4話 ————鏖殺————

 少女の香りに微睡みながら黒のパーカーを掴む。内側にYシャツでも着ているようで少しだけ衣擦れの音が気になった。少女の顔を見上げると、物思いに耽っているらしく此方へは視線を向けていなかった。

 それも数分の間だけで、自分の腹に当てていた息が無い事に気が付いた悪性の権化は

「ん?どうかした?」

 と不思議そうに問い掛けてくる。余りにも卑怯だ。顔を歪ませてしまうぐらい麗しい。

 白い顔に黒の瞳が浮かび、赤と黒、血の色を塗りつけた唇はぷっくりと膨らんでいる。

 フードを被る姿は赤ずきんを思い出しながらも、内側に宿すモノは紛れもなく悪魔だ。

「どうかした?私と話したかったんじゃないの?察してとか思ってるなら、私には無理だから。言うのはタダなんだから、その口必死に動かせば?聞くかどうかは私の気分だけど」

「‥‥さっきの話。本当なのか?」

「はぁ?何が?」

 股で身体を挟み込まれた自分は、改めて少女の香りを肺へと流した。

「教室の死体を喰らえって話。‥‥俺には無理だ」

「大丈夫大丈夫。腐ってるかどうかが気になるなら、そこは保証してあげる。確かに人体は内臓と腸から溶けるように腐っていくから表面が幾ら綺麗でも疑いたくなる。だけど大丈夫。しっかりと防腐処置を施した、味付けをした死体だから。きっと美味しいよ。好きでしょう?添加物沢山のケミカルフード」

 歌うように告げた笑みには、一切の詐称を感じられなかった。悪性にこそ染まっているが、純粋無垢な言葉の数々には裏など無い。真に狂って居るのだと理解した。

「食べる食べないは自由とか、もしかして考えてる?残念、お前みたいな雑魚に拒否権なんか無いから。意味分かる?そこで私の腹に顔突っ込んでる様な雑魚は、私の言う事を聞かないといけないの。私からお前に命令してやる。早く喰いに行くよ」

 立ち上がった少女に手を引かれ、無造作に部室外へと引きずられる。何処かでどの様な異形の数々が見張っているかも分からぬ校舎を、我が物顔で進んでいく。

「なんで震えてるの?そんなに怖い訳?情け無ーい」

「だって‥‥また襲われたら」

「なら食べればいいじゃん。どうせ選択肢なんて無いんだから。向こうは足を切り落とされても喰いに来るよ。せめて呼吸ついでに殺せる心構えをしておいてね」

 嗚咽しそうな極刑を口にしながら、軽々と階段を降りる少女の手は固かった。

 振り解く事など許さないと宣言する手を掴み返しても、横顔で笑んでいる少女は何も言わなかった。この柔らかい白い手は愛おしくて、小さな爪が疎ましい。

 もしかして、この少女には校舎内全てが見えているのだろうか。

 屋上階から降り、2階の教室へと向かう道中、誰とも会わないのは不可思議な現象であった。仄かな香りを残す黒い長髪に言葉を掛けようかとも思ったが、口に出す勇気を握れなかった。

 舞い踊るように、一歩一歩踏み付けていく享楽の姿の邪魔は出来なかった。

「さぁ、着いたよ。2人で戻って来たら、勘違いされちゃうかもね」

 唐突な意味あり気な言葉に、面食らっているとつまらなそうな無表情へと転じてしまう。

「合わせてよー。私ばっかり痛い感じじゃん。まぁ、私みたいな美少女と雑魚じゃあ釣り合いが取れないか。あ、そもそも皆んな死んでるんだから、噂になんかならないか♪」

「‥‥どうして、そんな事言えるんだ」

「だって、少なくともお喋りな訳ないじゃん。全員くたばってるんだから」

 まるで躊躇せずに開いた教室には、何も変わらず遺体が横たわっていた。

 数人分の死体が誰に送られる事なく放置される教室の現状に胃酸が喉を駆け上がる。咄嗟に手で口元を抑え耐えるが、それを楽しむように頬を突いてくる。

「食べる気満々じゃん。やっと、その気に成ったね。童貞でも捨てる気になった?」

「‥‥ほんとに」

「食べて貰うよ。さもなきゃ、私が無理矢理口に突っ込んでやる」

 腰が引けた身体をズルズル引きずられ、ジッパーが開かれた死体袋の前まで到達する。あの時と同じだ。白い骨を支えるようにピンク色の筋肉が繋がっていた。

 赤い血が固まりこびり付く頭蓋骨は瞼でも塞ぐように、眼球は見当たらなかった。

「ほら、折角女の子が何もかも曝け出して目を閉じてるんだよ。食べてあげないと」

「—————さっきの骨じゃ」

「はぁ?死にたいの?早く喰えよ」

 見開かれた眼球には抗い難い力があった。逆らえば殺され、見捨てられる。天秤で量る時間さえ持たず、背骨が震える恐怖を押し殺し、腐臭が漂っている筈の死体袋へと顔を差し込んだ瞬間だった。腐臭など感じられない、眼前の血と肉と骨と内臓が混ざった肉塊と目が合ってしまった――――止められない吐き気に従い、教室の隅へと逃げ出した。

「あーあ。ダメだったかぁ。これだから雑魚は。ザーコザーコ、ひとりじゃあご飯も出来ないの?トイレも出来ないとか言わないでよ。お前の下の世話なんて御免だから」

 無理だった。自分の中の理性と倫理観、人間としての本能が許さなかった。

 極限状態、食べ物が何もなく、喰わなければ数分で死亡するという状況であるからこそ食人とは許される大罪である。自分は、心の何処かで、今の心情ならば出来ると。世界が許して自分の心を軽い物に作り替えてくれると信じていた。だが、自分は何処までもひとりだ。

「食べれない‥‥食べたくない。もう無理なんだ‥‥」

「ふーん。人の肉っていうのが、そんなに嫌だ?」

「自分は食べれるのか。そんな死体を――――そんな肉を‥‥」

 振り返り様に責め立てようとした瞬間だった。少女が死体袋に顔を入れているのが見えた―――そして、引き抜いた口は血で潤う肉を咥えていた。血で濡れた唇は野放しに、一歩一歩迫り来るのが見える。正気とは思えない、まともではないと理解していたが。

 屍肉を口にして押し倒し、胸を手で抑えつけ上を取る少女は人間とは到底見えない。

「口開けて――――」

 咥えたままの鈍る唇で繰り出された言葉に、自分は首を振った。しかし、片目で憤怒を知らせる表情をした少女が腹の上で跨り、両手で顔を掴まれる。

「言っておくけど、拒否権とかないから」

 少女の口で温められ、少女の唾液で味付けされた肉は――――美味かった。

 既に虜と成っていた少女の匂いの中でも、最も濃く最も芳醇な唾液と混ざった血を飲み干し、小さな歯で咀嚼されドロドロに変わっている屍肉を貪り、飲み込んだ。

 そして既に肉は無くなっていると解っていても、奥底にある舌を求めて絡ませる。血と肉が完全に胃に収まった後も、ひとしきり唾液を飲み、飲ませ終えた所で唇と唇を離す。

「ねぇ、なかなかイケるでしょう。お前は下手だったけど。で、感想は?」

 新円に開かれた眼球を用いて笑みを浮かべた少女が、口元を歪ませながら立ち上がる。手を差し出された自分は自然と受け取りながら、唇に触れていた。ただの屍肉、それも人の物だというのに、脳に薬でも打たれたのだと言い訳してしまう位の快楽を堪能してしまった。

「‥‥気持ちよかった」

「私の舌?当然でしょう。お前みたいな雑魚には一生無縁な物なんだからさ。それよりも、肉はどうだったって聞いてるの。わざわざ私の口までやったんだから、答えろよ」

「‥‥美味かった。本当に、」

「また食べたい?」

 心臓が警鐘を鳴らす。これは罠だ。人肉を貪るなんて、脳を病気でズタボロにされるぞ。

 穴だらけに成った脳では、ますます少女の奴隷に変えられてしまう。今すぐ、この場から逃げろ—————だというのに、再度、あのような親鳥が子供に食事を与えるやり方を施されるのなら。

「また、」

「良いよ、好きなだけすれば。それで喰ってくれるならね」

「‥‥あと、何回」

 隠せない欲望に語尾を強めて聞いてしまう。視線を背後へとやった少女が、横たわる死体袋の数を数える。あと四人だと、にべもなく淡々と告げた。

「あと四人。本当は丸ごと喰って欲しかったけど、お前みたいな雑魚には無理そう。それとも私の身体を通してやれば食える?まぁ、そんな面倒は御免だけど。さぁ、食べよう」

 腕を引かれる。先ほどの心持ちとはまるで違う感情の波に、自分は押し出される。

 自分から駆け寄るようにして辿り着いた足元のゴム袋に、少女と共に顔を近づける。ジッパーを開いた瞬間に立ち昇る臭気さえ気にならない。艶やかな唇から視線を外せない。

「はい。どーぞ」

 返事をする間もなかった。押し倒すように少女の口へと飛び込み、肉をお互いの歯で咀嚼する。粘液状に変わった肉を飲み干し、メインと変わった濃い熱い舌を絡ませる。まるで人形のようにされるがままの少女の肩を抱き、魂さえ抜き取るつもりで重ねた。

「まだ下手。それで自信でも付けたつもり?」

「どうすれば、上手くなれる?」

「当然、経験を積む事。精々頑張れば」

 倒れながらも次の死体を噛み千切った少女は、自分の胸へと出迎えるように両手を開き三度肉を突き出した。今度こそはと肉をろくに咀嚼せず、血さえ飲み干したのを皮切りに——————口蓋から歯茎、舌の付け根にすら舌を這わせる。

 死体を喰らうという罪を、混じり合うという快楽で塗りつぶす自分は穢れている。

 熱で脳が絆されていく、小さく薄い舌に絡む血の味の虜となり、もう引き返せなかった。忘れたかった訳ではない。だけど、蠱惑的で———焦がれてしまった少女に。





 何がそれほどまでに楽しかったのだろう。自分へと向ける言葉の数々は、どれもこれも薄汚く、可視化しようものなら吐き気を催す汚濁そのものなのに————自分へ罵声を響かせる親の顔は、全てが晴れやかな物であった。羨ましいぐらいに。

 —————お前さえいなければ私達は救われる。お前が居た所為で私達は不幸となった。

 —————だからお前は私達を救わなければならない、叶わないのはお前の責任だ。

 —————お前のような卑怯者は、すぐにでも贖罪を始めなけばならないというのに、何故そんなにも救われたい顔をするのか。この卑怯者め、お前がどれだけ罪深いか。

 理解し難い言葉の津波ではあったが、己が心の奥の底に、確かに罪悪感はあったのだ。

 言葉では表せられない、感情にも浮上しない、起伏しない記憶にも似た何か。

 きっとこれは懺悔なのだ。懺悔なのだから自分は傷つき苦しまねばならない。

 だが、この痛みを捧げるべき相手は一体誰だ。少なくとも誹りを続けるあんな奴らにではない。深く心に溶け込めば、必ずや自分の欲した物はあると信じている。

 だけど、それを得た時————自分は自分でいられるのか。罪の始原を見た時、自分は————。

「起きて」

 赤と白の螺旋階段から引き揚げられる。人々が瞑想と呼ぶであろう心情に、自分は到達していた。心の膜を切り裂き続け、奥底にある無色透明な存在と相対していた。色を付けるカーテンの深奥、自分という存在の煌めきそのもの。

 それは誰を見る事もなく、ただそこにいるだけ。だというのに————。

「そろそろ起きない?私、暇なんだけど」

 揺り起こされながら、意識をゆっくりと取り戻す。

 目を開ければ、黒のパーカーに改めて袖を通した少女が顔を覗き込んでいた。隠すように閉じられていた前面のジッパーは開け放たれ、膨れ上がった柔肌を覆う、黒い蜘蛛の巣を連想させる下着は晒されたまま。黒い肌着と白い肌の境目が朧げながらも見分け付き始める。

「ねぇ、起きてったら」

 視界の隅、死体を完全に分解し食し終えた白い独鈷杵が床に突き刺さっていた。

 眠気覚ましに手元に呼び戻したそれから、分解して自分の物とした情報を全身に染み渡らせる。数人分にも及び血の情報は、なんとも甘美な物だ。数人分の人生を経験するのと同意義で—————何故、こんな事を自分は理解している。

「まずは朝食から?童貞捨てたからって調子に乗り過ぎじゃない?」

「‥‥乱暴だったよな。痛くなかったか‥‥」

「全然、必死になってるお前は笑えたから。楽しく犯してもらったよ。さぁ、起きて起きて。そして私に話を聞かせて、しっかりと理解してるかテストしてあげる」

 締め付けが無くなった事で、解放された身体を恣にする少女は見た目よりも幼く見えた。敢えて言うのならテンションが高いと評するべき対応に、自分は黙って生徒役に徹した。

「えーと、まずは捕食した理由はわかった?」

「相手方の情報を得る為」

「よろしい♪覚えのいい雑魚は好きだよ♪じゃあ、次————得た情報の中に、何があったかは分かった?更に言うと、自分の物にすべき物は見つけた?」

 質問攻めだ。恐ろしく整った顔を突き出しながら迫る姿は、ホラーに通じる気がする。得た情報とは、先ほど少女の口から得た物だと推測する。だが、得た情報の中と漠然と言われても、自分には選択のしようがなかった。だから、他所を見やった。

「わからない‥‥」

「雑魚」

 吐き捨てるように発した言葉に、胸がきつく締め付けられる。

「ザーコ。正直は美徳とか思ってるタチかよ。まぁ、お前みたいな色狂いの雑魚には欠片も期待してなかったけど。あーあ、折角私が居てやってるのに、これかよ。これだから雑魚は————あなたの為に教えてあげる。私が命令した時だけ探って。さもないと」

 答えは自分の内側から聞こえた。

 死体の情報を得た所為だ。他人の記憶を受け継いだ所為だ。下卑た笑みを浮かべながら首を絞める男。多くの女生徒に囲まれ、服を毟られる光景。数十にも及ぶ土石のうねりに巻き込まれ、人々の身体を突き破り砕いていく地獄。そして、あの教師から受ける暴行を。

「はいはい、頑張ってね」

 止まらない悲鳴を上げながら、少女の肌に顔を押し付けた。憚る事なく自分の唾液と涙で汚れていく肌で口を閉じたというのに、尚も内側で連続する恐怖に呑み込まれる。

「思った以上にやばいじゃん。あは♪その必死な顔、かわいそー」

 パーカーを抱き締め、留まるところを知らない激痛の数々に意識を手放し始める。だが、そのような甘い終わりを許す筈もなかった。教室の外から数人の足音が響き、迫り来るのを伝わる振動で理解する。

「つらいよね。苦しいよね。死にたいよね。でも頑張って、だって私の役に立ちたいんでしょう。立ち上がって立ち向かって。さもないとお前は死ぬから」

 最後に頭蓋を強く抱きしめられた自分は、少女の操り人形のように立ち上がった。

 腕から生み出された白い独鈷杵が血でも求めるように、教室の外から飛び込んだ異形達へとその身を向ける。自分の意思さえ持ち合わせている独鈷杵に従い、手を離せば異形の一人に突き刺さった。腹から夥しい血を、到底人とは比べ物にならない量を吹き出す姿に、内臓が裏返る不快感を覚えた。

「良い腕してるよ。流石————」

 少女の声をかき消す絶叫を上げた、もうひとりの異形が突進してくる。

 手を繋いで、泣き崩れる寸前の自分には成す術無かった—————たった、さっきまでは。扱い方すら知らない筈の独鈷杵を遠隔で操り、迫りくる異形を後頭部から串刺しにし、その場で回転を加える。輪切りにされた頭を踏みつけた時点で、倒れ始める異形から刃を取り戻す。

「醜いな。殺していいか?」

「好きにしていいんじゃない」

 左手で握り続けている少女に問い掛けた、答えが返されたと同時に残り二人の異形の腰から下を切り落とした。溢れ出る内臓と血の濁流を靴底で感じながら、滑り落ちる上半身のひとつを突き刺して床へと縫い止める。そして独鈷杵の命令を下す。

 純白の独鈷杵が朱に染まり、手元へと血を運び込ませる、

「どう。美味しい?」

「マズイ。最悪」

「後で食べさせてあげる♪」

 必ず食える。必ず噛み砕ける。そう確信して押し入ったというのに、土気色の肌を持った異形が上半身だけで教室の外へと這い逃げようとしていた。だから、零れている内臓を踏みつけ、一言悲鳴を上げさせた後に脳髄を縦に切り裂く。

 数分にも及ばない攻防を終えた自分は、祈ってしまった。まだ正気に戻るなと。

 だが————だが、足元に転がる死体が人間に戻り行くのを見て————。

「お疲れ様。雑魚の割にカッコ良かったよ」

 少女に縋りつき、胃酸を呑み込むに走った。

「‥‥なんなんだ。どうして、こんなに辛いんだ。さっきまでは、あんなに」

「知らなーい。自分で考えれば?でも、そういう恰好の方がお前にはお似合いだよ」

 時間が無い。一連の騒音を聞き届けた足音がすぐそこまでは迫っている。立ち上がろうと少女の顔を見つめ、悪性を煮詰めた顔を求めた。察してか、それとも知っていたのか、あの微笑を浮かべた少女に腕を引かれ、強く抱擁を受ける。

「余計な物を知らなくていいの。もう一度見て、足元のソレは何?」

 それは死体だ。ただの死体なのだから、何も恐る必要はない。心の中で、自分と少女以外を区分して、心の幕を漆黒に染め上げてから覗き込んだ。声を発した途端、少女の手が口を塞いだ。

「もう人には見えないでしょう」

 舌舐めずりの音が、ほんの耳元から聞こえた。舌の上で唾液を溜めながら呟く声の通り。其処に転がっているのは、ただの肉塊。それも土気色の肌を持つ人外として映らない。

「‥‥もう平気。逃げよう」

「え?何言ってるの?」

 振り返るまでも無かった。腕を組んでる少女が一歩踏み出したのだと脳が処理する間際、黒のブーツを履いた小さな足の爪先が、人外の一塊を蹴りつけ、掃除道具が納められているロッカーへとぶつけた。骨が残る肉塊と薄い鉄板で作られたロッカーは壮絶な音を響かせ、ここに何者かがいるのだと、全身で知らせた。

「言ったでしょう。ここにいる奴らは、須くあなたの敵。どうせ最後は皆殺しにするんだから。殺せる内に殺した方が効率的。あれ、どうしたのその顔。変な顔♪」

 少女の悪性は留まる所を知らなかった。足音が近付くにつれて、二度三度と塊を蹴り飛ばし、自分達の居所を知らせ続けた。足が血で汚れていくのも気にしない、その顔があまりにも恐ろしく、震えてしまう程美しくて。あらゆる感情をたった一つの悪性へ束ねていた。

「さぁ、次々来るよ。覚悟を待つ時間なんて与えないから。さぁ、私を喜ばせて。あなたの精神を砕かせて。必ず、辿り着ける世界、解脱が完成するから。あなたならきっと至れる」

 腕を折らんばかりにしがみつく、新円に瞼を開き牙を剥く微笑みが麗しくて。

「全員殺せば、喰わせてくれる?」

 ————————自分も一歩踏み出してしまった。

 人間の質量ではない。一歩事に地鳴りを起こす巨体が教室の扉を片手で掴み上げ、投げ捨てる。しかし天井にまで達していた背丈では、扉の枠そのものが邪魔だと判断したらしい異形が、その大木を思わせる腕で壁自体破壊しながら教室へと侵入する。

「派手にやってくれたな」

 言葉など交わせる筈もない、そう見下していたが異形は狂った牙を器用に操った。

「オマエさえいなければ。オマエさえいなければ、我々は救われたのだ。————お前みたいな臆病で卑怯で屑な奴は、視界にも入れたくなかったんだよッ!!」

 右手から独鈷杵を引き出し、手の中で回転させる。手のひら代の独鈷杵は異形の牙よりも小さかった。鼻息荒く興奮した猪のように足踏みをする姿は思わず鼻で笑ってしまう位、幼稚で無能だった。この態度が殊更神経を逆撫でしてしまったようで、一つ咆哮を上げた。

「お前ッ!!何度も目を掛けてやった報いが、その態度かッ!?」

「お前なんて知らない。視界に入れた覚えも無い。どうした小心者、まだ来ないのか?」

 先ほど飲み干した血が全身に滾っている。血管から神経、骨までも燃えるように熱い。

 この熱が心地よかった。泡沫に消えると知っている自分は、更なる血を求めた。

 手のひらから撃ち出した独鈷杵は、視認する時間さえ与えずに確実に異形の喉へと届き、この下賤な声を奪った。野生動物の上げる生命の灯火とは比べ物にならない————欲望と裏切りを体現する奪うのみ魔族の声は耳に障った。あの時点では、あんなにも美しく。

「————あの時」

 頭から伸ばした衝突角を向け、破れかぶれの突進を繰り出された瞬時、手元に戻した独鈷杵を槍の大きさへと瞬時に変更し、手を繋ぐ少女を背中へと回す。

 まさか耐えられるとは想像していなかった、と驚愕の声を上げる異形は大きく交代し突進の準備を再度繰り返した。教室を周りながら狙いを定め警戒し、後ろ足を響かせ続ける。

 床へと突き刺した独鈷杵を片手で支え、一撃に耐えただけで何を驚く事があろうか。

 重さなど我らにとって、有って無きようなものだと————過程で瞼から血が噴き出る。

「痛む?」

 背後から聞こえた声に頭を振った瞬時、隙が出来たとばかりに一撃を加える異形を片手で制する。

 だが、今回は少しばかり知恵が働いたらしい。独鈷杵と鍔迫り合うように角を持ち上げた異形が巨大な顎を開き————落雷の前段階を感じさせる肌のちりつきを覚えた。

 どうだ。今度こそ殺し、今度こそ喰える。とでも言いたげに浮かべる笑みが嫌いだった。

 純白の独鈷杵は、自分の意のままに操れた。

 放たれた雷光を伸長した純白の刃で弾き、その場で霧散させる。

 刃を巨大に変貌させた独鈷杵は雷光すら喰らうが如く、一欠片も逃さない。鍔迫り合いに持ち込まれていた角では、それ以上の対応は出来ず————想像通りに腕で薙ぎ払いを受けるが、やはり軽かった。

「そろそろいいか。その顔は見飽きたんだ」

 脇腹で受け止めた腕は無視し、刃を縮め角から引き抜いたと同時に、喉奥へと独鈷杵を突き入れ串刺しにする。心地良い手応えだった————刺したと同時に分解を始め、内側から異形を喰らっていく。血を全身で貪る感覚に悦に入っていると、少女が間に入って一口。

「はい。あーん」

 濃厚な血液が滴る肉を口移しで受け止め、咀嚼した後、飲み込む。

 続けて少女の腰を引き寄せて血と唾液を絡め合わせる。ひとしきり舌を絡ませた後、元いた場所へと戻る少女を横目に徐々に全貌を失いつつある異形へと目をやった。

「お前さえ、オマエサエいなければ‥‥」

 壊れた機械のように、何度も同じ言葉を繰り返す異形は既に脳を失っていた。肌から筋肉、肌から骨へと奪われていく姿は蟷螂の捕食を彷彿とさせる。

「完全に喰っていいか?」

「そんな物、放置したって意味ないでしょう。やっちゃって」

 断末魔の悲鳴も上げる気力が無かったようだ。ただ少しずつ身体を奪われた異形は最後まで、この目を向けながら消えていった。余計な事を知る必要はない。

 そんな少女の言葉が頭の中で渦巻いていた。本当に、最後の最後まで。




「終わった途端にこれとか。相変わらずダッサーい」

 喉を潤す血の味を思い出した時。自分は少女へと縋り付き、脳内で演じられる走馬灯が過ぎ去るのを待ち続けた。

 内側から突き上がる臓に耐え、大量に分泌される唾液を飲み干し続ける。温かくて柔らかな香りを肺に溜め込み、数秒後の嘔吐の前兆に耐える。

「部室に戻るまでは、まだカッコ良かったのにさ。帰った途端にこれって。何処まで行ってもあなたは雑魚だね。ザーコ。どうすればそんなに情けない顔を作れる訳?」

「‥‥だけど、目的は果たしたんだ。戻って来るまでにも何人も。次はどうすればいい」

「そうね。少しだけ休憩しよっか。ここ、何でか見つかってないみたいだから。生徒達が勝手に作り出した部屋、想定外の認知外空間なんて驚き。それとも私とお話する?」

 何処までが冗談で、何処からが本心かわからない。その上、言葉の端々に無視出来ない単語単語を挟み続けている。こちらの正気を誘っているようにも感じるが————。

「ん?どうかした?」

 悪性を交えた優しげな顔を歪ませる気にならなかった。

「‥‥何処から来たんだ」

「それって聞いて意味あるの?あなたの現実は、この学校なんだから」

 秘密主義、という訳では無さそうだ。本当に今の俺にとっては意味の無い事だから教えない、聞くのならもっと建設的な質問をしろと言いたげな素振りを見せた。

 聞くのなら自分についての事だと思考を巡らせる最中—————表面上、上機嫌な少女は胸で頭を抱き締めながら、自分から切り出したのだ。

「お前にとって学校ってどんな所?」

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