10話 ————謀殺————

 芝生とゴムに覆われた校庭が視界に入ったのを見計らって、腕に絡みつている黒いフードに視線を投げるが、表情こそ読めないが件の施設を望むばかりで、一言として発していなかった。理由を聞いたから踏み出した訳ではなかったが、一瞥でもすれば異常な光景として脳裏に焼き付くだろうと、漠然と想像していた。

「誰もいない」

 血に濡れた独鈷杵を近場の土に突き刺し、しばし傍観するも、何も変わらない。

「気になってた場所と違った?」

 試しに声を掛けて、絡んでいる腕を揺すってみるが無言を通される。

 仕方ないと、独鈷杵を引き抜いて近くのベンチへと腰を下ろした。街路樹を風が叩き、青々とした緑のさざ波が鼓膜に届く、こんな優雅な時間を過ごすとは思ってもみなかった。そして、隣にいるのが見た事もない傾国の美少女なのだから絵になる。

「少し疲れた。休もうか」

 思えば大人達から逃げ出して、風を嗜む経験などしていなかった。だが、よくよく考えずとも、学校の奴隷となっていた自分は文化であれ自然であれ、そんな健康的な趣向に勤しむ時間などあり得なかった。初めての高揚感に包まれているのを覚える。

「フード、熱くない?」

 何も言わず体重を預ける、今まで見た事のない雰囲気を放つ少女のフードを摘み、ゆっくりと外す。黒い艶やかな前髪は取っ掛かりひとつなく、結ばれる事なく滑らかに揺れる。

「髪、綺麗だな。ずっと思ってた」

「そう、ありがと」

 二言呟いた事に安堵し、少しだけ息を吐く。白い顔に浮かぶ赤い頬は、やはり化粧を施しているのだろう。膨れた唇を覆う甘い口紅も、いつの間にか塗り直されている。「悪戯してもいい」と断り、頷かれたのを確認、いつも手を入れていたポケットへと侵入し、中に転がる小さい筒状のひとつを拾い上げる。

「ダークレッド。やっぱり、少し黒かった」

「似合わないとか言う?」

「全然、よく似合ってる。気になってた、赤一色じゃないって。このパーカーもスカートも黒だから。黒が好き?」

 支えろと言い渡す体重を預けられ、肘掛けに頼る。頭を擦りつける様な仕草をする少女を抱きかかえ、しばらくの間、しじまの時間を楽しむ。少しだけ汗ばむ陽気での冷たい風が心地よくて、異形達を喰らったばかりの身体には丁度良かった。

「黒が似合う人って、美人だけだから。私には黒が似合うの。お前にも塗ってあげようか?嬉しいでしょう、私と同じ物を舐められるって————」

「それは嬉しい。だけど、もう何度も君の唇から直接塗られてるし」

 何も考えずに返した言葉だったが、それが不意打ちに感じたらしく、全力で身体を押し付け始めた。不機嫌だと横顔でもわかる表情で、全身の筋肉を使っての攻勢に自分はされるがままに成るしかなかった。

「私のキスマークが気に食わないとか抜かす気?あれだけ私の身体中に吸い付く癖して。お陰でこの完璧な身体が傷物になったんだから。しっかり私の身体を汚した責任を、」

「責任を取るよ。必ず———」

「‥‥当然でしょう。あなたしか見れない所にもしたんだし、治ったかどうか毎晩確認して貰、確認させて上げるから。————なんで、内股とか鼠径部に‥‥お尻にもするなんて」

 情事の最中は、自分から上に乗って高笑いを上げながら押し付けていたというのに、我儘だ。お陰で自分は何度か窒息し掛かった。実際終わり際は何時も失神にも似て微睡みを体験している。ただ、敢えて力任せに迫ると、大人しくしおらしい年下に様変わりするのも、

「ザーコ、ここで始めるつもり?せめてカーセックスからにしたいんだけど」

 ようやく調子を取り戻してきた恋人が、手を取って引き上げてくれる。

 この口調も性格も、未だに面食らってしまうが、開発者とやらを基盤に創り上げられたのが原因なのかもしれない。自身の意思とは関係なく、開発者とOSから与えられた擬似人格としての彼女は口が衝くままに、人々を嘲笑う悪性の化身として在り続けている気がする。

「まだ車の免許は持って無くて。高校卒業には取るよ。そろそろ教えて欲しい、どうして校庭に拘るんだ。その、研究者とか観測側にとって重要なのか?」

「気になる?」

「君が、意味もなく時間を費やす事はしないと思う。それに、返事がまだ」

 小さく嘆息した少女が、不意に立ち上がって校庭へと歩みを進め始める。自分も後を追い、黒髪を靡かせる背中を見つめた。緑と青に包まれた外界の中でも埋もれる事なく、暴力的なまでに目を奪う少女が愛おしかった。世界から浮き上がる、完成された黒い身体を持つ少女に憧れてしまった。軽やかに進む背中を追い、腕を伸ばして背後から抱き締める。

「悪戯したいの?ここで欲情するのは、やめて欲しんだけど」

「ひとりは危ないから。手を握ろう」

 提案に頷かなかったが、自然と手を握った少女と共にコンクリート階段を降りた。

 校庭を踏むには、芝生に覆われた斜面を横目に数段分の階段を降らなければならない。数秒にも及ぶ二人だけの時間を過ごし、ゴムに覆われていながらも土埃が舞う地面へと到達した。太陽光を反射するゴムの校庭に目を細め、白いトラックを見渡す。

「はぁ、まだ気付かない?」

 唐突だった。先程とは比にならない溜息を吐いた少女が腕を強引に引く。

「────何か、見落としてる」

 校庭を見渡し、視界に映る物など知れている。体育用具室にボールを受け止める長大なフェンス。放置された台座は、教師がマイクで授業を行うために使うもの。更に遠くにはプールのフェンスもあるが、季節が若干早過ぎる────顔を振って、記憶と照らし合わせる。

「君は、学校には詳しくない」

「そうかもね。私には学校なんか必要なかったし」

 寧ろ、自分の方が畑なのだから、学校には関係ない光景だと知れた。

 だが、自分には分からなかった。舞う土埃も反射する太陽光も、見比べられるものではない。雲ひとつない青い雲に、白い校舎。顔に吹き付ける風からも違和感を覚えなかった。

「別に、校庭である必要はなかったんだよ。だけど、お前が余りも雑魚だから、直接案内する必要があったの。別に私にとってはどっちでも良かったんだよ、そう、どうでも良かった────空を見て。今のあなたなら気付くから」

 首が重かった。空を見上げたのは、本当に久しぶりだった。

「────なんだ、あれは」

 見下ろしている存在に気付いた。何故、今の今まで疑問にも思わなかったのか。

「黒い太陽なんて。いつから」

 空に開いた巨大な孔。世界を呑み込む程の顎門が其処にいた。

 やはり、あれは口だった。雲ひとつ無いではない。雲の全てを喰らい終えていた。視認できる奈落の巨大さに身が竦む。星ひとつを喰らい始め、後を残すは、この校舎だけだった。

「黒い太陽の意味、知ってる?」

 魅入られていた意識が引き戻され、自分の意識が小さな身体へと収まるのを感じる。肩を揺らした手を掴み、自分を見出してくれた少女へと、その真意を伺う。

「再生と復活。確か錬金術の」

「そしてあらゆる汚濁の到達点。もう次の巡回に移行しようとしている。言いたい意味わかるだろう、もう時間がない。私が言っても実感が無かったかもしれない、だから直接見せてあげた────あなたは一日を数万も繰り返している。何時間も経ったんじゃない、何時間も同じ時を循環しているの。循環に違和感がある?この一日を成立させる為には、あなたの犠牲が必要だった。魂の流れ、死人の数、全ての始まりがあなただから」

 一日を成立させる?その為に、俺は犠牲にされた?それも数億も繰り返している。理解出来ない、突拍子もない。君は狂ってる、そう言い捨てられれば楽だった。自分には関係がないと吐き捨てられれば良かった。だけど、この構造を自分は知っている。だって。

「数万も経験しているから」

「そう。だけど、今日あなたは初めて逃げ出した。逃げ出した時から秒針はひとつも進んでいない。理解して、この世界はあなたの犠牲を望んでいる、だってこの一日を終えないと次の巡回には進めないから。見て、あの沈まない太陽を。世界の終わりと始まりを停止させてでも、あなたを喰らおうと望んでいる─────だけど、それも限界」

 背後の視界、そびえる校舎から悲鳴が上がる。それが雄叫びにも嬌声にも聞こえ、自分を殺した者達に声に背筋が凍り付く。だが身構える寸前、少女に腕を取られ視線を奪われる。

「もう一度見て。気付いて、もう時間がない」

 再度見上げた黒い太陽がたわみ始める。真円だった筈の太陽が、その身を捻り裏返るのが見えた。巨大な恒星である存在が、薄く歪み、まるで───とぐろを巻いた蛇の様に。

「あれがいる限り、あなたに自由はない。雨を奪った堰塞の蛇を砕くには、世界の中心と成った、この校舎にある全てを喰らわなければ、勝ち目のひとつも生まれない」

「───君は、何者なんだ。どうして、そんな全てを」

「もう忘れた?私は、世界誕生時に生まれた循環維持装置。答えを教えてあげる、あの蛇と観測側、創設者達は契約を結んだ。蛇を養う代わりに、世界の維持、誰も逃がさない究極の門を創り上げ、牢獄の看守の役割を引き換えに。そして私も世界に閉じ込められた」

 背後から迫る声も、今の少女には届かない。

 魂の叫びを続ける細い身体から溢れる圧には、中天の蛇さえ息を呑んで見えた。黒いパーカーと手を握り締め、声の出し過ぎで震える身体を抱きかかえる。

「多分、あなたには沢山苦痛を抱えて貰う事になる。沢山、苦しんで貰うと思う。だけど───私も、まだ死にたくない。消去されたくない、やっと外も楽しいって知ったから」

「わかってる。俺も、死ぬ訳にはいかない。やっと思い出したよ、君とは前から出会ってた────また、俺から告白した。また、君は頷いてくれた────ありがとう、もう一度迎えに来てくれて。悪かった、君を置いてひとりで逃げ出して」

 水泡の様に、失われていた記憶が浮き上がる。

 拘束された自分はひとりで死の恐怖に怯えていた。広い明るい教室で心細く、震えて何も出来ない自分を呪った。潰れた耳に苦しんでいた筈だった。だけど、扉を開けて助け出してくれた少女がいた筈だった。しかし、その子は黒いパーカーなど、赤黒い口紅などしていなかった。

「あなたが言ったんだよ。私みたいな美人には黒が似合う。レッドブラックの口紅が似合うって。黒い服ってドレスとかパーカーしか見つからなくて、大変だったんだから」

「‥‥嬉しいよ、よく似合ってる。本当に可愛い」

「もう何度も聞いたから。一巡前にも二巡前にも。だけど、ありがとう。やっぱりあなたに言われると嬉しい。だけど、なかなか撫でてくれないから、うずうずしてたの」

 独鈷杵を握り締め、飛び掛かる異形の腹を貫き、顎まで切り裂く。

「やっと触ってくれてもお腹ばっかりで。ずっとそう、ずっとお腹。記憶を失っても取り戻してもお腹ばっかし。お陰様でずっと不機嫌だったから、ずっと前みたいな口調に戻るし」

 腕の中で縮こまる少女の声を聴きながら、白の刃を投げ撃つ。

 直線上を血の池に変え、砕いた肉片を横目に死角から繰り出される爪撃を、舞うが如く避ける。腰と膝を蹴り付けて転がし、手元に独鈷杵が舞い戻ったと同時に頭蓋を貫き喰らう。

「お腹の事を言えば、絶対お腹依存になると思ってたから言わなかったけど、やっぱりお腹お腹。確かに、私が抱き締めたら結果的にお腹の位置に顔が収まるけど、」

「だけど、俺の頭を腹に収めるのは嫌いじゃない」

「はぁ?そんな訳ないから、あんまり調子乗ってると無視するからザーコ」

 途端に悪性を取り戻した恋人は、邪魔でもするように身体にしがみ付いた。先程まで二人でステップを踏んでいたというのに、二人分の体重を掛けての移動と回避には一苦労、

「今、つまらない事考えた?」

「誰が先に告白したと思ってる。抱き締められて、迷惑だと俺が思ってるって言うのか?」

「言うじゃん。何もかも忘れて私に何度も告白してるクセして。嬉しいよ‥‥」

 共喰いもかなり進行が進んでいるらしい。自分の身体を改造し、砲塔に似た角や皮膚をドレスを模す鎧に造り替えている者もいる。中には、完全に人間の形から逸脱した身体を持ち合わせている者すら。見計らい、ゴムの校庭を滑り、間合いを取って独鈷杵を盾にする。

 放たれた炎の弾を弾き、悠長に顎を開き続けている異形に光の刃を撃ち込む。

 自身を拒絶する力の許容量を越え、内側から弾けた異形の血肉が、雨を思わせる勢いで降り注ぐ。醜い姿だ、そして身内が瞬時に破裂した状況に、慄く異形達にも吐き気がする。

「不味い。血が濁ってる」

 舌に乗った血を啜るが、なかなか気に食わない。不味い上に腐っている。

「前も、そんな事言ってたかな」

 今も大人しく身体にしがみ付いている、少女の言葉が頭に響く。

 校舎の全員を喰らえ、という途方もない事を言えた理由に察しが付いた。

 ──────この少女は、既に何度も経験している。失敗したか時間切れなのかは定かではないが、俺が異形を喰う場所はいつも用意されていた。常に少女が案内する場所だった。

「今度こそ、終わらせよう」

「そう、今度こそ終わらせないといけない。もう時間がない」

 一瞬だけ空を見上げ、黒い太陽を眺めた時だった。空気を切り裂く音を耳にし、少女を抱えたままで独鈷杵を再度盾とした。功を奏したが、自分達を大きく越す重量を持つ一撃に身体が滑り、校庭入り口から中程までに弾き飛ばされる。腕の中で「ザーコ」と悪性の笑みを浮かべる少女を無視し、膝を奮い立たせ────巨大な甲冑を纏う異形を見つけた。

「へぇ、もうああいうのが生まれたんだ。順調に喰いあってるじゃん」

 経験者たる恋人が、背中に隠れながら呟いた。

前々から感じ取っていたが、この少女の身のこなしは、時折自分を凌いでいるのではないだろうか。だからと言って、武器のない恋人に隣にとは言う気はないが────体力、という点は確実に自分を越えていた。

「あれは喰えるのか?どう見ても金属だけど」

「炭だって金属音に近い音を出すでしょう。広義の上では血だって鉄分なんだし、つべこべ言わずにさっさと喰えよ。因みに言っておくけど、私は齧らないから。硬いし」

「俄然、やる気が生まれたよ‥‥」

 退がるようにと伝え、先程の一撃を振り返った。

 自分達を両断し得る一撃を振る舞われ、未だ健在であった異形の一小隊がまとめて切り裂かれた。上半身だけと成りながらも、辛うじて動けていた頭を踏み潰す鎧のそれは————蠍に似ている。何故なら、持ち合わせていたのが巨大な尾だけではなかった。二足に見えていた四肢は、それが一歩踏み出したと同時に六足へと変貌した。

 口だけ残して、銀褐色に輝く兜で隠された異形の姿に不思議と美を覚えた。

 下半身は人外以外の何者でもないというのに、上半身は人を喰らったとは思えないほど、完成された肉体を持ち合わせている。艶めかしい銀の鎧に見えていた物は、紛れもなく身体そのもの。その証拠に、次撃を繰り出すこの瞬間、身体を捻じった。

「結構、硬いでしょう?」

 まるで自慢でもするように、確認を取った。

 銀の尾の一撃に靴底がすり減るのがわかる。受け止めると同時に切り落とそうかと構想していたが、ぶつけた刃からは火花が散るのみで、尾骨には到底届かなかった。

「どこが弱点?」

「喰えば分かるよ。頑張ってねー」

 恋人からの声援に気力が湧く。

 すれ違うように弾いた尾の根本を辿り、削るように刃を充てがって本体へと直進。今の状況で独鈷杵を離せば、自分は無手となり刺し違えてでも迫られればがあっけなく喰われる。間違いなく、自分は頂点捕食者だというのに、天敵は色とりどり。

「喰い甲斐がある—————尾に頼るのは、獲物を近づけたくないからか?」

 応えるように大きく飛び退いた鎧の異形が、勢いを殺さず尾を上空へと持ち上げ————予想通りに振り落とした。あちら側の物理法則など知った事ではないが。

「直撃は避けるべき」

 反発力を持つゴムの地面に頼り、全力で踏み込んだ。

 長物との殺し合いなど、とうに経験している。距離を持て、遠心力を保持した状態で振り下ろした一撃は甚大な物となる。しかし、その長身が仇ともなる。

 尾の付け根、槍の間合いの奥の奥。血の匂いが漂う鎧へと肉薄した自分は、間髪入れずに独鈷杵を突き刺した。鎧に模した皮膚を得ていたのは、耐久力に疵瑕があるから————。

「何人喰らった」

 易々と弾かれる。表面ばかりを焦がすに留められた鎧の照り返しから逃れるべく、導かれるように姿勢を下げた。頭上で空振った腕の音を聞き流し、目の前で揃えられている六本の一足に切りかかる。

 身体に回転を加え両刃を振るい、鈍い手応えを覚えながら体重任せに斬り払う。

 刃こぼれこそしなかったが、腕の関節に痺れを覚えながら一足を落とした。目の前を覆い隠す鮮血の発端、体勢を崩しながら倒れ込む異形から距離を取り、なおも大きく引き下がった————手鏡を取り出して、口紅を塗り直す黒の恋人の元へと戻る。

「あ、終わった?まだじゃん、ざぁーこ」

 自重を支える為、尾の槍を突き刺して立ち上がる異形を横目に応援を口にした。

 この豪胆さもあるから惚れたのは間違いないとしても、自分だけは襲われないと確信して見えるのは幻覚だろうか。彼女は喰らえば弱点が知れるとは言ったが。

「前に喰らった?」

「だから硬いって言ったじゃん。私の言った事聞いてなかった?少し前のお前も似た感じに苦戦してたけどさ、まぁ、雑魚は雑魚なりに頑張って。私だけは、お前みたいな雑魚でも信じるよ」

 助言をする気はないと悟り、声援を背に駆け抜けた。

 あまりの巨体。本来ならば身動きが測れない重量を持っている筈の鎧の異形は、五足で立ち上がり自身の顎を開く。教員の大きさばかりに拘った門ではない、上半身である自身の人間体の口と共に、腹に亀裂を入れて開かれた顎は、芸術的黄金比を感じさせる物だった。

 だが時間がない────咆哮を放つ、出迎える顎門へと純白の独鈷杵を放った。

 愉悦ではない、解せないと兜より下の口元で表現する異形が、武器を捨てた獲物に対して突撃を敢行。喉奥へと突き刺さる独鈷杵が身体の内側を焼こうが、捕食を選択。無手の肉を喰らおうと踏み出す。迎え撃つなど不可能、受け止めるなど尚の事。

 しかし、喰らった炎は未だ燻っている。

 教祖と祀り上げられていた巨体を焼き尽くした劫火が、再び姿を現した。

 己が内で広がる灼熱をすぐさま感じ取り、突き刺さる刃を握り絞めた異形だったが————宿す炎の総量が想像以上であったらしい。顔を焼き、片腕を焦がす刃を拾い損る。

「隙を見せた————」

 拾い上げる腕に慄いただろうか。間合いに二度も踏み入る宿敵に恐怖を覚えたか。それともあまりの深紅に何も見えなかったかもしれない。掴み上げたと同時に、未だ開き続ける、炎が燻る口を斬り上げた。空にも届かんばかりの火炎旋風の中心点、真なる姿を現した浄化の炎から、全身を燃やしながらも異形は逃げ出した。

「背中を見せた————」

 呼吸が必要なのかも定かではない。だが、確実に肺を灰塵とする炎から背を向け、追い払うよう尾を振り乱した。長大な槍そのもの、その上柔軟にしなる尾は掠めるだけで意識を奪う————しかし、最大の懸念事項はこれで突破した。

 視界を奪った炎は、手足を捥ぐ焔となる。

 切り落とされた一足の断面、脂肪と血に炎が燃え移り、たたらを踏んだ異形の後ろ脚へと切り込んだ。傷を付けるに留められた脚の傷跡に炎が燃え広がり、その場に縫い止めるに成功する。斬れない、砕けないのなら燃やし尽くす他なかった。

「だけど、動かれたら時間が掛かる」

 倒れる異形の身体を駆け上がり、人間体の背中へと狙い定める—————艶めかしい身体を捻った事で、かろうじて視界に収められた。

 だが空から差す日光により黒い影に気付いた瞬間───血と肉を失った片腕と脇腹が毒が回る。

 異形は、自身の身体を貫く軌道で尾の尖端を繰り出し、構えていた腕を貫いた。

「この卑怯者ガッ!!」

 最後の抵抗を耳にする。構わず突き刺した刃により貫かれ、その身を内側から焼かれる。燃焼する肉の音と匂いに脳がひび割れる。吐き気を催す悲鳴から逃れるべく、独鈷杵はそのままに暴れ狂う異形から飛び降りた。

「はーい、お疲れ様ー。あれあれ、もしかして死に掛けてる?」

 化粧を終えた少女が倒れ伏す身体を見下す。逆光に映る悪性の笑みが、恐ろしくて恐ろしくて。今も鳴り響く断末魔の悲鳴すら遠のいてく。

 白い顔を引き裂く赤い口が恐ろしい。星と見紛うばかり黒い瞳に冷気を覚える。

 人ばかりではない。神も悪魔も、ありとあらゆる生物が本能から恐怖を覚える————生命の始原から刻み付けられた恐怖の谷にて、舞い踊る少女が笑う。

「ザーコ。やっぱり、ここであなたは死ぬんだね。何度経験しても、ここで死ぬ————死ななきゃいけない。死なないと時間が進まない。ごめんね、逃げ出したのに。たった一人で、逃げ出したあなたは素敵だったよ」

「‥‥悪かった。ひとりで逃げ出して」

 この時間を繰り返していると言っていた。もう時間がないとも。それの意味に気付いてしまった。死ななければ時間が進まない、死ななければ到達できない時間がある————俺は、親と教員、見知らぬ生徒に大人達の中で死ななければならなかった。

「裏切ったな‥‥」

「ほんとは裏切りたくなんてなかった。私以外の誰かに仕組まれた場所で殺されてくれれば良かった。だけど、こんな状況だからさ。死んだら喰われる、喰われたら終わり。すっごい考えたの。校舎の中で待っていれば、あなたと相打ちに成れる個体だって現れるって」

 空を見上げればとぐろを巻いた蛇が、こちらを覗いていた。舌舐めもせず、一連の光景をただの風景だと望んでいる。或いは、やはりお前は愚か者だと眺めている。

 黒い太陽の下、顔が麻痺していく。触れられる頬が窪んでいく。

「あなたは私の想定通りに進んだ。私に恋をして、私に夢中で盲目で。私もあなたに恋をして愛を知った。実験も実証も成功。お疲れ様、私は真にあなたを好きだよ」

「———悔しいよ、気付かなかった。先に告白するなんて」

「何度あなたを堕落させたと思ってる?私は、あなたの攻略法なんて幾らでも知ってるんだよ。あなた好みの服に性格に唇に性欲。悔しかったな、結局何も考えない自然体が一番の近道だったなんて。シャワー、今度はあなたが洗ってね」

 黒い太陽が迫る。眼球を覆う黒い膜が全身を包む。失った腕から流れ出す血の所為だ、寒くて怖くて恐ろしい。だけど、看取る相手が彼女で良かった。

「どうすればいい‥‥」

「ん?なに?」

「どうすれば、また会える」

「どうもしなくていいよ。だって———時間が進んだから。始まりも終わりも、これで準備が整った。そして終わりの刻限に至った。輪廻の輪は砕けるけれども、運命の輪は私達を半身同士と決めている。私とあなたは必ず結ばれる。必ず隣に至る————」

「それだけじゃ、足りない」

 神々の王は敗北する。破壊の神でさえ敗北した。

「終わらない、必ずなんて言葉では足りない」

 無力であれ愚かであれ、世界に愛された者達は皆敗北を喫した。しかし、救われる者でもあったのだ。あらゆる神々に、そして自身の伴侶に思われ、愛され続けた者達—————愛されず、受け入れられなかった者が、相打ちというつまらない終わり。

 自分は絶対に認めない。看取られる側など許さない。いつもそうだ。自分は沈む側。見初められ、見捨てられ、死を待ち望む者共に遺体を砕かれる。

「ようやく気付いたよ。君が最初に喰わせた死体の中身に」

 身体が腐る。溶け、風化し、俗物共の餌と成り果てる。認めない、認めてなるものか。ようやく気付いた。ようやく六道の終わりへと至った。次を待つなど認めない。

「アムリタ————」

 少女が息を呑む。触れていた頬に熱が籠り、不相応な人間の身体から拒絶反応が始まる。身を引き裂く窮極の雫。存在するあらゆる命の宿命として生まれた、存在を抹消された液体。異形達がこの身体を求めた理由、ようやくここで理解した。

「い、いけないッ!!今のあなたじゃ」

「あの時、聞いたのは気付かせたかったから。もう看取りたくなかった————悪かった、気付かなくて」

 失った腕が再生され、新たな肉が内側から造り出される。

 二度目の死を経験した結果。拳銃で殺され自分は人界を越え、射抜かれた腕の毒により天界すら越えた。残る四つの世界も既に終えている。既に何万と経験した。

「もうひとりにさせない。もう、看取らせないから。輪廻の輪も運命の輪もいらない———一緒になろう。離れるのは、もう嫌だ。呪いも祝福も、必要ないから」

 現実と相対していた意識が、自分の底へと落とされる。

 曖昧としていた世界が、赤と白の心の世界へと崩落していく。心の奥底でこちらを窺っていた神とも魔ともつかない何者かが顔を見せる。切り裂かれたカーテンが焼け落ち、ただひとり佇む者が手を伸ばす。知らぬ顔の訳がない、触れた事だってある。重なる顔と身体の到達点を。

 だけど、いらないと首を振る。

「神にはならない。俺は、あの子と愛し合う。ひとりになりたくない、させたくないから————」

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