海水は世界の底、水底を晒すに至った。────樹の発端、星の皮膚そのものは、横たわる巨大な肉塊だった。

「‥‥そうか、この世界も」

 意識を閉ざす寸前、白い巨大な手が差し伸べられる。

「あなたは世界を救えなかったのね」

「‥‥救いたかった。だけど、もうどうでも良い。今は、」

「その子に会いたい。崩壊しつつある世界だとしても、あらゆる世界に通づる創生樹から生み出された果実を喰らえば世界へは戻れる。だけど、今のあなたには何もない────真っ白だね」

 掌に包まれた身体が重い。まぶたさえ重く落ちていく。

「知らなかった?あなたの身体は外側だけ。内側には何もなかった。加護というの?化身からただの人間に零落したあなたは砕ける寸前だった。樹から落ちても大丈夫?一度でも落ちてたら。あなたは海に帰っていた────最初は、また私を喰らいに来たのだと思ったけど、違ったね」

 混濁する意識では言葉を聞き取るだけで限界だった。

「だからお詫びをしないといけない。さぁ、まずは果実を食べて。初めてだよ、この果実を食べる人間は─────」

 手の上で差し出された果実を見つめた。果実は透ける様な青色をしていて、種には────。

「あなた好みの物質はいつ生まれるかな。意識が戻ったら、私とお話ししてね」





 本体と別れた時、心に穴が開いたようだった。

 温かみこそ覚えなかったが、胸に重みがあったのだ。

 それが邪魔になる事はなく、倒れそうになる身体を支える信仰に似て非なる壁であり枝葉と成っていた。勝手に根差した身体を内側から支えるそれらは、何も言わずとも自分を守護していた。

 だけど、完全に袂を別った瞬間、軽くなった身体と共に自分の手足は細く枯れ果てた。

「三度目、また死んだ────」

 少女の目的が遂に叶ってしまった。時間がない。世界が一新される最後の刻限の間際、真に最後の瞬間と成った。だが、恐ろしい事に一刻の猶予はあったのだ。

 朽ちていた腕を持ち上げ、拳を作り出す————失った腕をアムリタが補強し、海から生み出された物質が自動的に、挙って自分の身体を作り替える程に。

 千年にも及ぶ攪拌は、眠りの時間、瞬く間に終えられた。

 千年の時を越えて、ようやく目を開けた場所は────少女の腹であった。更に正確に述べるのならば、胸をつむじに置かれ、寝息に鼓膜を叩かれていた。心の穴を埋められる唯一の少女、その背中へ腕を伸ばし、ワイヤーに指を添える。

「悪戯、して良いよ」

「今はしない。後でしよう」

 見覚えのある部屋だった。

 目覚めた時は、いつもこの部屋だった。白い壁に白い床。パイプ椅子に囚われていた筈の身体は少女に抱かれ、冷たい床を二人で温めている。黒いパーカーから顔を離し立ち上がった自分は────真っ先に、少女を抱き上げた。

「ずっと待ってたんだから。何人ものあなたを見送って。待ってるのも疲れるんだよ」

「悪かった。結局、君の思い通りには成れなかったよ」

「別にいいし。それにやっぱり私もあなたと一緒には成りたかった、だけど」

「ああ、わかってる」

 眠り足りないと薄目で伝える少女と共に、僅かばかりの憩いの時間を楽しむ。

 静寂を打ち破ったのは廊下の彼方から聞こえる足音だった。意気揚々と、我が世の春とばかりに大きく足を上げて踏み鳴らす靴音と共に。指を差してあそこにいるのがと告げる低い大声。

 どんな姿勢、どのような顔でいるのか手に取る様にわかる。自分を真っ先に裏放った者の顔だったからだ。それも一度や二度ではない。何千回も、あの男によって手足を奪われた記憶がある。

「うるさいね」

「すぐに終わる。後で起こそうか?」

 椅子に座らせながら告げると、首を振って隣へと立ち上がった。

 胸に詰まっていた違和感がようやく消え去っていた。収めるべき心の断片が、隣でにこやかに微笑んでいる。楽しいか?と微笑み返せば雑魚と反射する。白い竜との時間も楽しかったが、自分の居場所はやはり此処だったのだ。背中に回った少女と共に身構え、開かれる扉を見つめる。

「何勝手に起き上がってるんだ!?また俺を批判する気か!?卑怯者ッ!!」

 瞬時に身体を異形へと作り変え、教育委員会の使者に見せ付けるように両手を開いた。終わる世界の間際、淀みとなった悪性が、力の象徴たる神々や魔族、神族の姿を模して人体を作り替えている。少女が前に語った因子にも誘発された結果、全身を変貌させるという回答に至ったらしい。

「さぁ、やっちゃって────違う、何それ‥‥」

 驚く少女の声を背に、自分は微笑んだ。腕から引き出す刃は独鈷杵ではない。

 聖仙の槍はもう使えない。だから何もない自分は、新たな物質を与えられた。これで真に、あの神仏から離れた。身の丈にも匹敵する巨大な青い槍、その気に成れば世界を破壊する器。

「三叉には成れなかったか。忌々しいが、帰する所は変わらずか」

 右腕を覆う青い火炎。左目から発せられる青い極光。そして握る槍の穂先は、一つだけ。

「破壊神になるつもりはない。ようやく俺に使われた因子がわかったよ。救世の過程で実験送りなんて。何度も俺を謀った罪は重い。堕落は嫌いじゃないんだ────望み通りに狂ってくれる」

 瞬き一つで教員の脇腹は灰塵と帰し、悲鳴を上げてのたうち回る肥大化した身体を踏み付けた。教育の身体を貫通した炎の一瞥は、軽々と教育委員会の使者の一人をも貫き窓ガラスまでも砕く。

 信じられないと顔を見上げる教員は幸福だった。仮にこの男も記憶を保持しているとしたら、尚の事理解出来なかったに違いない。このタイミングで自分を打倒し得る力を持てているなんて。

「違う、あなた何をしたの─────」

 背後の少女へ振り返り、足元の肉塊に槍を突き刺す。燃え上がる身体は悲鳴一つ上げずに灰と成った。この苦味の塊を喰らう必要はない。校舎全員には届かなかったが、自分の身体に打ち込まれた因子が目覚めるには足りる量を喰らい、自分の物と保有したのだから。

「君のお陰だ。キョウカ」

「全部話して貰うから、イツキ」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る