9話 ————圧殺————
「聞きたいの?言っておいてあげるよ、それは無意味な興味。君には要らない知識だよ」
隣を進む彼女が、つまらなそうに宣言する。
「あなたが現状をどう咀嚼していようが、現実は何も変わらない。頭の中でどれだけ言い訳を並べても、迫りくる捕食者の数は変わらない。前にも言ったよね、相互理解なんて不可能。だって、向こうはあなたを餌としか見ていないんだから」
「口を利ける家畜か—————」
「まさか。家畜なんかじゃなくて、物言う獲物を対象にした狩り。きっと心底楽しんでるよ、未だに誰も喰えていないのは、あなたは校舎内を駆け巡って逃げているからだって———誰が一番に喰えるかの競争。共食いが始まったのも、自分の取り分が減るからだよ」
自分の質問には答えてくれなかったが、糸口に近いものは知らせてくれた気がする。
出会って、どのくらい経っている。自分の聞いた質問内容はこれだけだった。
だが、そんな物を知ってどうするのか、と唱え現実を知らされていた。自分でも理解している、時間など計っても意味がない。休憩として仮眠を度々、結果的に休憩となってしまった時間を過ごしてきたが、窓の外は常に昼。暗くなる前兆すら見出せない。
「わかった。正気に戻ろうが我慢が出来なくなろうが、飽きる事はない」
常に死と隣合わせな所為だ、体感時間すら計れない。教師を燃やし尽くした時から、一体何時間経っているのかも予想が付かない。部室でのやり取りで、実は一晩過ぎていたと暴露されても、殊更驚くに値しない気さえする。生き残る為に、時間に気を回す暇はなかった。
「もっと建設的な事を話そうよ、外には何処から出たい?利便性を考えて、窓からって言うなら面白いのに」
「飛び降りた事なんて─────」
何を叫ぶ事もなく、黒いパーカーに包まれた頭は内側から砕ける。
裏切られ、謀られ、売られる。自分の居場所の全てを無くし、逃げるしかなくなった人間の記憶が脳内で再生された。発端は教師だった、成績と金銭を理由に誘われ、その光景を他の生徒に撮影された。強請られた生徒は、写真を要求され、それが遂には親にまで渡り───親にまで穢された。
行き場の全てを失った時、迫るアスファルトの表面が余りにも恐ろしくて。
「泣かない泣かない。それは赤の他人、しかも何度もあなたを貶めた人間の記憶だよ。似た経験してない?きっと自分の中で一番苦しい体験だからこそ、あなたにも押し付けた」
「‥‥こんな記憶、持ち続けているなんて」
巨大化するアスファルトの地面が恐ろしくて、顔を背けて頭を守る。砕ける音も破裂する声もしない。全身に残る痺れを最後に、現実へと引き戻される。そして、目を開けた。
「ずっとじゃないよ。潜在意識の奥底、性格を構成する一欠片にはなり得てるかもだけど、保持し続けられる訳がないから。だけど、あなたは違う、隙を見せたら内側から食べられちゃうよ」
言葉だけなら慈愛に満ちた聖女の顔だというのに、苦しむ自分に満面の笑みを向ける少女は悪魔そのものだった。温かな衣で包んで癒してくれているのに、むしろもっと苦しめ、狂った方が楽になると仄めかす。耐え忍び、呼吸を整え顔を上げると、
「あーあ、頑張っちゃたね。うんうん、よく耐えた♪」
全てを喰らう黒一色の瞳を剥いていた。
腕を貸された身体が揺れる。いつの間にか竦んでいた膝を付き立てて起き上がる。鋭い八重歯は牙としか映らない、引き裂かれた口の紅色が恐ろしかった。
「でさ、どうしよっか?」
「————校内で最も人が集まる場所がある。学食へは中庭から行ける」
「なるほど。でもさ、校庭って場所の方が人が集まれるんじゃない?」
「校庭は、正直あんまり使わないんだ。授業の時程度、集会だって講堂を使う。————運動部の縄張りとか揶揄されるぐらい縁遠い。それに学食は、かなり広くて部外者を呼んでの立食会にも使われるくらいだから」
言い終えた所で次の階段へと踏み込むが、少女の顔は晴れなかった。『つまらない』、という落胆ではなく仕草としての『がっかり』が的を射て見えた。
「校庭、行ってみたい?」
何とはなしに切り出したが、フードを被って首を振られる。
「別に、どうでもいいよ」
これ以上は聞くなと、暗いフードの中から責められている気がした。
だから手を取って耳元で囁く。大人しくそばてて聞く鋭い横顔と、小さな顎を上下に振らせた所で、髪から甘い香りを漂わせる少女が隣へと戻ってくる。
「俺が時間を気にしてるのと、校庭の様子が気に成るのは普通じゃないか。悪かった、否定して。なんにせよ、俺達は校舎全員を喰わないとならないんだ。確かに、校庭なら誰かしらはいるに違いない—————行こう、一緒に」
「‥‥約束守ったら、時間を教えてあげる」
彼女の今までの言動からして、時間という概念を気にしてはならない、と告げている。それが俺に対して、彼女に対して不都合なのかは定かではないとしても。
手を握ったままの無表情で、後を追ってくる姿には小鳥を思い出させた。よく見なくとも、異形との喰い合いの渦中に身を置くには、この少女は華奢過ぎた。
「何、もしかして邪魔とか」
「違う、そんな事思ってない。君のこと、良くは知らないけど。出会ってからずっと助けて———守って貰ってる。何でも知ってる君に頼りっぱなしなのに、理由も聞かずに、個人的な理由で嫌がって悪かった。主観じゃなくて俯瞰して決めよう、どうして校庭が気になるんだ?」
足を止めず、むせ返る大量の血に覆われた階段を下る。
既に校舎内の大半は狩場と化していた。背後から頭上から襲い掛かる異形を返り討ち、少女の口移しで喰らい続けた結果、気付いた時には自分達の歩いた痕は血しか残っていなかった。教室で共食いや高笑いをしていた生徒と大人も、極端に減少した。
「声が聞こえるね。喰いに行こう」
一階に降りる寸前だった。二階から低い嬌声が響いた。
「わかった。気を付けて」
「私を心配するとか生意気な雑魚、しっかり守ってね」
顎をしゃくりながら嘲笑う少女を引き寄せ、再度靴底を血で濡らす。いつもの悪性を湛えた笑みを取り戻した顔は、息を呑むほど美して愛おしくて————自分の物にしたかった。
お前は数千にも及ぶ崩壊と再生を繰り返している。気付かなかったのか?今回のような生贄の儀式など、吐いて捨てる程経験していると。その度に、お前は人間達に殺され喰われている。今回もそういった、よくある終わりを迎える筈だったのだ。
—————だが、不思議な事に、今回のお前は自ら世界の異常に気付いた。
「何を言ってるんだよ‥‥」
今まで疑問にも思わなかったとは、そこまで無自覚だと抱腹物だ。
お前はこの校舎から脱出出来れば、それで済むのだと心の何処かで確信しているのであろう。しかし、よく考えてもみろ。あのような食人の異形達が徘徊する世界の何処に、お前の居場所がある。そんな幻想は早々に捨てるがいい。哀れな小鳥よ。
「だけど、俺は生徒だ。ここは全寮制じゃない、帰る家がある筈なんだ」
ああ。確かに帰っていると設定された『家』と呼ばれる存在は出力されている。
確かにお前の『家族』という物も構築され運用されていた。三人家族という平凡な形を得ていた。家族でストレスを発散する父に、ヒステリックな母という形を。
「なら、」
お前は、あのような異形に育てられた経験でもあるのか?幼い頃を思い出してみろ—————ほら、何もないだろう。あるのは空白ばかりで気付いたら、この校舎。
哀れなお前は、何も知らずに知らされずに、あれらの餌と成っていただけだ。
「餌ってなんだ。なんで俺が選ばれた————ここは現実じゃないのか」
「はぁ?現実に決まってんじゃん。お前を殺そうとした人間は本物。本物の憎悪を抱いてお前を喰おうとした。長く殺意を持ち続けられるのは、人間だけの特権だ。狂気の淵から飛び降りれるのも、また人間だけ。命令と虐待?確かに、数順前の君には直接下していたかもしれないけど、それってお前自身の記憶ではない。同じ席に座らせられた同位体の物だよ」
「クローンの話でもしてるのか」
「クローンを?そんな資源の無駄を、この私は是認するとでも思ってるの?」
ふぅ、と息を吹き掛けられる。
甘い息が鼻に届き、咄嗟に吸ってしまう。頭を蕩かす薬の中毒性とは、こういう感覚なのかもしれない。甘いと知っているだけではない、この甘味がなければ現実と渡り合っていけない。この感情はいつしか思慕へと逆転、甘みの為に生きていかなければならなく成る。
「ザーコ、何楽しんでるの。聞いてあげる、今私はどの程度の分子を吹き掛けた。そして何割吸った。次いで吸った息の中に酸素はどれだけ見出せた。さぁ、答えて」
「‥‥そんな物、わかる訳ないだろう」
「そうだよ。わかる訳がない────だけど、吹き掛けた分子と同じ量だけ可能性はある。誰に見られる事もないカスみたいな道筋が。それは誰にも観測されないだけで、確かに存在している。それも無限に繰り返されている。勿論、人が諦める程度の有限の彼方だけどね」
少女の話は、いつも難解であった。この肘を突いて語った内容も、自分には理解し難い、現状どうでもいい事だと折り合いを付けて、聞き流す姿勢を取りそうになってしまう。
けれど、この内容には口を挟んでしまった。
「仮に、もし仮にそんな事象が発生して、続いていくとして───誰が興味ある」
少女の言う通り、自分の顔にも今も息が吹き付けられている。
肌で感じるのだ、証明するまでもない。しかし、神経を刺激する分子、それが酸素なのか窒素なのか、それとも水分、或いは炭素の可能性だってある可視化不可能な物質。それらにタグを付けるなんて不可能だ。自分の預かり知らぬ器具を用いれば可能かもしれないが、そんな物に誰が興味ある。
「誰も。誰も興味なんてないよ。だけど、過程には興味なくとも結果には意味がある—————私はお前の状態には興味があるけど、お前の状況には興味がない」
過去に、同じ言葉を投げかけられたのを思い出す。
言い換えれば状態とは結果、状況とは過程であるのかもしれない。まるで娯楽だ。どちらが勝利したから掛金は返ってこない、或いは今日は贅沢できる。程度の興味で自分は————自分は————。
「———もし、本当に何度も繰り返しているとして、そんな物をどう証明する」
「そういうと思ったから言わなかったの。大人しく私のお腹に顔を突っ込むお前でいれば良かったのにね。また疑問と疑惑が増えるだけで、状況は何も改善されない。むしろ募る感情と記憶で腐っていく。私を怒る?腹いせに犯す?いいよ、乱暴されるのも経験だしね」
顔を覗き込み、開き切った瞳孔で作り出す笑みが恐ろしかった。
悪性の塊としか表現できない切り裂かれた口が、眼前の雑魚の無力さを的確に言い当てる。白い顔と黒い瞳、赤い唇の全てが愛おしくて、全てが忌々しくて。
「あれ、何もしないの?」
「‥‥乱暴なんてしない。そんな事、」
「私が好きだから?」
「それもある。だけど、そんな真似をしたらアイツらと同じだ。それだけは嫌なんだ————ごめん、嘘ついた。君にだけは嫌われたくない。傷ついて欲しくない」
終いにはこれだ。たった、それだけの感情で拳ひとつ握れない。
この少女や、外の異形達と同じ感情すら握れない。勢いのままに、怒りの広がるままに力を振り下ろせないなんて、なんて弱い卑怯者だ。結局、自分に言い訳をして何もしないだけ。誰かの許可ひとつないと視線すら向けられない。
最初に出会った教室から、一歩として自分は成長出来ていない。
「ずっとわかってたんだ。俺は卑怯者でしかないって」
膝から力が抜き、ベンチへと座り込む。
少女の言う通り、校庭へと足を運ぶ直前だった。目的地へと続く緑道の隅に設置された更衣室へと引きずり込まれ、話があると言われて数分しか経っていない。
この少女にだけは卑怯者と言われたくない。見捨てられてくなかった。
「卑怯者って意味、多分こういう事だったんだと思う。自分以外に興味が持てなかった。自分以外どうでも良かった。───そんな格好が良い訳がない、自分の事も嫌いでどうでも良かった。全部が嫌いで見たくなかった。クラスメイトが一人減っても、気付かなかった」
些末な記憶と選別していた過去が、頭の中で膨れ上がっていく。
教室の中で、どれだけ周りが騒いでいようと心がざわつかなかった。自分とは関係のない世界、関わる価値のない感性だと心を閉じていた。目を閉じ続けた。
「誰に嫌われても怖くなかったのに、刺されたり潰されたり、売られたりした時、急に怖くなったんだと思う。だけど、何度繰り返しても自覚しなかったんだ。なんで、俺が嫌われてるのかって。‥‥君に拾われて、初めて嬉しかった。でも、受け入れなかっただけなんだ」
心が砕けていくのがわかる。心の奥底にあるカーテンが、揺れて引き裂かれていく。今までは触れる事すら叶わなかった、恐ろしかった自分自身の本体。
見てしまえば、どれだけ自分がちっぽけな存在が気付いてしまう。誰かに見られてしまう、そんな矮小で卑怯な心に囚われているから、自分は卑怯者と名指しされ、
「違うよ」
顔を上げる間すら無かった。腹で抱かれた顔が硬くて、口が動かなかった。
「全然違う。怖がる必要なんてない、誰も受け入れるだけの価値なんてない」
見下ろされているのに、こんなにも心が落ち着いている。
「苦しむ必要なんてない。そんなの意味がない。あんな汚物達を受け入れる事に価値はない。迷ってるなら私の言葉を聞き入れて、幾らあなたが自分以外に優しく振る舞っても、また救世主に成ったとしても、誰もあなたを見ない。あなたを生贄にして、自分だけは助かりたいって祈るだけ。また、同じこと言っちゃったかな」
頭を抱く少女の手が優しかった。耳を潰す大人の手、腹を刺す子供の手とも違う。
「恐怖を乗り越えれば、試練に打ち勝てば幸福になれるって思ってる───全然違うよ、そんなもの試練なんかじゃない。乗り越えちゃいけない崖、飛び降りるのと変わらない。そんなもの逃げ出すのと変わらない────自分を誇って、あなたは特別だって」
「───前にも、言ってくれた、覚えてるよ」
「そんな特別なあなたと、肉に溺れるだけの雑多な人間を同列に扱える訳ないから。誰とも交わらず世界への疑問を持てたのはあなただけ。私が保証してあげる、あなたは特別だって。あなたが恐ろしかったのと同じで、周りの肉塊供も逸脱したあなたが怖かった。視線も合わせられない、ひとりでは声も掛けられないぐらい怖くて仕方がなかった。本能として、絶対的な強者を感じ取ってたんだと思う。あなたも、理性として弱者に関わらなかった」
内臓が収められている腹から、血の流れる音がする。この細い身体から信じられない轟音が響いている。巨木の影に寄り添っている感覚に捉われ、木漏れ日を求めて顔を上げる。
「仮定の話をしてあげる。ここは巨大な実験施設。私は其処のOSから生まれたAI、擬似人格、ムーンチャイルドって言う人もいる。開発者が意図として作った私は自分で身体を作り上げて、直接実験施設の観測を始めた────長い長い時間をひとりでは見渡せなかった」
仮定だと前置きしたというのに、少女は饒舌に作り話を展開させる。
「だから私も諦めた。こんなつまらない世界は、ただ繰り返すしか意味がないって。何億も繰り返して、結果的に生まれた新しい概念をすくい上げれば、それでいい。新しい何かが生まれればいいって諦めていた。そして生まれたのが、あなた」
「嬉しかった?」
「どうだろう、わからない。嘘、本当は嬉しかった。やっと私は終わらせられる、やっと解放、解脱を許されるって。ふふ、消去なんてさせない。私は私として生まれ変わるって決めてた。───だけど、見つかっちゃった。だからね、あなたを自分の物にしに来た」
後頭部を撫でる少女の腰を抱き締め、合図をする。
小さく微笑んだとわかった時、軽い身体を持ち上げて膝に置く。
「初めて乱暴したね。ちょっと待ってたんだよ」
「次からは、少し乱暴にする」
本心から喜んでいるとわかる抱擁を施された自分は、応えるべく背中から音が鳴るまで腕に力を込めた。ただ、やはり少女は支配階級。許可も得ずに行われた行為に額を突かれ、最後のチャンスとして二度目の抱擁を終えてようやく口付けをされる。
「────覚者、それがあなたに名付けられたラベル。だけど、欠けたから、もうあなたは拾い上げられる立場じゃない。想定外を許さなかったアイツらによって、人間達の肥料にされて、次の次ぐらいに成果が生まれれば良いって感じの研究過程扱い」
「覚者って、完全な人格者とか真理に辿り着いた人の事。俺とは完全に別人だ」
「そう思ってるのはあなただけ。生に興味が無く、他人にも頼らず恐れない。だけど世界への疑問を持って真理に辿り着きそうになった。言ったでしょう、あなたは解脱候補だって。教えてあげる、恐怖心は一巡前のあなたに無理やり植え付けられた感情そのもの───まぁ、覚えてるかどうかは問題じゃないけどさ」
解脱とは、恐らくは選ばれてこの世界から拾われる意味なのだろう。そう、勘繰っていると膝の上で、くるりと方向転換した少女が、椅子扱いの自分から両腕を奪って自身の腹へ移動させた。鳥肌が立つ甘い髪の香りに絆され、全力で寄り掛かる背を支えるが、倒れろと言わんばかりに背を押し付ける意思に従ってベンチに倒れ込む。
「落としたら怒るから。感触を楽しんで反応しても怒るから。仮にも覚者として目覚めそうなあなたなのだもの、心を静寂に保ち、鏡の如く無表情でいて。さもないと」
「もう無理‥‥」
極力嗅がないようにと律していても、完成された究極の肉体を押し付けられて、正気で居られる筈がなかった。片手は少女と恋人のつなぎ方をし、もう片方で胸元を抱き締める。長い髪にくすぐられた鼻は、頭皮も毛髪も逃がさず余さず甘受する。
「欠けたって言うのはこういう事。異性は勿論、同性にも反応しない。人間という生物、他惑星の似た生命体に対しても一切反応を示さないあなたは、人間という種族から解放された、一個の確立された解脱者。だけど、『想定外の解脱』は許されなかった」
「‥‥俺が、勝手に去りそうになったから」
指を結んでいる手を強く握り、答えてくれた。
これは、あくまでも仮定の話に過ぎない。だが、彼女達の『解脱』とは違う『解脱』という言葉に拘りを見せる事から明らかに、自分は創造主達の庭から消え去ろうとしていた。長い研究を続けてきた者からすると、自分達の研究成果が勝手に意思を持ち、逃げ出そうとしているなんて、断じて認められないのだろう。よって————。
「異形達を送り込んだ」
「送ったではなく、目覚めさせた、が正解。あなたが今まで生きてきた、この現実の目的を教えてあげるよ、あなたを触媒に、とある因子を打たれた人間を刺激して覚醒させる事。驚いた?ようやく、この説に自信を持てるようになったんだよ」
器用なものだ。今度は仰向けから腹這いになり、胸板を自身の柔い乳房で圧迫する。
しかし、少し唸ったと思った時には身体から滑り降りて深呼吸を始める。
「悪い、抱き締め過ぎだった?」
「それは良かったよ、もう少し撫でて欲しかったけど。私、うつ伏せで眠ると息苦しくて。やっぱし私って大きいし形も良いじゃん。形を崩したくないのもあって、下を向いて眠れないの。だから、私が眠る時、ベッドの大半は貰うから。お前は隅か床な」
純然たる事実だと告げるように胸を持ち上げて、当然の権利だと謳うように寝床の占有権を訴えた。実際、彼女と横になる時は背中を見せない徹底振りが見えていた。得心した。
「二人だけの約束だから、忘れないようにね」
「覚えたよ。眠る時は、君の体勢に気を付ける」
ベンチから起き上がった所で、やはり蛇もかくやと腕に巻き付く少女と共に、更衣室の扉に足を運ぶ。運動部の私物化が激しい件の部屋は、ロッカーはボコボコ、勿論、ジャージとTシャツは投げ出しっぱなし。食べクズは許されるとしても、アルコールの空き缶は如何な物か。そしてタバコの空き箱も。
それらに視線を向けながらドアノブに手を伸ばすと、黒の少女が呟いた。
「面白そうだから、男の子の方に入ったけど、なんか想像通りって感じ。エッチな奴はあったけど、未成年なのにタバコの吸い殻だらけ。あなたは薬に興味ある?あれを打ちながらヤると、絶頂が10分以上続くんだって。蕩けてみる?」
「遠慮しとく。それよりも、こうして腕を組んで歩いている方が好き。君の隣に、ずっと居られるならそれでいい。────さっきの話、あれは仮定の話なんだろう。今のも、もしもの話?」
ノブを捻り、踏み出す。そして同時に独鈷杵で首を刎ねる。
「当然だから。私、純粋な美を目指してるの。この完璧な身体を更に成長させて窮極に至る。混ざり物になる気なんてないから。それに、毎晩あなたとは絶頂し合うんだし、薬なんていらないや」
返り血を背に隠れる事で軽やかに避けた少女が、肩に顎を乗せて同じ方向を見やった。
眼前には暖色系の肌を持つ異形達が揃っていた。やはりと舌打ちをする、生徒達が姿を見せなかったのは共喰いを繰り返して力を付けていたからだった。校内の大人達、不良達とは明らかに圧迫感が違う。校内が餓鬼だとしたら、目の前に屹立する異形は────。
「鬼神────」
「違う、あれは魔物。神々神族が人間の創造によって貶められた結果の産物。魔性の塊」
断ずるように正体を見破った言葉を、内に宿し再度独鈷杵を構える。
「違いない。あれは魔物だ。神族の訳がない、彼方の者達は最も剛毅で麗しかった。神々に克己心を持たせ勝利をもぎ取らせるほどに。壮絶な試練を自らに科せられる猛者ばかりだった────断じて、喰い合って成果を奪い合う白痴者ではなかったんだ」
牙を剥き、腕を伸ばし、愚劣な笑みを浮かべる者達の筈がなかった。見るに耐えない、視界にも入れる事許し難い。その上、あの者達の名を騙るなど鎬を削った者達全てへの侮辱。
「矢の雨でも降らせて見せろ」
飛び掛かる顎を刀身で切り分け、少女を抱えた事により得られた二人分の体重で頭蓋骨から首までを切り落とす。助走は完了した、勢いを殺さず旋回を終えた瞬間────差し向けられた掌へと放った。腕の骨を砕き、肩を奪った所で肉薄、生身の膝を肋骨に加え、肉に食い込んでいた独鈷杵の柄を握る。胸像のように整えて落とした身体へと刃を差し込み、捕食を始める。
「酷い味。これも試練」
全身と純白の金剛杵が一体化している。指を動かす感覚で、両刃が一回転する。
本能として、俺を恐れていたと言われたが、あながち間違ってはいないようだ。一連の惨殺を目にした異形の一人が距離を取り、分不相応にも間合いを計り始めた。
「お前は俺を遠くから喰えるのか?」
血と脂に濡れた独鈷杵を地面に突き刺し────彼方側の化身に変わる。だが。
「正気に戻った?」
「‥‥大丈夫。ちょっとだけ焦ってた」
「あなたは欠けてていいの。完全なんて雑魚には求めない」
心の奥底、そこで此方側を見続けた自分の本体が口と身体を操っていた。少女の言う通り、自分は雑魚で良い。神々の王にも、三界を制した地底の王へと転生する必要もない。そんなものは既に捨て去っている、今はただ黒いパーカーを着た少女の隣に居られれば良い。
命拾いしたと同時に、勝利を確信した異形の一人が猛虎にも似た巨大な腕を地面に落とす。巨大な地響きと共に疾走する姿通りの巨体が、数瞬で頭上へと飛び出した。
「モラッタ─────」
声は止む。ごろりと肉塊が床レンガに転がり、その身に蓄えていた鮮血を吐き出す。足元が血の池に成ろうとも、少女との抱擁は捨て難かった。しかし、抱けという命じる声には従わざるを得なかった。掛け声ひとつで抱きかかえたのが、よっぽど気に食わなかったらしく底冷えしそうな視線で射抜かれる。
「あれだけ好き勝手抱いた相手に、よっと?腕力でも鍛えれば。後、マナーも」
「必要になったら、学ぶよ」
残る肉片達を刃で吸収する最中、交わす言葉ひとつで心が休まるのがわかる。
軽い身体を持つ狂った少女に守られなければ、目的地ひとつ定まらない自分は雑魚なままだ。それで良いのだろう。今も遠くから監視するしか出来ない旧人類と共存を量る必要などない。自分は人界から解脱する。きっとこれが最後の六道。そして自分には導き手もいる。
「はぁ?なに、その顔?」
「言わないといけない事がある────君を信じる」
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