2話 ———輪唱・盟約の始まり———

「まぁ、でも逃げるなんてやるじゃん。自分の事は助け出されないと何もできない雑魚だと思ってたのにさ。このパターンは稀有だよ————わざわざ、私が出向いてしまうぐらいにね」

 何者かによって作り上げられたような、完成され過ぎた肉体でほしいままに遊ぶ少女が、今は何よりも恐ろしかった。黒のパーカーをYシャツの上に被る姿により、殊更少女は自身の小柄さを表現して見える。そんな少女が————この異常な空間の中でも自分を見失わず、牙を覗かせる笑みを湛え続けている。暗い教室の中でも決して己を見失わない姿を。

「でさ、どうしたい?」

「どう、って」

「このまま何も知らない風を装ってたら、お前は死ぬけど?」

 息を吸うように、自然と吐き出された悪意なき言葉に身震いをする。見覚えのない少女は、自分よりも背の高い相手たる俺が慄いているのを満足そうに伺っている。

「私的には、このままレアなお前がくたばるのは看過できない訳、わかる?だって、ようやくアイツらの手から離れた行動を示したあなたを、こうやって餌食にしようとしてるの。そんなのつまらないじゃん。アイツら、自分の当初の目的を見失ってる」

 迷いなく紡がれる文脈を、忌々し気に語る少女はダンスでもするように腕から離れるが、手だけは自然と掴まれる。ゾッとするほど冷たい手はマネキンを思い出す。

「あれ?もしかして君も、触れられるのに慣れてないの?悪くないよ、そういうの。身持ちが硬いっていうのは間違ってないと思うし。同年代ぐらいの中には変に自信を付けてアレコレ手を伸ばしちゃう身の程知らずが————」

「————足音が、」

 少女の背後、開かれた扉を通して人ひとり分以上の靴底の音が鳴り響いた。

 そう告げた瞬間、少女は顔を笑みとは決して言えない歪ませ方をする。先ほどまでの悪意のみに彩られた破顔は、彼女なりに心底楽しんでいたのだと気付かせられた。

「これだから首輪共は嫌いなんだよね。せっかくの解脱候補を、自分の想定外のタイミングで生まれたからって喰わせようとするなんて。ひとり一口も残らないだろうが」

 何を呟いているのか知る由もないが、ひとり一口という単語は決して無視できる物ではなかった。この場から廊下を通らず逃げるのは不可能だと判断し、軽い少女の手を引いて教室の片隅、残された教卓の中へと無理に逃げ込む。

「え?もしかして死を楽しめるタイプ?」

 この状況だというのに少女の飄々さは変わらなかった。声を出させる訳にはいかないと口に手を当てた途端に、死にたいのかと問いたくなる程の絶叫、爆笑を始める。 

 足音は確実に教室へと向けられていた。想像は正しく、既に開かれている扉を蹴り破り、到底人間の鼻息とは思えない酷く荒い呼吸を始める。声さえ獣のそれとしか形容出来ず、背骨を底から凍てつかせる大きな低い足音に瞼を張りつめ続けた。

「——————————」

 声どころか息さえ許せない。

 小さい心音さえ止め、肺の膨らみも許可しない。生物としての最低条件である血の脈動も硬直した身体には相応しくない轟音だった。自分の気道から鳴り響く、唾液を呑み込む音さえ止めた時————ようやく獣達は死体袋へと飛び掛かる。

 教室中に響く咀嚼と嚥下、骨を砕き皮を剥がす、その光景からは想像できない軽い断続音を発する。今しかない、自分へ言い聞かせた時、少女の手を握って教室の扉へと駆ける。背後の晩餐には目もむくれず、自分の命さえ燃やすように疾走する。

「へぇ、また逃げるんだ」

 後ろの少女が砕けるほど掴んでいる手には一切言及せずに、その呪いを吐いた。

「結局、お前は操り人形。目の前の事実すら視ず、求められるままに目を閉ざす。そうしている事で、誰が最も喜ぶと思う?少なくともお前じゃない。お前というルール違反者が、邪魔で邪魔で仕方ない連中が醜く嘲笑うだけ。カッコ悪ーい」

「それの何がいけないんだ!!」

 そんな声は無視しろ。そうだ、その手を離せばお前だけは生き残れる。いつかは捕まるかもしれない。いつかは喰われるかもしれない。だけど、このタイミングでは生き延びられる。—————そうだ、この子を捨てれば自分だけは———自分だけは。

「あれ、足動かさないの?捕まって食べられちゃうよ?」

 結局は捕まる。結局は喰い殺される。結局————自分は何も知らずに死ぬだけだ。事実があるのなら、その先には真実がある。目を閉じては見えない、自分だけの真実がいる筈だ。一瞬だけ生き延びられて、なんの価値がある。惰眠を貪れたとしても、それは今一瞬でしかない。それよりも————俺を貶し、貶めた何者かを。

「意外と素直じゃん」

 真円に見開かれた少女の背後。そこには何かがいた。

 口の数、目の数。頭の形から肋骨、腰、膝の角度。全てが人とは似ても似つかない、この世の存在とは想像も付かない異形の者達。口と思わしき部位には、外へ内へと向けられた牙の数々。ぞろりとした牙には肉片が残り、血管と神経が零れている。

「退けッ!!」

 廊下へと振り回すように少女を引き寄せ、壁へと投げる。だけど、黒のパーカーを被った少女は手を離さない。それどころか爪で手の肉と強く結んでいる。

「なんのつもりだよ!?」

「はぁ?こっちの台詞なんだけど。急に退けとか、投げるとか意味わかんないし」

 先ほどから、この少女は現実が見えているのだろうか。彼女の言動はまるで読者のそれだ。現状を理解している筈なのに、どこか他人事。釈然としない言葉の数々に脳が熱暴走を始める。目の前には人を喰らう鬼どもが屹立しているというのに。

「———どうすればいい」

「言わない。今ので気分を害したから」

「言う事に従えって言ったのはお前だろう!!どうすれば、役に立てる!?」

 鼻で笑う声だけが聞こえた。たったそれだけの声とも言えない音であった筈なのに、眼前の鬼どもよりも目を向けなければならない寒気を受ける。首が折れんばかりに振り返った時——————少女は僅かに天井を仰ぎ見る、こちらを見下す表情を造っていた。

「やっぱし、雑魚だよね〜。見ず知らずの美少女に縋り付くなんてさー。そういう無様に命乞いする雑魚、嫌いじゃないから助けて上げようかな?むしろ大好き♪」

 この混沌の中でさえ歓喜としている少女は、何処までも他人事だと告げている。

「問われたなら、教えてあげる。食え———」

 その言葉は聞きたくなかった。脳が理解を拒む、この身に流れている血を嫌悪してしまう。ついさっき、自分は確かに死んだ。銃弾の熱と圧迫によって野球ボールひとつ分の血と肉と脳を失った筈だった。そうだと確信した終わりであった筈なのに。

「‥‥食べたくない」

「なら、お前は死ぬ。お疲れ様ー♪」

 手を振る音だけが聞こえる。こちらの様子など気にも留めない鬼達が、人ひとりを容易く喰い千切れる顎門を悠々と開く。これはただの弱肉強食、自然の摂理。進化の過程——————幾ら自分に言い聞かせても、その可能性に手が伸びなかった。

「逃げるぞッ!!」

 少女の手を砕く勢いで逃走する。何も言わずに付き従う少女は不気味でありながらも、自分以外の正気の人間と離れないで済んだのだ、という安堵感を握っていられる。

 足を止める訳にはいかない。———遅れれば少女を守れない。

 振り返る暇もない。———期待外れだと告げる顔を見たくない。

 追手達の足音に気を回せる程、自分はまともでなかった。既にお前は二度目の死を体験している。今のお前は身体を失った霊魂だ、とでも囁かれれば直ちに足を止めて苦しい肺を解放している所だ。しかし、足元から響き上がるゴム床と上履きの音は、自分が発している。

「どこまで逃げればいい!?」

「ここはあなたの学校でしょう?自分で考えれば?」

「お前だって死にたくないだろうが!!」

「あ、盲点じゃん。そっか、私もここにいるんだった。私ったら可愛い♪」

 少女は戦力外だと決めつける。渡り廊下はダメだ、直線距離では一人で自由に走れるあちらが有利。だから自分は階段へと疾走した、白昼夢に囚われている少女ひとりを抱えているとは言え、降りであれ登りであれ徒競走よりはマシな結果を求められる筈だと。

「脳内会議終了?何処行く感じ?」

「黙って着いて来い!!」

 今日は多くを体験している。同年代の少女に、こんな口の利き方をした試しもない。

 この心を見透かしているように「ハンッ」と鼻で笑った少女と共に廊下の果てにある階段へと到着した時、手すりに手を伸ばした時、僅かに——————心に魔が差してしまった。

「見たら足が止まっちゃうよ」

 この声に首が踏み止まった。首の皮に皺一つ付ける事なく、自分は階段を駆け上がる。つい数分前に心を砕いていた静音性など既に捨て去っていた。四つの足で階段を踏みつけ、下層に自分達の存在を知らしめながら————記憶の限り、最後の可能性に賭けた。

「どこまで行くの?もしかして屋上に立て篭もるつもり?それはオススメ出来ないよ♪ゾンビ物とかだと屋上は定番だけど、そこって大体最後は火の手で巻かれてね♪」

「いつまで他人事のつもりだ!!俺は、まだ死にたくない!!」

 屋上に続く最後の踊り場に駆け込み、施錠された屋上への扉を蹴り破り——————外には出ずに、もう一つの扉、天文部の札が掛かった扉の前で育てられた植木に手を入れる。

「見つけた‥‥」

 冷たい小さな鍵を握り直し、真下から迫る音から背を向ける。だが、徐々に近付く足音の恐怖心は自分をどこまでも煽り続けた。狂う手元と距離感を見間違う眼球。たった二工程の行動さえ、いつまで終わらない。

「ほらほら来ちゃうぞ来ちゃうぞ‥‥」

 跳ね上がりそうな心臓を更に少女は弄ぶ。手元が見えなくなり、涙さえ感じる。

 尚も耳の穴に息を吹き入れる少女に殺意すら湧き始めた。本当に呪うべきは、自分の臆病さだとしても、何故、こんなにも我関せずと自己を放置出来るのか。こんなにも恐ろしく、ふとした瞬間泣き出しそうな脆い心を、確実に擦り減らしながら逃げ出したというのに。

「良い考えだったのにねー。君には無理だったかー」

 爪さえ腫れ上がり、指元の神経が薄れていく。鍵と鍵穴のどちらも自分の手元にあるというのに————逃げ出すなんて無責任だ、きっと逃げ出す程の隠し事、後めたい事があるんだ。つまりはお前が犯人だ、生き残った者の責任としてお前が全ての責任を取れ。

 そうすれば、我々は救われる。そうすれば、我々はお前を汚物として扱える。

「でーも、折角求められたんだから、手助けはしないとね」

 冷たい手が重ねられる。芯を持つ、一切揺れ動かない骨を持つ少女に操られた腕は静かに、確実に鍵穴へと吸い込まれる。間髪入れずに鍵を捻り、開いた瞬間に飛び込む———!!

 心拍と心拍の間隙、肺の膨らみの最中、姿形は鬼だとしても中身は紛れもない人間達の足音が屋上へと流れ込む。抑える物を無くした土砂のように、何者も逃れられない鋼鉄の戦車の如く——————血と肉を求める狂気の足音は、終わりなく贄を求め続ける。

「し・ず・か・に・ね♪」

 閉めた扉に頭を押し付け、懺悔でもするような態勢を取っていた自分の口に白い手が回される。止まらない足音にえずき、喉の奥を焼けそうな液体が遡る。喉が焼けても構わない。

 無理に飲み込んだ胃酸の後味を、大きく吸い込んだ少女の手で押さえ付けた。

「偉い偉い、吐いちゃうと思ったのに」

 どのくらい経っただろうか。気が付いた時、自分は横に成っていた。視界を処理する脳を取り戻し、瞬きを思い出す。直後だった。声と感情を混ぜ込んだ激流に心が取り込まれる。

「もう消えたみたい。良い考えだったよ、なかなか楽しめたし」

 起き上がろうとした頭を手に抑え付けられる。静かに悟すように鼓膜に言葉を注がれる。

 恐怖と憤怒と安堵と狂気。身喰らうあらゆる感情に心の壁が砕け散った—————。

「うんうん。いーっぱい頑張ったね。君には心を解き放つ資格がある。頑張って耐えてね」

 泣き叫び、しがみ付き、うずくまる。枕としていた少女の足に目元を押し付け、黒のスカートを涙で汚す。終わらない激情に、頭を抱いて足を開いてくれた少女に更にしがみ付き、腹に頭を預け渡して悲鳴を抑え付ける。このまま砕けてしまいたい、このままずっと——————。





「——————ごめん」

「賢者タイムって奴?さっきまで、あれだけしがみついてた癖してさ」

 心の中身を完全に空にした自分は、少女の視界から逃れるように部屋の片隅で隠れていた。天体望遠鏡群の立ち並び、月を模した円形の机、星々の周期を示す特殊な模型——————ありとあらゆる機材の影を盾に、肩を抱いていた。

 そんな俺にパーカーの少女は、身を屈めて言葉を交わしてくれている。

「まぁ、いいや。でも、良い所知ってたじゃん。どうして真っ先にここに来なかった訳?」

「‥‥あの教室なら誰も来ないって思ったから。ここは、何度か出入りしてたから」

「君を知っている人間なら、真っ先に探しに来るって考えた訳。なかなか考えてるのね」

 興味深そうに天井に張られた星々の模型を眺め、「割と正確じゃん」と一回りして行く。

 怒りも何もかもを吐き出し、今は空虚しか感じない自分は足を抱きかかえたまま、今後の事さえ思い付かなかった。逃げ出すか、閉じ籠るか。どちらも選べないでいた。

「どうすればいい——————」

 額に手を当てて、目を閉じる。

「どうすれば、」

「ここから出られる?」

 唐突な声へ真っ先に足が反応した。跳ねるように飛び上がった身体だが、痺れていた足では歩く事さえおぼつかず、周りの多くを薙ぎ倒しながら倒れ込んでしまう。なんて無様な格好だ。こんな姿を見せれば、同じクラスの連中が揃って手を叩いた筈だ。

「ダッサーい」

「うるさい‥‥仕方ないだろう」

 あの顔だ。心底、人を侮蔑した笑みを浮かべる少女を睨み付けながら立ち上がり、継ぎ接ぎだらけのソファーへと腰を下ろす。酷い座り心地だ、底が抜けているように腰が何処までも沈む。

「その顔、やっぱりだーい好き♪その自分以外全部敵って感じの、小動物みたいな顔♪そういう顔してる畜生をヤッてイくの、楽しいんだよね。知ってる?草食動物が肉食獣に食べられてる時って、性的な快楽を感じてるんじゃないかって言われててね」

 まるで教師のような言葉遣いで、下劣な事を説明し始める。それが真実かどうかなど、誰にも分かりはしないというのに。誰とも知らない、しかも初対面の相手であるのに、遠慮なしに真横に座った少女が——————説明の途中で悲鳴を上げた。

「え?」

 自然と口から転がる言葉に、パーカーの少女は張り付けたような笑みで硬直した。

「どうかしたのか?」

「は?何が?つまんない事言うなら無視するから。雑魚」

 底の抜けたソファーに驚いたらしい。確かに少女の下半身を、腿どころか完全に骨盤までもがソファーに沈んでいる。奪われた足では組む事さえ出来ず、どこかテディーベアを彷彿とする姿に、改めて年下の雰囲気を覚えた。

「何見てるの?雑魚のくせしてさ?」

「‥‥これからどうすれば良い」

「知らなーい。私はお前の状態には興味があるけど、お前の状況には興味がない。死なないように頑張れば?だって死にたくないんでしょう?必死こいて足掻けよ雑魚♪」

「——————どうすれば、俺は君の目的の手助けが出来る」

 言っていた筈だ。彼女は、俺という存在がくたばるのは看過出来ない。

 俺のようなケースは稀有だったから、私が来てしまったと。自発的か偶発的かは範疇外だとしても、このまま俺を一人には出来ない筈だ。この、何かを確実に知っている少女から離れる訳にはいかない。

「‥‥なるほど。そんなに私の役に立ちたい感じ?なら、少しだけ使ってあげる」

 多少は機嫌が直ったらしく、八重歯を覗かせながら横目に微笑んだ。次いで、飛び出すように立ち上がった少女が、愉悦そうに顔を覗き込んでくる。

 若干黒みがかった口紅でも差しているようで、白い顔が際立つ唇の色をしている。

「ねぇねぇ、ちょっとしっかりしてくれる?ここで狂われると、面倒なんだけど?」

「だ、大丈夫。悪い、もう一度最初から説明してくれる?」

「ん?説明はこれからのつもりだったんだけど。まぁ、いいや」

 調子を崩されたように眉をひそめた彼女は、自分のペースでも取り戻すように大仰に一回りし、自分の舞台でも始めるかのように声高らかに説明を開始する。

「私の目的は、君を使って私の理論だったり、この退屈な世界から解脱する事!!」

「解脱?」

「そう。解脱。どれだけオリジナルが優秀だったかは、私を見れば分かるけどさ。だからって勝手に産んで、役目を終えたらデリートされるなんて許せない訳。何、神への情報保護の為って?自分達が表立って出歩けない不細工な面してるのが悪いのにさー」

 少女の説明は、どれもこれも自分には理解し難い物だった。言っている意味がわからない、そもそも彼女がどの立場から、なんの視点を持ち合わせているのかさえ考えが及ばない————まるで、自分は支配者だと謳っているようではあった。

「だから、私が直接手を下す為に、こんな場所に来て上げたの。以上、わかった?」

「‥‥手を下すって誰に対して」

「決まってんじゃん。お前だよ、お前—————」

 この吐息には、血生臭い臭気こそ相応しいというのに、少女は何処までも完成された美貌を持ち合わせている。歪んだ唇に尖った八重歯、崩した顔の皺の一本一本さえ美し過ぎる。敢えて崩した笑みには、歳不相応な艶やかさすら覚える。

「そうそう。そんな怯えた顔。それこそお前には、お似合いだよ」

 楽し気に鼻を一突きした少女は、そのままテーブルへと腰を下ろした。自分を見下ろす恰好で足を組む仕草に、言葉を失う。どうして、こうも惹かれるのだと。

「で、質問は?」

「どうして、俺が狙われてる————いや、本当に狙われてるのは」

「あなただよ。そこは断言してあげる、狙われているのは————オマエ」

 判決でも読まれた気分だった。誰よりも、狂っている筈の少女の断罪に、自分は鳩尾に蹴りでも打たれた気になってくる。確実に、お前が死ぬ運命にあるなんて。

「————どうすれば、ここから。せめて外と連絡————そうだ、スマホ」

「ある訳ないでしょう。そんな物。持ち出せた所で、全部乗っ取られるに決まってんじゃん。もしかして、まだ外がまともとか思ってんの?あは、傑作♪」

 足を交互に振る姿のまま、天真爛漫に次の言葉を持ち望む顔を向けられる。

 スマホがないのなら、学校内に設置された電話ボックスへと向かえばいい。彼らだっていつまでも動き回れる筈がない。だって彼らも人間だ。夜になれば、誰もが。

「もしかして、まだ外の連中は人間だとか思ってる?」

 渦巻いていた思考を断ち切るように、少女は小さく微笑んだ。

「見たでしょう?聞いたでしょう?追われたでしょう?アレが、まだまともな人間だとか思ってる?楽しい楽しい現実逃避を邪魔してゴメンナサーイ。あの爪と牙を持った化け物たちは、れっきとした現実。その気になれば、あなたなんて————」

「でも、現実的じゃない!!あんな生物、居る訳ないだろうッ!?」

「でも、あなたにとっては現実」

 回答は簡潔な物だった。それ以上は告げず、頭を軽く左右に振りながら、「次は?」と説いてくる始末。頭が張り裂けそうだ。今までの生活を全て、全て———。

「‥‥俺、毎日どうやって」

 どうやって帰っていた?電車か?バスか?徒歩か?自転車か?

 帰路に着く時は、誰と一緒だった?部活に入っているのなら、夜遅くに成っていた筈だ。だというのに、何一つとして浮かび上がらない。

「そうだ。まだ混乱してるから思い出せないだけで」

「自分で自分は混乱してるって自覚してる奴、たいがい狂ってるよ」

「なら、どうなってる‥‥どうやって、俺は」

「でも、そこまで辿り着いたなら。やっぱりあなたは稀有な存在だよ。ただの因子を打たれたシュミレーターの訳がないって調べた甲斐があったよ。何もないなんて結果、可笑しかったもの」

 まただ。また視界がぼやけ始めた。白みがかった霧が、赤の血煙へと移り変わっていく。このまま気を失って、天文部の生徒が揺すり起こしてくれるのなら、どれだけ幸福か————仮に、そうであったとしても最悪の状況は変わらないというのに。

「あ、また寝るのは無しね」

 突然、顔に柔らかな布が押し付けられる。微睡の中、それは黒のパーカーであると悟った自分は自然と少女の背中へと手を伸ばしてしまう。温かな人肌に包まれ、呼吸を取り戻せていく。確実に、自分よりも年下の少女から感じられる母性に沈んでしまう。

「これは重症じゃん。観察し甲斐がある————思ったより、楽しいかも」

 甘い花の香りを携えた、或いは少女自身の香りに絆された頭は、更に自分のコントロールから離れていく。このまま何もかもを手放し、身体さえ捨て去りたい。

「でも、そういう解脱は私の目的じゃないの。ほら、起きて。あらゆるしがらみから逃げる為に、自分を手放すのは愚者って言うんだよ。そんなのじゃあ、他所の量産品と同じじゃん。君は達観して狂って常識から外れて、最後には至って貰わないといけないんだからさ」

 頭を抱かれながら語られる言葉の何もかもが理解出来ない。浸透するのを拒否し続けている。だけど、軽く小突かれたこめかみからじわじわと感じる痛みに、これは現実であると自覚してしまう。

「死にたくない」

「え?」

「死にたくない————」

 諦めろ。お前さえ諦めれば、全てが丸く収まる。お前さえ消えれば、全てが納得する。お前の我儘ひとつでどれだけの人が迷惑を被ると思っている。だから、死ね。

「死にたくない?なら、生きてどうするの?」

「これから考える。少なくとも、俺は意味を得たい」

「————それじゃあ、ダメ」

 頭を抱きかかえられているなんて勘違いだった。今、俺の頭は少女の物となっていた。無理に持ち上げられた視線に、少女の眼が向けられる。それは何処までも澄んだ———血の色をしていた。きっと羅刹と呼ばれる存在は、この眼を持ち合わせているのだろうと、支配された脳の何処かで漠然と考えていた。

「後で考える?意味を得たい?そんな無駄、私が許す訳ないでしょう?」

 喉を絞めつける蛇のような腕が、自身の身体へと誘っていく。

「あなたには、在るがままの感情の全てを呑み込んで欲しいの。何も感じなくなる、欲しがらない悟り?そんなものつまらないでしょう?意味も思考も、あなたには要らない—————全てを理解して唾棄する。この世のあらゆるを飲み干す無秩序こそが欲しい」

 静かに静かに。そしてたおやかに迫る少女の顔が、何よりも恐ろしかった。

「全てを拒絶するのと、全てを必要としないとではまるで違う。私の役に立ちたい。私を自分の物にしたいなら————どうか狂って。狂って狂って何者を見ても恐れない解脱者に至って。そうすれば、あなたを使ってあげる。あなたを連れ去ってあげる」

 唾液が顔に掛かる。開かれた牙を覗く唇で嬲られ、犯された顔が熱せられる。

「良い顔に成ったね。これは契約、誰も私達の間に入れない血の盟約————さぁ、誓って、繰り返して。私は世界を放棄する」

「‥‥私は世界を放棄する」

「そして星を掴み、上位へと至る」

「そして星を掴み、上位へと至る‥‥」

 言葉を繰り返す度に、少女の口元から目を離せなくなる。

「しかし、我らが求めるは彼方への扉。欲するは果ての果ての大いなる究極の淵。見渡すは世界と世界の継ぎ目なり。理解せよ、畏怖せよ、媚態を示せ。我々は今を境に解脱へと至る。新たなる解脱者の到来に備えよ。我らは—————————浄化へと至らん」

「————————浄化へと至らん」

 唱えてはならない誓いであったのだ。知ってはいけない知識だったのだ。

 知らなければ、この震えも覚えなかった筈だ。身を包む冷気の刃を恐る必要もなかったのに。この冷気から守ってくれる、温かな少女に肢体を知ってしまった所為だ。

 首と心臓が凍える刹那の狂気。こんな鋭い快楽を手放す事が出来なくなってしまった。

「これで終わり。さぁ、行こう。これからあなたは覚者と成る」

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