5話 ————刺殺————

 後ろ指を差されるのは日常であった。

 すれ違い様に突発的に高笑いを始める人々。顔見知りでもない自分は、可哀想な人達なのだと、心の中で決めつけていた。だが、時たまその理由が知りたくなるのも必然であった。

 試しに声を掛けてみた。何故だ?何がそんなに面白いのだ?

 男女関係なく、割合で言えば微かに女生徒の方が上の患者達は決まって─────元から醜い面を更に醜く歪めて逃げ去っていく。あのような顔で出掛ける魂胆が知りたくなる。

 だが、声を掛けた代償は大きかった。差程親しくもない同学年、教師、とりわけ生活指導の教員が奇声を上げながら、自分に飛び掛かってくる。まるで猿だ。

 何故、ああも理性を、人間らしさを捨て去る事が出来るのだ。到底、ホモサピエンスとは似ても似つかない獣達だ。

「それでそれで」

 散々俺を怒鳴り付け、同時に指導だ、粛清だ、自業自得だと宣った直後、顔を青くして逃げるのも日常であった筈だ。自分は何をしているのかと、我に帰った者から言い訳を繰り出して逃げ出す。その後、何故だか何も無かったかのように振る舞い始めるのが不気味だ。

「主観的観念論は勿論重要。だけどお前の主観だけじゃなくて、もっと大きく捉えて。何が不気味だったの」

 自分、という個体ではなく第三者視点から覗き込む。

 人間の心という複雑怪奇な代物を、解体など出来る筈もない。

 だが、あまりの人面獣心に違和感を覚えた。ついさっきまで、唾液と罵声を迸らせていた人間達が、さも人畜無害だと告げる姿は狼男の性を思い起こす。

「狼男かぁ。なんだか面白いね。人々の中に於いて、誰もが自分という本能を抑えなければならない。それは努力ではなく自然の摂理として。さもないと淘汰されてしまうから。中には、自分は自分だと言い張る者もいるけど、それじゃあ野生動物と同じだよね───」

 野生動物────考えてみれば、言い得て妙だ。

 あの姿は理知で身を固め、理性で己を律する人間とはまるで違う。

 本能に従って、人を責め立てる彼らは自分とはまるで違う。言葉が通じなくて当然だったのかもしれない。数時間も経てば正気に戻ると、祈っていたのも無駄だったのだ。

 気に食わないから排除する、命令に従わないから咎める、反抗するから殺す。

 このような短絡的で愚かで思考も推測も、何もかもを落とした愚者では────。

「なかなか言うじゃん。私のお腹にいるクセして。すっごい無様だよ、オマエ」

「仕方ないだろう。ここが一番落ち着くんだから、休もうって言ったのはそっちじゃないか。────どうして、元からそうだったのか。どうして、あんなにも獣みたいに」

「あなたにとっての現実こそが、この世界。だけど私という観測側からすると、割とどうでもいい話だったりするの。もし、あなたがそう理解したのなら、それがこの世界の真実。だから私のお腹こそが一番落ち着けるんなら、そうなんじゃないの。ザーコ」

 心底、見下し告げる少女は、頑なに自身の股から俺を解放してくれなかった。

 白と黒のミニスカートから伸ばした、細い足を操る少女は他人の頭に顎を置いてご満悦で有らせられる。抵抗する気も起きない程、密着した白い足の肌は心地良くて暖かかった。

「ねぇ、そんなに私のお腹って落ち着く?」

「俺個人の主観は意味がなかったんじゃないのか?」

「意味が無い訳じゃない。優先順位の問題で、あなたを取り巻く世界に順番を付けてるの。ちなみに私を求める心の順位は────ヒミツ。で、答えは?」

 頭を抱いていた手を顎へと移動させた少女に、強制的に顔を上へと向けられる。

 真円の笑みではなかった。知的探究心こそが軸であるのは明らかであるというのに、目元を柔らかく、口元を朗らかに緩めた顔付きは、息を呑むほど麗しかった。

「‥‥多分、1番好き‥‥」

「それって告白?雑魚の癖してナマイキー。落ち着くかどうかを問うてるんだから、提示された選択肢を選べ。さぁ、もう一回続けて。落ち着くのか、好きなのか。さぁさぁ♪」

「問題が変わってる」

「あらゆる答えは刻一刻と変わり続けるんだよ。なら、問題だって移ろってもおかしくないでしょ。普遍的な答えとかにも、興味はあるけど、それって一度でも正解したら発展しない星の終焉と同じじゃん。ほら言って。私の事は好き?」

 秒針でも進めるように、新円へと開かれる眼が美しかった。顔を真一文字に切り裂く、真っ赤な口が恐ろしかった。一つしかない答えを求めて責め立てる言葉が卑怯だった。

「───秘密‥‥」

「雑魚。つまらない事言わないで答えろ、ザーコ」

「俺は雑魚なんだ。同じ事は続けて言えない‥‥」

「────そう。まぁ、答えはわかるけど。あ、もしかしてこれが私の───」

 唐突に顎の手を再び頭へと戻した少女が、今以上に強く抱き締め始める。パーカーに隠された豊満な身体を余す事なく押し当てる少女の容赦の無さに、改めて慄いてしまう。

 身体を締めつけているのは、紛れもなく少女自身だというのに、柔らかな肢体に自分の身体は沈んでいくのがわかる。胸を変形させるぐらい強く抱き締められた顔が火照っていく。

「そっかそっか!!そうよ、これなんだね!!雑魚、感謝してあげる。そうなんだよ、これが正解。私が求めた門は、こういう存在だったの!!次の実証実験の目標は決まった!!」

 言葉を発する度に胸を振って、前頭に押し当てる官能さに言葉を失い続ける。その後も、気に入った人形と喜びを分かち合うが如く、胸を上下左右に振り続ける行為に耐えた。

「なんだ、簡単だったじゃん。そうだよね、お前みたいな雑魚がボッチで生きていける訳ないんだから。再侵入して正解だった、私みたいな美少女に微笑まれて正気でいられる野郎なんている筈ないんだからね。ねぇ、雑魚。私が、あなたを好きって言ったらどうする?」

 先ほどの行為で、とっくに頭は限界だというのに完全にトドメを刺しに来た言葉に、自分の思考は解かれていく。だが、少なくとも、私、あなた、好き、という単語は聞こえた。

「─────」

「何、絶句してるの?答えて」

 出会った頃からそうだ。この少女は、常に自分を翻弄し続ける。自分だけであった世界を微塵の許可もなく犯した。ついさっきまで清らかであった自分に対して、途方もなく高い、切り立った山脈を寄越して見せた。言葉を少女の腹で選んでいると、股が締め付けてくる。

「ねぇねぇ。さっさと言えよ」

「─────嬉しい、と思う‥‥」

 身体が細く縮んでいく感覚が自分を支配した。まるでこちらの準備も身構えも許さず、模索の時間もなく吐き出した答えが、自分の中で音叉でも鳴らしたように響き続ける。その音があまりにも煩いものだから、暗闇が張り付いていた心の中がざわめき始める。

「うん、良いよ」

 咄嗟に顔を上げる─────だが、その瞬間には、少女は立ち上がって自分を手放していた。何が起こったのか分からず、手を伸ばす余裕すらなかった自分はただ呆然とした。

「休憩はもう十分だよね。そろそろ行こっか」

 軽やかに振り返る少女から、何事もなかったように手を差し伸べられる。思わず手を握り返した自分は、引き上げられる勢いで部室の外へと連れ出しにかかる少女の背を追った。

「さ、さっきの答えだけど」

「もしかして、もう変わったとか言わないで。オマエは、ずっと私に恋してなきゃダメなんだからさ。今更別の人間が好きだとか、心に想っていた相手が実はいたとか───」

「いない────そんな相手、今まで一度も出会わなかった。変な事言わないでくれ」

 柔らかな身体に包まれる時間は終わってしまった。温かな息吹は過ぎ去り、刹那の極寒のみが首元に吹き付けている。校舎の記憶しか保持していない自分だとしても、産まれ落ちてから一度としても、誰かに愛情を持ち合わせた試しはなかった筈だ。

「不思議だよ。あの親でさえ、他人に思えるんだ。今だからかな、それとも前からかな」

「他人に期待してないだけでしょう。それって普通じゃん」

「ああ、きっと普通なんだ」

 少女の隣へと踏み出した自分は、爪でも立てるように手をきつく握る。

 手と手の間には紙一枚入り込む隙間もない。少女の手の溝すら感じ取れる敏感さに、自分の経験不足が露呈する。この感情を、少女以外から感じる事がなかった。このつまらなそうな顔を愛しく思うのは、きっと自分だけだ。愛情の一欠片も向けられないとしても。

「‥‥ねぇ、もしかして。本気?」

「────わからない。だけど、この感情が好意なら。きっと本当の恋をしてる、と思う。雑魚だけど感情はある。雑魚だけど恋だって出来るんだ。‥‥もしかして、迷惑?」

「さぁ?」

 吹き出す寸前で言い放った単語と、この表情を作り出せる少女を自分の物にしたい。この理性も倫理も抑制も、何もかもを持ち合わせていない少女に憧れてしまった。羨ましく思う。どうすれば、こうまで自由に笑える。どうして、自由に振る舞える。

「あーあ、お前みたいな雑魚に好かれるなんて。私ってやっぱり罪深いみたい」

 心底、呆れたように告げる姿が、ただただ愛おしくて歯を突き立てたかった。




「人が多い所に行こうよ」

 舌舐めずりをしながら紡ぐ口の淫靡さに見惚れ、一瞬返事が送れてしまった。

「無視とか生意気。雑魚の癖してさ」

「人が多い所なら、なら────体育館とか」

 回答がお気に召したようで、口元へ指一本だけ当て逡巡を終えた、黒猫を思わせる少女が階段を降り始める。体重を持ち合わせていないのかと疑問に思う、軽やかなステップを見下ろしながら自分も下るが、階段中に響き渡る成人の低い大笑いに肩を震わせてしまう。

「ただの声だろうが、何がそんなに怖い訳?」

「‥‥大人には、怒られた事しかなくて。あの低い声は嫌いなんだ。まぁ‥‥高い声も苦手だけど。大体、俺に話し掛ける人って文句以外言わなかったから」

「生きづらい人生送ってるのね。でもでも、良かったじゃん。これでウザぇー奴皆殺しにしても、誰も咎めないよ。咎めに来ても殺せばいいんだし。警察を真っ先にヤったあなたは、もう勇者だよ♪」

「─────本当に、」

「だって、もう見かけないだろう。しっかりと殺して喰ってるよ。オマエは」

 ダンスのステップで、同じ狭い踏板へと飛びみ込んでくる少女は、やはり腕の中に収まった。こちらを玩具扱いする満面の笑みが冴え渡り、眼光で動きを縫い留める少女の威圧感は、人間のそれとは明確に違って見えた。或いは、これこそが真なる人間なのだろう。

「いいね、その顔。後悔してるのに、あれは仕方なかったんだって自分に言い訳する雑魚の目。そういう矛盾を抱えたあなたは、とっても素敵────本当にとっても素敵よ」

 逃がす訳がないだろう、とでも伝えるように全体重を俺の胸に、頭を抱き締められた自分は唇を重ねる。少女の唾液塗れの唇が吸い付き、こちらの唇を喰み、舐めろと口を付けながら告げる声に従って唾液を舐めとる。最後に軽く唇を歯で噛まれ────。

「私の唾、甘いくていいでしょう?」

 再度唇を舐めながら言い放つ。その姿が卑怯で、官能的で。

「‥‥何か、薬でも」

「淫蕩なオリジナルと違って、私はまっさらなままが好きなの。まぁ、お前に散らされたけどね。あは、その顔も大好き────」

 襲撃は少女の背後から迫った。

 軽い身体を抱きかかえ、階段から飛び降りる。襲撃者の凶刃を真横に通り過ぎ、振り返りながら下層へと降り立った所で少女を抱いたまま、二振り目の薄い刃を独鈷杵で防ぐ。

 中程まで呼び出した独鈷杵は、未だ腕に大半が埋まっており、本来の重量が反映されず壁へと弾かれる。上層から飛び降り気味に放たれた一撃に舌打ちをし、背中に少女を隠した。

「今のはびっくりした?ねぇ、驚いた?」

 と、当の少女が言うものだから愛おしい。舌打ちをしてしまうぐらいに。

 カマキリの鎌を持った艶かしい身体を持った異形であった。女性特有の細い腰と膨れた胸、陶磁器を想像させる傷一つない青い肌。唇ばかり柔らかく動くものだから、却って人外性の高さが見て取れる。同時に許しでも請うように、二枚の刃を重ねる姿に舌を巻く。

 未だ、この場は異形の間合いであったが、不意打ちを避けられたのだから、敢えて身を晒すように間合いの更に奥─────腕から生やした刃で首を掻っ切る事だって可能な筈。

「居合いでも気取ってるのか」

 初撃は避けた。二撃目は防げた。だというのに、次の歩みを進められないのには理由があった。青い異形の間合いたる場に於いて、指一本でも動かそうものなら呼吸の間隙で首を刈り取られる。それは背後の少女も変わらなかった。

「動けるか?」

「めんどいからパス」

 これだ。この回答が返って来るのではないかと、心の奥底で感じ取っていたが、まさかそのものが耳に届くとは思わなかった。むしろ、邪魔でもするように腰にしがみ付いたものだから─────青い異形が両の刃を振り下ろす、だろうと予想通りの動きをした事から独鈷杵を生やした腕で、全体重を掛けた薙ぎ落としを受け止める。

 青い異形が頭を突き出した事により、眼前で揃えられた歯の内から耳をつんざく高笑いが響く。甲高い狂った女性の声に総毛立ち、脳に音波が反響し続ける。平衡感覚を失いつつある頭が、自分と相手の大きさを正しく認知しなくなる。

「ブサイクがよ!!男のクセして情け無い顔してさ!!男なら言いたい事でも言えばイイだろう!?それとも、オマエには無理だったカァ!?ビビりのボッチが、私に話し掛けやがって!!気持ち悪いんだよ、カースト最下位が!!」

 何重にも折り重なる声に胃酸が迫り上がるのがわかる。自分と面識があるらしい、恐らくは女生徒と思わしき異形の悲鳴はいつまでも続いた。声を発する度に、牙を剥いていく。

「男のクセしてダッサー!!黙って、隅で縮こまってればヨカッタんだろうが!!お前が視界に入る度に気持ち悪かったんだ─────」

「誰だお前?」

 お喋り好きな異形は好都合だった。鍔迫り合いに持ち込まれたとしても、ここまで口に力を込めていれば、腕に隙が生まれるのは必然。僅かに弾き返した両鎌の合間を縫い、胸と喉の間に独鈷杵の先端を突き刺す。血を吹き出しながら自分と少女に被さるように倒れ、両鎌で壁を傷付けていた異形が我に返り数歩も後ろへと下がっていく。

「隙を見せたな」

 ようやく、全貌を呼び出せた独鈷杵を青い異形へと発射────弾くつもりで振われた鎌を安易と破壊し、片腕を捥ぎ取って手元へと戻って来る。夥しい血こそ噴き出るが、もはや人間とは似つかない姿からの光景に、現実味を感じなくなっていた。

「ひ、卑怯者ッ!!そんな、武器を使うナンテ!!わ、私のカレがいれば、オマエなんて」

「ああ、お前」

 この顔には見覚えがあった。自分達よりも背の高い男子生徒達を常に隣へ置き、気に食わない者がいれば、男子生徒を使って暴言と暴力を振るっていた女子生徒の一味だった。

 顔は────今の今まで忘れていたが、この言葉遣いは覚えている。

「これも捕食対象でいいんだよな?」

「好きなだけ嬲ってから食べてもイイよ。でも、ヤルのは無し。私との時間をただの経験扱いするのは気に食わないから。それと、そんな女を私に齧らせないで────逆に、私で上書きすべき?」

 背にしがみつきながら沈黙を始めた少女には視線を向けず、二度目の独鈷杵を放とうとした矢先、先程とは比べ物にならない悲鳴を上げた。命の危機を知らせる悲鳴に、辺りの階段や廊下を震わせる錯覚すら─────否、それは錯覚止まりには収まらなかった。

 確実に、数人分の足音が聞こえる。

 それが真っ直ぐに、この場を目指す明確な敵だという事に対して唇を噛み締める。取り囲まれてしまえば、数の力には抗えない。そう判断したというのに、

「あは♪大漁じゃん♪もっと鳴かせて♪」

 はしゃぐ少女が、腰を抱いて飛び跳ねている。正気とは思えない。

「退こう」

「はぁ?何処に?せっかく出迎えてくれるんだから、ご相伴に預かろうよ」

 心底、何故だと問たげな様子で聞いてくる少女を無視し、視線を辺りに走らせると片腕となった青い異形に斬り掛かられる。片腕だけとなろうが、人肌であれば瞬く間で切り裂く鋭い刃は、到底無視できる筈もなかった。

「卑怯者ッ!!また逃げようって魂胆!?言いたい事がアルならハッキリとイエバいいじゃん!!まぁ、言ったらカレシにチクって、お前なんてぶっ殺して貰うけどさ!!どっちにしろ、私に怪我させた時点で————お前は死亡確定ダケドネ!!」

 口から粘液状の血を垂れ流す姿を晒し、口汚く罵る彼女は人間とは思えなかった。何故、背後にいる少女のように凛々しく、自分の欲望のまま振る舞えないのか。

「怖気づいた!?」

「もう殺していいんじゃない?いいよ、食べなくても」

 柔らかい無防備な腹に膝を叩き込み、骨は勿論、内臓すら破裂したのを感触で覚える。刃を模す腕で腹を庇い、跪いていく頭を蹴りつけて仰向けに倒す。

 あれだけ雄弁に語っていた顎は口は回らず、餌を求める魚のように口を開け閉めした。上下する肺を砕くように、独鈷杵で貫き三度悲鳴を上げさせる。死にかけの虫の如く、手足を軋ませる姿に—————つい笑みを浮かべてしまう。

「食べたいの?別に良いけど、口移しはしないから」

「この人は嫌い?」

「嫌いじゃないけど嫌い。生き方の問題で、相容れない存在かな。別にどうでもいいって事で嫌い。あれ、もしかして私矛盾してる?やっぱし私って可愛いかも♪」

 嫌いじゃないけど嫌い。確実に嘘だ、この少女はこの女が徹頭徹尾、好みなのだ。

 この自分でもわかる程、今も倒れ伏している彼女が、目前の死よりも憎らしいと牙を剥いて侮蔑の表情を浮かべる。

 自分の持っていない圧倒的な美貌を誇る相手が嫌いだと言う。

「ん?あれあれ、どうしたのかな?そんな顔して。自慢の彼氏さんは何処かな?」

 分解する直前だというのに、肺の独鈷杵を艶めかしく触れる少女が『待て』と暗に示している。足音はすぐそこまで迫っている、それも一人二人ではない。

「時間が無い————」

 肩を掴み伝えるが、なおも少女は言葉を続ける。

「お前みたいな首輪付きの量産品には欠片も興味がない。だけど、集団の行動原理を知るには、やっぱり直接触れて観察しないといけない。重ねて言ってあげる、お前みたいな女には興味がない————だけど、そういう感情には価値あると値札を付けてあげる」

 その横顔は自分の知っている、倫理を失くした少女のものではなかった。言葉にしてしまえば、酷く安価な物へと変貌してしまう。だけど、少女のかんばせから漂うそれは————人の上に立つ者だけが宿せる、カリスマと呼ぶであろう魅了の力。

「だから教えて。その愛は、一体いつから持ってる、どうやって育んだ」

 胸を刺し貫かれ、残り幾ばくも無い青い異形が、小さくにやけた。

「知るか‥‥」

 命の灯が消える瞬間、彼女は逃げ去るような笑みを浮かべて力を抜いた。

「知るか、か。いつの間にか持っていたと判断するのが定石だろうけど。あれにも命と呼ばれる時間はある上、自由もあり得た。最初から可能性を視野に入れていた、もしくは待ち望んでいた。ただの魔族が?リサイクルに気付いている訳ないのに———祈っていた?」

 声を掛ける事も憚れる。真理にも到達しかねない少女の雰囲気に呑まれてしまったが————何故だ、この横顔は知ってる。この鋭い刀剣を思わせる視線を自分は。

 無駄な思考を割いている時間は無かった。足音はいつの間にか消え去り、似た風貌をした異形達が、自分達を取り囲むように群がるのが見えた。

 自分を取り巻く状況に気付いた、或いは元からそのつもりであった少女が一言。

「やっちゃって」

 純白の独鈷杵が瞬時に青い肌から舞い飛び、近場の黒炭色の肌を貫いた。血の色だけは変わらない、零れる内臓と削げ落ちる筋肉、浮かび上がる骨も同じ色。

 自分達を取り巻く異形の者達が血に染まる。舞い散る肉片が流星の如く血の跡を残し、純白の刃に切り裂かれ続ける。ただ一つ、上げる悲鳴の声色はまるで違った。

「助けを求める相手は違う。恋人に親に兄弟、それに教師か。これだけ違うのにね」




 少しだけ夢を見た、見た気がする。

 自分の彼氏とやらが横柄な態度で周りへ威嚇をしているのを、楽しげに見つめている女生徒の夢だ。口癖のように「男の癖に」と言っていた女生徒は机の上で足を組むばかり、一歩として動かない。

 瞬時に光景が切り替わる。机の上から手を伸ばす女生徒へと振り返った男子生徒が、仕方ないと嘆息気味に応えた。抱きかかえる男子生徒が、わざとらしく口にする。

「重いな」

 と言った瞬間、女生徒が頭突きを繰り出した。足が動かない、下半身が麻痺しているようだ。だけど、そんな彼女は車椅子にも座らず、男子生徒に移動の有無を任せ————笑みを湛える。ご褒美と言いながら誇らしく、意地悪そうに頬を撫でた。

 自分達は強者なのだから、お前らは従うべきだという視線を走らせてはいた彼女は、鬼灯色の頬を忍ばせていた。そんな日常を友人達が朗らかに見つめているとも知らずに。

「何見てんだ?」

 酷い顔だ。額に傷を持つ男子生徒が、甘えてくる彼女と煽ってくる友人への感情の狭間で揺蕩っている。嬉しさと気恥ずかしさ、殴りに行けない悔しさに口元を歪ませ、精一杯の威嚇で自身の体裁を整えている。

 やはり空間が変わる。

 制服のまま白いシーツの上で目を閉じる彼女の手を、彼氏が無言で握っている。

 後悔も憎しみもありはしない。清々しいまでの、いっそ羨ましさすら滲ませる顔には—————顔には————片目が失われていた。

「仕方ない、そう言えれば良かったのによ。ああ、来世っつうのか。ちったぁ期待したよな。‥‥ほんの少しだけだけどな」

 振り返らない彼氏が彼女の親族に辞し、部屋から飛び出す。

 握り拳から血を噴き出し。爪は砕け、指は歪む。そんな笑顔のままの彼氏は誰に何も言わずに自身の病室へと戻っていく。残り幾ばくも無い、競争に負けた少年は一人で完走を目指すしかないのだろう。




「今回は泣かなかったね。慣れちゃった?」

「‥‥そうかもしれない」

 少女の黒い腹で瞼を閉じる。小さく深呼吸を始め、温かな空気を肺に溜め込む。

 自分には関係のない、諸人の一生でしかない。心を痛めた所で、偲んだ所で意味などない。だって、これは儚くはあるが他人の選択だ。自分が踏み込むべきじゃない。

「————人間って欲深い」

「そう思う?」

「今までの代償を支払っただけなのに、自分達は救わないなんて宣ってる。卑怯者は誰だよ。足を失ったのは、他人を騙して貶めて身体を売らせた恨みじゃないか。彼氏だってそうだ、自分よりスコアが速い恨みで夜襲を仕掛けた代償。復讐された結果じゃないか」

 自分が踏み込むべきじゃない。誰もが、代償を支払って生きている。

 アレらは割りに合わない欲望の支払いを、他人に背負わせた結果でしかない。あそこまで他人を蹴落とさなければならないのなら、それは分不相応だったというだけだ。

 何が来世だ、何が期待だ。お前らの犠牲者こそが、そんな言葉を使うに相応しい。

「でも、苦しいんでしょう?」

「‥‥苦しくなんてない。だって、あれは自業自得—————」

 再三、自分が他人に使われた言葉だった。無碍な扱いも、酷い言い掛かりも、理解し難い理由での暴力も虐待も、何もかもがお前の所為だと。お前が我慢すれば、俺達は救われると叫んでいたのを覚えている。何がお前の所為だ、足りないのは自分が原因でしかないのに。

「少なくとも、俺がまともな理由で貶された事なんてない」

 訳のわからない理由で、『恩を返せ』だと叫ばれた事もある。

 気付かない事が罪深いのなら、その場で正せば良かったではないか。だとしても、あれら狂人のルールなど、自分が解せる訳もない。あんな卑怯者達の論理など。

「言葉は理解できるけど、話が通じない狂人の相手なんて不可能だ」

「へぇ、雑魚でもわかるんだ。そうだよ、私達は誰にも理解されずに————」

 言葉の意味を問う暇も無かった。締め付けるように強く抱きしめられた頭は一向に動かせず、少女の物と成り果てる。だけど身体を奪われたというのに。

「安心した?」

 この心の静けさだけは、手放す訳にはいかなかった。

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