ラフマニノフ 

ラフマニノフ :ピアノ協奏曲 第2番 Op.18 ハ短調が頭の片隅を過ぎ去る。

ドロドロした黄身と被われたボロボロの殻の繭に留まる。私は外部と接触を経っている。比喩だ。

そろそろもそもそももなく、自己言及と探求という分野に於いて感覚を揺るがすトリガーは存在しない。私は私のまま身動きできない。

女と私は古風な喫茶店で紅茶を飲む。店主は潜んで治安維持組織に連絡することもなくカウンターの向こう側で煎餅を食べている。

異形な我々に会話はない。

店内に無造作に流れるラジオではこの地域でテロが頻発しており、今日もまた田舎の交番が無意味にも爆発したと話している。

人の素性を探る趣味はない。但し何故この女は生きているのか。そのことには興味をもつ。

無意味性に私は溺れるのか。持ち合わせることのなかった愛にしがみついて、外壁を伝う風の流れに涙を思うのか。

褐色の女は指をくるくる回している。金で時間を買われた女が時給分の仕事をこなすように。

「出ようか」

女は頷くこともない。会計を済ませて外に出る。

外は夕方でもないのにまるで黄昏に侵されたように郷愁を誘う色彩。トンボが星の歪みを喰むように飛行する。

女は如何にして生きてきたか。女は女である、けだし平和に行動と終末に侵されていない私のような言語とは違う環境を生きてきた女だ。私は彼女の文学に興味を持った。

筆を好んで持たぬ女に文学を語らせることは骨が折れる。何よりも受動的な読者である私がわざわざ能動的に非・作者である可能性の高い彼女を作者に誘導するのは全く骨折り損にも程がある。

私は文学に取り憑かれている。文学以外を人生に見ない。

気ふれた男に観察対象とされる女も気の毒だ。

「君はどこへ行くんだい」

女は私の問いかけに一個の生命体として気づくこともなく呟く。

「此処ではないどこか」

「何処かは楽園とでもいうのかい」

ラフマニノフが再び頭の中に生きる。どれほど苦しく越えられない壁に出逢おうとも人は飽きるほど生きるを叫び続ける。

「楽園なんてないわ」

「見たことがあるのかい」

女は高慢な猫のように歯を剥き出す。

「愚問よ。意味を問い正すならお前を殺す」

殺してもらっても構わない。そのように口にすると最も簡単に私を殺してくれるのだろう。自殺志願者にはこれほど幸いな女はいない。あいにく私はもう少し彼女を見つめたいので自ら時計の針を進行させない。

「君は鋭く生きるよ。涙が出るほどに」

「満開で無数の花の為よ」

女は歩み始める。数多の行為で一面を認識することが難い地面に小さく固く集結した彼女の足が割っていく。彼女に追随する私はついてくる。

馬車がカタカタ悪路にも関わらず走っている。人々は止まっても止まっても意固地に馬車に拘っている。そうしなければ生きていられないように。

女は商店街に入る。人々は嘔吐しそうな威圧感に侵されながら生きてしまうことを許容した人々の最後の足掻きのようににこやかに私に視線を向ける。此処でもトンボが飛ぶ。地面を見ると保護色のカニがカニカニ河を求めて歩いている。魚がぴちぴち跳ねている。

「此処は河だったのか」

発想が飛んでいるが、まるで河の水が引いたように臭くジメジメしている。そして見にくい。全てが芝居のように即興的でリアルであるかのように私を誘っている。来てはいけないところに来たのだろうか。

女を見失いそうになる。人々が層となり女との距離を遠ざかる。

足掻いているのか。生きているのか。私は一体何を求めているか。気づくたびに忘れていく。忘れた度に思い出していく。何が真実なのだろうか。真相が笑わない。

私が目的を見失いそうになることを拒絶する様に人々は分かれる。女は街角を曲がる。街角の先のマンションに入る。女は地下へと進む。

追いかけようとすると肩を掴まれる。振り向こうとすると頬に衝撃を感じ、私は意識を失った。

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