羊が一匹
かけがえのない宝石を愛でるように空を眺める。
灰色だが?
それがどうした。
僕の目には青空。
美しい思い出ばかりが思い浮かぶ。
かけがえのない過去に決定づけられた私である。
ヒトが過去と共に生きるようになったとき、もう何者にもなれない。誰かとなってしまったから。
私とは違う何者かに足蹴にされる。私はそれに対して反論するが、彼らは問答無用で私を踏み潰す。
肉体の素質が違うならば、私と同質でなくても生きていける。
私なんて必要ないんだ。
必要にされたいと願ってしまう。何かに対応するなら。
古臭い。
気持ち悪い。
何者?
世の中にはどうしようもできないこともある。
斬られて踏み潰されて。
踏み潰して斬られて。
ジャック・ザ・リッパー。
僕を許してくれ。
護ってください。
外敵が身のうちに迫る前に海の壁が出来上がり、私は静かなる大地で眠りたい。
夢だ。
何かの闘争ばかりが目に浮かぶ。
嫌だっ。
救いようのない闘争なんて、無意味だ。
生きている縛りよ。くだらない言動よ。
わかっているさ。
口を閉ざそう。
行動を制限しよう。
棺桶の中に入り、海に流されよう。
せめて、安息の海があるならそこに流してくれ。
朽ちるまで生かしてくれ。
死にたくないんだ。
「頼む」
私は難を逃れて一人で歩く。
全身が気持ち悪くてたまらない。
そうだ。
人生の逃走。
逃走=闘争?
いやいや。
まさか。
私は世界の失業者。
社会をノーと言い、自分を地獄へ突き落としている。
救われないことを選んでいる。
これでは首を絞めているではないか。
わかっている。
否定できない。
何が私の光か分からないんだ。
職を得ることか?
伴侶を得ることか?
美を形成することか?
全てを封じることか?
総てに満面の笑みを浮かべられない。
いつまでもくだらない思考実験をしている?
キミは何処を目指すか。
何処、何処,何処。
過去形成した場所は総て、同質なんだ。
あぁ、痛ましい。
人生はわかりやすく僕自身だけを救う道筋を照らさない。
つまり。
観念的かつ物理的双方の問題を解決する答えが欲しい。
絶妙な塩梅。
いや。
難しい。
禅問答を繰り返す。
私は生きている。
贅沢な生活を送っている。
送らせてくれ。
送れなくなるまで。
灰色なんだ。
希望が存在しないんだ。
或いは。
私は救われて尚救済の技法に思考を傾けている。
一人でいるから悪いんだろうか。
しかしこの道に来るまで私はどうして違う道を選ばず、こっちへきたのか。
深く思わなければならない。
理由があるはずだから。
今は思い出せないけれど。
ヒトは相変わらずいない。
もう光はない。
ヒトは孤独に闇に潜み、朽ち果てることに怯えているんだ。
人類は終わったのだから。
終わっていないさ。
僕は否定する。
そうであってほしい。
灰色の中で幻が見える。
羊飼いと羊。
月が見える丘。
羊の鳴き声が響く。
僕は自然と羊たちへ寄っていく。
羊の中に入る。
羊と羊に挟まれる。
僕は幸福だ。
羊飼いが私を見ている。
羊飼いの背中にはブルーが見える。
「こんにちは」
私の挨拶に羊飼いは会釈をする。
月の光に照らされた羊飼いは神秘的に映る。
「月が綺麗ですね」
羊飼いは月を見る。
「綺麗」
羊飼いは指を月に向けた。
月をなぞるように指を動かす。
羊飼いは静かに微笑む。
心の中が揺れる。
ほのか。
「貴方は此処で何をしているのですか」
目の前に羊飼いの顔がある。
ドキッと胸が揺れる。
僕の心の揺れを誤魔化すために咳をした。
おそらく顔が赤くなっている。
「僕はただ歩いているんだ」
羊飼いは黙って聴く。
そして。
「歩く」
「そうです。歩いています。」
「それはいい」
静かに高揚感が浮かぶ。
どうして、無垢な少年のように心が揺れ動くのだろうか。
目の前にいる羊飼いは現世にいながら何処か浮世離れした雰囲気だ。
私は所在を消失させる彼の雰囲気に呑まれている。
呑まれてもいい。
羊飼いは首にかけた麦で編まれたバッグから笛を取り出す。
音色が響く。
ドビュッシー。
亜麻色の髪の乙女。
羊飼いは私に会釈する。
羊飼いは歩き出す。
羊は彼についていく。
月に照らされた青い羊。
月に照らされた月そのものの羊飼い。
私も羊だ。
凸凹の丘を登って降って。
いつまでも続く散歩。
これが永遠だ。
羊飼いが振り返る。
私を見つける。
羊飼いは破顔する。
「羊が一匹増えたね」
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