3話 ————血と肉と脂と骨と—————

 吐き気が止まらない。腹に収まっている内臓をまとめてひっくり返した気さえする。浮き上がる胃酸を唾液で戻し、小さく息を吐く。それが失敗だった、僅かに与えた隙を見逃さず————耳元で大声を上げられる。

「何様だ、テメェ!!折角、お前が役に立てるようにオレ達が話しかけてやったのによ!?」

 間髪入れずに突き飛ばされ、恐らくは、彼らのみで溜めたゴミ袋を投げつけられる。中身の雑誌の角がこめかみに刺さり、頭蓋骨が割れる痛みが走る。ペットボトルと菓子の袋、何に使ったのかと問うのも野暮なオイル切れのライター。クラス全員で、勝手に決められた役目を淡々と果たしただけだというのに、たった一息さえも許されなかった。

「調子乗ってんじゃねよッ!!こっち見ろ!!無視すんなッ!!」

 顔を見る気さえしない。下劣な性格には相応しい醜悪な顔付きをしているのだと想像出来る。どうして、ああも醜い顔で外を出歩けるのかと問い正したくなる。汚い汚い汚い。

 更に怒号を向けられるが、もはや言葉とさえ認識出来ない。猿の言葉を理解するには、この自分も猿と同列の位に落ちなければならない。どうして、そんな汚い位置にわざわざ俺が降りていかなければならないのだ。

「‥‥疲れる」

 だけど、人間という下位こそが社会の主体だ。あらゆる物を醜く、下卑た笑みを浮かべた俗物共が決めていく。具体的に何を決めるのか?無論、犠牲だ。足元さえ見れない低次元の脳の持ち主達こそが、美しきを決め、尊きを踏み、法を定め、犠牲にしても良い物に指を差す。———————滅べ。滅んで消えろ。頭を垂れる必要はない。ただ燃え尽きよ。

「何様だ。どうして決められる。なんで終わりだと言える。神にでも成った気か」

 これが生まれた世界だ。これが育まれた素晴らしき世界だ。多くを犠牲にし、研ぎ澄まされた世界の在り方なのだから、これは正しく美しい。だからお前は間違っている。

 再度遠くから声を投げられる。夥しい数のゴミ袋の渦中からではなく、一歩も二歩も遠くから叫ぶ猿の言葉はこうだ。「そんな調子じゃあ、また嫌われるぞ」「また一人になるのは嫌だろう?」「諦めろよ。はは、ずっと見張ってるから、逃げるなよー」

 そうして猿達は腰を降ろす。そして次のゴミを投げつける。

「まだ猿の方が可愛げがある」

 聞こえてしまったようだ。顔を真っ赤にした生き物が、雄叫びを上げ始めた。




「美人だ‥‥」

 いつの間にか、また横に成っていた。肩を揺らされ真っ先に視界に収まったのは、生まれて初めて美しいと思った少女だった。黒のパーカーを深く被り、何者も映さない黒真珠の如き目を真円に開く。たったそれだけの仕草で、どうしてここまで心を掴めるのだろう。

「それって口説いてるの?でも、ざんねーん、お前みたいな雑魚は眼中にないの♪」

「‥‥俺、なんて言った‥‥」

 固い床で寝転がっていた所為だ。身体の節々が悲鳴を上げている。

「私がこの世の物とも思えないぐらい美しくて情欲をかき立てて————何を犠牲にしても自分の物にしたい。必ず犯してやるから覚悟しろって。ウケる、雑魚の分際で私をそういう風に見てるなんてさ。鏡の一つでも見れば?」

 この歪んだ顔一つとっても、自分の世界で最も美しい。心の中心をくすぐる声と心を塞ぐに事足りる言葉の数々には、脳を酩酊させる作用があるようだ。端的に最悪の目覚めだ。

「いつの間に寝てたんだ‥‥外の奴らは‥‥?」

「さぁ?勝手に確認すれば?」

 つまりは、今なら確認出来る程度には安全という話だ。寝起きで力の入らない手足を酷使し、ソファーの背もたれに寄り掛かりながら起き上がる。朝、ではない。眠って一時間として経っていないらしい。

「浄化‥‥」

 自分の中の選択肢は少なかった。学校から脱出しようにも、外には鬼共が跋扈している。校舎内を徘徊しながら隙を付き、仮に脱出出来たとしても、一体何処へ行ける。親は狂った。家へなど帰れる筈もない。ならば警察に————警察もマトモとは思えない。

「————俺、死んだ」

 まただ。また吐き気が振り返す。心の防波堤が砕け始める。

「あーはいはい。また泣きたいのね」

 まるで作業だった。両手を開いて、胸で抱き締めてくれる少女のパーカーで口を塞ぐ。温かな人肌と蠱惑的な香りに、心が軟化していくのがわかる。鋭く凶悪な刃を持つ現実から、今この時間だけは解放されていく。

「これってどういう感情?性欲、愛欲?それとも食欲?」

「どうでもいいだろう‥‥。外に出よう」

 少女の胸から離れ、手を引いて扉へと赴く。足音はしない、呼吸音も鳴っていない。静電気でも恐るように、しっかりとノブを握り——————ひとりでに開かせる。

「で、どこ行くの?」

「屋上だ。せめて何が起こってるのかを見たい」

「吐きそうだから空気でも吸いたいだけじゃないの?」

 半分の魂胆を言い当てられ、無言で手を引き、破壊された扉を踏み越える。屋上の状況は散々たるものだった。扉から延長線上にある手すりは、多くの化け物共に体当たりでも受けたらしく大きくひしゃげている。花壇は踏み付けられ、花も植物も砕け散っている。

 それらの中でも、最も目を引いたのは言わずもがな—————殺し合ったと思わしき血痕の数々だった。鼻を貫く鮮血の臭気に、苦い唾液が口内へと広がっていく。

「へぇー。面白い状況じゃん♪」

「‥‥何が面白いんだよ」

「小競り合いが始まってる」

 これが小競り合い?手の平を大きく越す血溜まりが、数えるのも馬鹿らしくなる程点々としているというのに。尚も少女は、こちらの感情などお構いなしに、手を引きながら血痕へとしゃがみ込む。

「殺し合いじゃないのか」

「この程度は小競り合いに決まってんだろう?覚醒した、アイツらが本気で殺し合ったなら、この程度で済む筈ないんだから。あなた人気者じゃん、沢山の神に求められてるぞ♪」

「神‥‥?」

 口から転び出た単語を、聞こえたのか聞こえなかったフリなのか、無視してひしゃげた手すりへと連れて行かれる。到底人間の質量とは思えない。鋼鉄製のソレはひしゃげる、どころか完全に砕けている様子さえ見受けられる。人の胴体を優に越す、丸みを帯びた肉体が押し付けられたのだと、邪推出来る曲線の折れ方に背筋が凍り付く。

「まぁ、でも。アイツらは失敗作なんだけどねー。異邦の人間と交わって過去の神性を貶められた結果、ただの魔物に成るなんて誰でも分かる筈なのに。だから、あの量産品は嫌いなんだよ。折角の純粋な因子を無駄撃ちして、生まれたのが、あんな化け物なんてさ」

「‥‥そろそろ教えてくれ。一体何の話をしているんだ」

「知ってどうなるの?」

 立ち上がった少女が、あの笑みを浮かべながらを目を覗き込む。

「知ったとして、あなたが取れる選択肢が増えるとか思ってるの?もしかして、まだ対話の可能性とか探ってる?あは、だから雑魚なんだよ♪断言して上げる————お前は殺し合うしかない。それ以外の可能性なんて無いから。全員、あなたの敵。捕食者に獲物が命乞いしてどうなる?うるさい、とっとと食わせろで終わり。以上、わかった?」

「敵を知ろうとするのは、間違ってるのかよ」

 この悪態には、笑みを浮かべるだけで何も答えてくれない。

 続いて軽やかなステップを踏んで先導されたのは、手すりがまだ残っている屋上の淵だった。中庭を見渡せる白いベンチまで連れて行かれた時、思わず口元を抑え込んでしまう光景に出会す。当然、真下を観れる距離にまで近付いたからだった。

「なんだよ、アレ‥‥」

 かろうじて人間の形を保っている姿も見受けられるが、須く中庭を闊歩していたのは夥しい異形の数々だった。一眼で分かった、紛れもなく本物だと。角や関節がいくつも増えた腕、人の胴体程度なら易々と貫ける爪の刃を手にした其れらが血と肉、皮で覆われた肉体そのものだと。

 脈打つ腕が生々しく、獲物を求めて開口と閉口を繰り返す顎は生物としか言えない。

「なかなかいい感じじゃん。あーあ、折角の因子であんな醜い姿に変えられちゃうなんて。勿体なーい。アレ一房でどれくらい価値があると思ってるの?花粉のつもり?数撃てば当たるって、それ、後が無くなった亡者そのものだよ。焦り過ぎだろう、臆病者がよ」

 こんな地獄の門が開いた光景を目の当たりにしても、少女は自分を見失っていなかった。寧ろ怒りでも滲ませ、嘆息するだけで視線を切り上げられている。同じ人間とは思えない。

「どう?何か感想は?」

「‥‥アレの主食が人間なら、外に餌を求めて出て行く筈だ。もしくは共喰いでも」

「その可能性は確かに大いにあるかもしれない。だけど、そうあって欲しいっていう願望は握るべきじゃないよ。観察も解剖も済んでいない存在に、期待なんてしちゃダメ。どうしたって結局はあなたが狙い。一時は時間を稼げるかもしれない、だけど最後の最後にはあなたを草の根分けてでも探し出す。覚悟しなさい」

 手すりに寄り掛かり、諭すように紡ぐ言葉の裏には、やはり教師かそれに類する教え導く者の片鱗が感じられた。自分の出会ってきた教師など碌な物ではなかったが、だからこそこういった端々には目敏く成ったのかもしれない。そんな彼女は、答えを待って見えた。

「気を付ける。期待はしない。アレは、ああいう物として扱う」

「いいよ。見たままを受け入れて、驚かず逸らず冷徹に。生きたいなら心を透明にして」

「もしかして唯一思想を学んでる?」

 そんな私語に少女は、「少しだけね」と薄く笑って答えてくれる。

 あまりにも狂気的だった。軽く微笑まれただけで脳裏に、少女の笑みが刻み込まれる。常に少女のこの笑みが脳内でチラつく。この狂った少女に脳内を覗かれている気さえした。

「どうしたの?」

「俺はアレに喰われるなんて嫌だ。あんな俗物供、視界にも入れたくない」

「うんうん、それで?」

「燃やせば殺せるか?どこを刺せば動かなくなる?」

 もはや、アレを無視して脱出など不可能なのだと断ずる他無い。姿形こそ変わり果てたが、アレは元は人間であった筈だ。俺を蔑んで足蹴にした、単一では何も出来ない獣の集団だ。アレはああいう物として扱う、獣には血を抜かれた毛皮と肉の姿こそ相応しい。

「やる気になった?」

 遅いと言わんばかりに、腕に絡み付いてくる少女と共に再度中庭を見渡す。眼下に蠢く姿は虫と差程も変わらない。誰もが美しいと指差し振り向いたクラスの美女も、きっとあの中にいる。だけど、思い出せば、自分にとってはただの肉塊と変わらなかった。

 ただの人と呼ばれる生物でしかなかった。

「じゃあね、まずは—————」

 運命は唐突だった。砕かれた扉を踏み付けて現れた存在に、自分は顔をしかめた。

「‥‥なんだよ、その顔はよッ!?わざわざサガシテヤッタのニッ!!」

 屋上へと続く階段から現れ、顔を覗かせたのは同じクラスの誰かだった。確か、という単語すら頭の中から生まれない。まるで該当しない記憶の中を諦めて、ああいう物として見つめる。

「オイ、なんだよ。その顔は‥‥なんだよ、その目は‥‥」

「————酷い顔だ」

 浮き出た頬骨とギラリと見開かれた眼球。白いYシャツの前を大きく開いた姿にはファッションという文化性など感じられない。暑いから裂いた、邪魔だから晒したと暗に告げていた。小さく鼻で笑った少女が、腕から離れて行く。道行きを見守るつもりらしい。

「どうすればいい。どうすれば殺せる」

「コロ、ス?お前がオレをか—————無理に決まってるだろうがッ!!」

 腹を抱えて高笑いを始める。探してやった、これの意味は、危ないから探しに来た、の筈がなかった。その証拠に、見つかる可能性を孕む高笑いを一切として止めない。

 まるで手柄を多くに知らせるように。

「無理無理ッ!!だって、お前弱いじゃん。だってお前独りぼっちじゃん?いつからオレと目を合わせて良いッツった!?いつもみたいに下なり上でも見て、クタバレヨ!!

 背中から取り出した手には、調理実習にでも使いそうな包丁が握られていた。

 不思議だ。刃渡りとして15㎝と言った所。本気で刺されれば内臓にまで達するソレを、自分は怯えずに見下ろせていた。明晰夢とは、こういった心情なのかもしれない。

 下卑た笑みを浮かべながら突進する姿は、直後に浴びる血の事しか考えられていない。手に取るように、考えている事の機敏が感じられる。小さく踏み出した足を重心に、放たれる切っ先の直線から逃れ、脇に逃したタイミングで一瞬の間のみ襲撃者と同じ方向を見つめる。同時に踵を蹴り上げるように、ボールでも蹴るように強めに靴と靴をぶつける。

「ダッサー」

 全体重を掛けての一撃を避けられ、勢いの方向を操られる。手すりに吸い込まれた包丁は真下へと落ちていったと音で理解する。振り返った顔は数多の感情が混ざり合っていた。

「か、勝手に避けるんじゃない!!」

「それで、どうすれば良い」

「決まってんじゃん。食べちゃえ、抵抗するなら手足でも切り落とせばいい」

 思わず手を見てしまった。ここまで心休まる時間があっただろうか。今の状況は、自分を殺す為に姿を見せた人間と相対しているというのに。身体の芯を少女に掴まれている。

「‥‥まずは」

 怯えも狂いもなかった。手は蛇のように、容赦なく人間の首へと届いた。汗でベタつく肌に手の熱が籠る。手すりへと逃れる姿に、なんの感慨も湧かなかった。ただ見つめられた。

「ク、ククク‥‥」

 途切れる息で笑い、表情筋を無理に動かす、無機的な顔に吐き気がした。

「あ、もしかして、もう起きてる側?」

 大きく後退。自分の脚力とは思えない、大きな力を操れていた。

 首が自由となり、呼吸を取り戻した人間は———左肩から変化した。

 巨大な角が人間の骨格を無視し突き出され、左半身が徐々に狂っていく。今まで見た記憶の中でも、際立った異形に目を細める。口から発せられる言葉の数々は、到底正気の人間とは思えなかった。全身の筋肉が軋み、肺と言った臓物を内包する動体まで全て変質終えた時、あの笑みを浮かべる。

「オマエは、ヤッパリ、オレ達に従っておくべきだったンダ」

「————その結果、俺はどうなる」

「聞き返してんじゃねッ!!オレが話してるんだ!!」

 見下ろせる程に身体を伸ばし、肥大化した腕を屋上の床へと打ち付ける。

「ワザワザ、オレ達がお前に目を掛けてヤッタ。やっとお前を役に立ててやれる。オレ達の為に、喰わせてくれ。お前さえ頷けば、ミンナが救われる。お前みたいな卑怯者でも、褒められる。褒められたいダロウ?親にさえ、見捨てられたんだからッ!!」

 外へと伸びきった牙を持った口を、顔を隠さんばかりに開く。先程とは迫力も突進力も、何もかもが比較出来ない。だというのに、やはり自分は恐れていなかった。

「————これ、」

 ソレは澄んだ白をしていた。腕から突き出された発光物は、自分の意思を持つかのように迫り来る異形へと飛行した。牙を持つ化け物に、腕一本分しかない飛来物が、どれほど意味が有る。真っ当な物理的な作用を考えれば、鼻で笑われた筈だ。

 だというのに、易々と異形の身体を貫通。焼け焦げた風穴を作り出し、再度異形の身体を貫通して手元へと戻って来た。手元のソレは、発露した時とは明らかに違い、巨大化し、自分の背丈にも届き得る程の槍。独鈷杵となっていた。

「あは♪やっと見せてくれたね。だけど、ちょっと想定外かも」

 いつの間にか、またも腕に絡み付いた少女が独鈷杵を指で突きながら、そう告げた。

「期待外れだったか?」

「いいや、全然。むしろますます君に興味が湧いたかも。雑魚の癖に私を楽しませてくれるなんてね。ようやく眼中に入れてやってもいいって下してやれる。精々、励めよ」

 せせら笑いながらも、指で愉快そうに突く少女の姿に、あどけなさが現れた気がした。

 カタカタと、死にかけの虫を彷彿とさせる死に体様を晒す『誰か』が、首を上げて穴の開いた胸を上下させる。とうとう人間では無くなったのだと、哀れみすら持ってしまう。

 人間のまま死すれば、あっさりと次に向かえる、迎えられるというのに————。

「お、オマエ、お前‥‥」

 赤く染まった身体から流れ出す鮮血を晒しながらも、着実に体勢を元に戻していく。遂には両足で完全に屹立した『人間で在った者』が、震えながら鉤爪を延ばした。

「脆い姿だ」

 白の独鈷杵を握り締め、斜め下から斬り上げる。中程から切断された腕は宙を舞い、同時に深々とした傷を残す胴体から、残留する血を吹き出し、日光を浴びる姿で倒れ伏した。

「はーい、お疲れー」

 たった今、生命のやり取りをしたというのに————この少女は————。

「死んだ‥‥?」

「そう、あなたが殺した」

 何も驚く事はない。だってお前が殺した。お前が自分の都合で刺し、斬り殺した。

 何故、手が震えている。自分で選択したのだろう?死にたくないって。誰からの指示もなく自分で選び取った結果、責任という形で、そこに横たわっているだけだ。

 まさか————後悔しているのか?

「はいはーい。正気に戻っちゃったのねー。狂って狂ってー」

 振り乱した髪諸共、頭を抱き締め心音を聴かせてくれる。開き切った瞳孔から痛みが走り、悲鳴を上げていた口角から血が流れる。真横に転がっている血濡れの独鈷杵に視線を逸らしてしまった瞬間、つい先程までの現実が怒号上げて自分を責め掛かる。

 自分1人で決めたからだ。お前のようなちっぽけな存在が、人の迷惑も考えずに自分を押し通したからだ。よく見ろ、目を逸らすな。そして恐れろ———全てはお前の所為だ。

「泣かない泣かない。あなたは、人間を1人殺しただけだから。あ、元人間か」

「やめろ‥‥やめてくれ‥‥」

「でも、ここで踏み越えないと、また襲ってくるよ。殺したっていう現実がね」

 黒いパーカーの繊維一つ一つが視認出来る。洗脳され、目を閉じる事が叶えられない。耳を塞げず、何処までも享楽で冷酷な少女の声に、自分の守って来た物を削り取られていく。

「い、嫌だ————もう、殺せない」

「あっそう。ならそうすれば?あっさり死ぬだけだけど♪」

 示すように、死体を足蹴にする音を聞かせられる。これは始まりに過ぎない、今回殺したのは偶々顔見知り程度であっただけだ。次は、誰だ。教師か同級生か。親か。

 恐ろしいだろう。逃げ出したいだろう。もうお前は人殺しだ。自他共に認める、殺人鬼だ。自分の都合で何も罪も無い若者を殺害した、穢らわしい殺しの————。

「————ん?静かになっちゃったね。もしかして、また眠るの?」

「殺すのが怖い?」

 同級生?教師?親————脳裏に過った、それらの死体を瞼の裏で見渡してしまった。

 何が怖い。何が恐ろしい。何が穢らわしい。俺を血祭りに挙げようと、諸手を挙げて行進を開始した異形達ではないか。殺す事に、何の躊躇いがある。

 ————殺しに来るのは、その三方だけではない。お前を断罪する勇姿を眼に収めようとする、無辜の人々、なんも罪もない見物人だって来ているのに。お前はまた自分勝手に殺すのか?やはりお前は、穢れた————都合が良いではないか。その眼に、我が姿を。

「はーい、戻って来て」

 腹部に頭を収め、思考を巡らせていた最中、肩を揺らし現実世界へと引き戻してくれる。

「私のお腹って、そんなに居心地が良い訳?嬉しくない訳じゃないけど、お腹好きって結構アブノーマルじゃない?今度、消化中の胃の音でも聞かせてあげようか?」

「要らない‥‥」

 膝で立っていた身体を操り、自分で自分を釣り上げるように立ち上がる。つい数分前の攻防は夢などではない。確かに血塗れのそれが横たわり、凶器である純白の独鈷杵はすぐ隣に転がっている。独鈷杵に意識を向けると、ひとりでに浮かび上がり腕へと舞い戻って来る。

「————これは、なんだ」

「あなたの骨から生まれた槍。まさか、このタイミングで浮かび上がるなんて想定外だった」

 試しに少女へと手渡してみると、手が血で汚れる事も気にせず興味深そうに刃の上で指を遊ばせる。人体など容赦なく切断出来る重量を、見た目通りならば持っている筈の独鈷杵は、本当の骨のように軽々と持ち上げられた。それは少女も同様らしい。

「急いで導いてあげた甲斐があったかも。うんうん、これは良いね。聖仙の可能性も視野には入れていたけど、金属でも金剛石でもないのはその証明の不可能を示している?あ、でも、これは私の知らない星の金属の可能性も———あーあ、あの馬鹿息子が言われた通りにアダマンタイトを競り落してれば、類似品が手に入ったのに」

 一体、何の話をしているのか理解し難い。すぐ後ろには、未だ死体が横たわって。

「いい加減慣れなって。面倒臭い雑魚。さっさと食べちゃえよ」

「た、食べる訳————」

 舌打ちをした少女に気圧され、肩が縮こまった時だった。仕方ないと、小声を零しながら死体へと振り返った少女は、手に持つ独鈷杵を掲げ、異形の死体へと突き刺した。

「雑魚にはやっぱし無理だったかー。直接喰らうのと、これじゃあ効率は比べ物にならないのに。切り刻んで料理にでもすべきだったかな。でも手料理を食わせる相手が、この雑魚なのはなー。あーでも、アレは私の手料理でもあるのか。そう思うと、割と運命的?」

 独鈷杵を突き刺された死体は、電流でも流れているように、死後硬直を思わせる小刻みな振動を起こす。だが、勝手に動いている訳ではないのだと、直後に理解する。

「血を吸ってる‥‥」

「血だけじゃねぇよ。肉も骨も、全部吸収して変換してるの。よく見れば?」

 徐々に死体が小さく薄くなっていく。最初に表面の皮と血管が、続いて筋肉と骨が晒され、終わり際には内臓が破裂し血が溢れ出す。あまりの凄惨な光景に絶句し、また内臓から胃酸がぶり返して来る。口元を抑え、床に突っ伏すと背後から呆れた声が聞こえ、

「えー、この状況でまた私に甘える気?いい加減慣れてよー。流石に自分で処理してよー」

 と、嘆息しながらも、歩み寄る音がする。背後から抱き締められた自分はすぐさま振り返って少女の髪の香りを肺に溜める。頭上から息を吹き掛けられ、温かな空気を更に吸う。

「ほら、雑魚。アレは自分で回収して。少し書き換えたけど、まぁ、大丈夫じゃない?」

「————戻れ」

 こんな得物、手に持った経験など皆無だ。振り回すなど以ての外。だというのに、念じれば手元に戻るという『理解』が出来ている自分がここにいる。手元の独鈷杵を眺められる自分がいた。そして、その間も少女の両腕に抱かれている自分も、存在していた。

「ちょっと許したら調子に乗って。雑魚のくせに。いや、雑魚だから仕方ない?」

「これで、喰った事に成るのか?」

「そう思って正解。だけど、本当は自分の口で摂取した方が良いの。確かに、この槍はあなたの身体ではあるけど、あくまでも矛。カルシウムとかが足りなくなれば、骨から栄養を摂取するのと同じ。緊急用の代替行為だと覚えておいて。まぁ、無理そうだけど」

 この少女とは、完全に初対面だというのに————気の置かない態度に安堵している自分がいた。雑魚雑魚と二言目には言われるが、合算すれば1時間程の抱擁を終えていた。

「‥‥何処かで、会った事ある?」

「はぁー?ある訳ないでしょう。お前みたいな雑魚、私が気にすると思ってるの?」

「だけど————」

「つまんない口説き文句でも考えてる暇あるなら、さっさと慣れろよ。雑魚がよ」

 言葉こそ酷く鋭いが、突き飛ばす事なく腹と胸で抱いてくれている少女の思考が読めなかった。まるで、という言葉を使う必要がない程、自分を見下しているにも関わらず、期待にも近い感情を持って希望を与えてくれる。この狂った世界との対話法を示してくれた。

「いいの?あんまり、ここに居るとまた襲われるけど?」

「‥‥ひとまず部室に戻ろう」

「—―—―まぁ、いいや」

 今度は嘲る事なく頷いた。手を引いて立ち上げられた自分は、勝手知ったると歩幅で告げて来る少女と共に天文部の部室へと蜻蛉帰りを果たした。途端に足の力が抜け、部室の床へとへたれ込んでしまう。嘆息気味にテーブルに座り足を組んだ少女に見下ろされる。

「たった一人ヤッただけだって言うのにさ。どうして、そんな顔出来るの?」

「‥‥俺、殺したんだ」

「だから?せめて一人で殺せるようになってね。殺す度にこうなってたら、いつまで経っても終わらない。君には、ここに居る全員を喰うなり殺すなりして貰わないといけないんだから」

 空気を吸うように、耳を疑う内容を口にした。咄嗟に反応出来ず口ばかりを開閉してしまう。しかし、当の少女に—―—―何を驚く事が?と言いたげに怪訝な表情を向けられる。

「ぜ、全員殺す必要は—―—―」

「言ったよね。狙われてるのはあなただって。獲物であるお前が生き残っている以上、最後の一人足りともお前を見逃さない。共喰いでも始めるって思った?安心していいよ、全部全部お前の獲物。お互いが捕食者なんて、良くある自然の摂理でしょう」

「狂ってる」

 この一言へ満足気に頷いた少女は何も変わっていなかった。

 愉快だろう?と問うように、テーブルから降り立った少女に頬を撫でられる。

「酷い汗。食あたりでも起こした?それとも空腹で動けない的な?いい加減諦めなって。手から骨が飛び出して金剛杵に変わる世界なんだよ。自分の常識で測れないのは、辛いかもだけど—―—―—―全部喰らって、全部理解してしまえばいいんだよ。ざーこ♪」

 舌を覗かせ、牙のような八重歯を剥く姿には、外の異形以上に狂った姿を思わせた。

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