幸福の国

迷宮が走っている。立ちすくんでいる。迷う。何処へ行こうとも、迷うのだ。迷宮が並んでいる。私へ来い、ぎょろりと怪しい目で私を見つめている。誰が行くものか。私は砂時計だ。砂が落ち切ると割れる運命を掛けられた寂しい存在。迷宮しか私をひっくり返してくれない。行き交う人々は訝しげに私を見つめては離れていく。私を掴む意思を持つものは私に利益を感じないと動かない。私は魅力を放棄し、怪しいボレロを踊らなければ生かしてくれない身分に落ち込んだ。寂しく苦しい、しかし享受しなければならない。

真っ白い部屋。空は群青。星は此処に原色。

私は紅いソファーに寝転ぶ。女は白く塗られた木の椅子に座る。私たちは距離を置いて向き合っていた。

ゆくあてもなく地の果てにたどり着いた私は女に匿われた。女の家は奇特にふさわしく奇妙さのパレードで構成されていた。彼女が生活を構成するに相応しいパズルのピースを探すだけで一本の中編小説が創造される程度に興味深い。しかし私はそのものを掘り下げようとしない。生命の呼吸が肝心だ。そんなくだらないことに生命を求める愚鈍さを持ち合わせる私がわざわざここまで奥地にやってこないことは明白だろう。

「何故生きるの」

振り返ると生きていたと無口になる連続性のなかで女は私に問いかける。過去と比較して戸惑う。貴重な会話。なんてことない平凡さを貴重に収めようと私は必死だ。どうして自らの価値を落とすことに夢中になるのか。生きている幻想に縋り付いて、自分に特性があると名乗りたくて堪らないんだ。愚か者。

「ねぇ。何故生きるの」

女は一見無表情だ。声は震えている。彼女は誰に話しかけているのか。まるで妖精だ。私は誰と話をしているのか。私自身にかもしれない。

「生きているからです」

「生きていなければ生きないの」

その通りだろう。昔からどうして生きているのか疑問に思う。生きることは疲労と苦労だ。喜びと哀しみ以上に僕を決定している。

【ならば死ね】

必死か。生きることが追いかけている。何もないことに夢中な堕落な人。何もないままに何かあることにしている人。生きられないことを誤魔化して生きているふうに生きる人。死にますか。人類の大半、消失しますか。

ぐわらぐわら。大半が愚かさという船に乗っている。集団で人と呼ぶならば、個人に成し遂げられる美徳なんてどれほど愚かしいものか。私がこうして必死にどうしようもない形式を取り繕うのも無駄なんだろう。総ては一つの線に纏まる。収まるべき場所に。どれほど足掻いても、来るべきところに来る。

返答しなければならない。どうして向き合おうとするのだろう。私の心と向き合えない世界を見ようと心がけて、それは幻だ。彼らではなく、私が。

「生きることは困難なんだよ」

「今もこうして生きているのに」

そうだ。僕はこのように嫌だ苦しいと述べながら、生きている。困難さとは何か。世の中にもうじゃうじゃと人は生きている。死に絶える人と等しいと誤解するほどに。あり得る現実に対して困難と思うのも誤解ではないか。どうせなら、有り得ない可能性を建設する生命でありたい。生きるの中でもがきたくはないか。死ぬ為に産まれてきたのではない。生きる為に産まれてきたのだ。

「死ぬことと比較したくないんだ。生きることと比較したいんだ」

彼女は微笑する。

「貴方は幸福の国で暮らしている」

「幸福の国?」

「貴方は不幸を知らないのよ」

「そうだね。僕は不幸を知らない。だから、幸福ばかりを語り続ける。思い続ける」

「それって幸せなことよ。大概の人間は不幸を抱きしめて窒息しているのだから」

本当にそうなのだろうか。いや、僕もまた不幸に引き摺り込まれようとしている。不幸という蜜に誘われて、窒息を求めている。

もっと幸福に暮らすべきか。

頭が巡る。

「死にたいの」

彼女は首を傾げて私を見る。

「いや死にたくない。生きたい」

猛烈でもなくただ生きることに傾注する。

牢獄を楽しんでいるのか。いや、無常さに顔を崩すこともなく生きようと努めているのだ。

彼女は私に何をくれるのか。私は彼女に何を与えたいのか。猛烈に意味を探る。人生の意味を遠ざけてきた現実を振り返るべきなのに。

「言葉って退屈ね。何も変わりはしない」

私たちの出逢いが無駄なのか。地の果てとは此処までに悠久を求めて身体が弾けそうになるのか。私は時間を楽しめる時もあれば、そうでない時もある。考えが巡りだすと私は現状を焦ってしまう。私は良質な現状を崩してしまう癖がある。私は本当に大切なモノを見極めることが下手なのだ。

私は返答を渋る。どのような言葉でさえ現状を変えるには値しない。抱きつくことやキスすること以外、散歩をするとかか。行動をするしか何もない。しかし、それも早いうちに飽きた。私は地の果てに来てまで飽きを覚えた。

何の脈絡もなく私は立ち上がる。部屋の外へと向かう。女は突拍子のない私を追いかけてくる。

外は夜。星を見たかった。

輝いている。

「星なんて中からでも見られるのに。へんな人ね」

彼女は呆れた顔で私を見る。

「僕はへんな人さ」

外の空気とセットだった。自分の夢はなにか。僕は現実に溺れながら、もがこうと考えていた。もがくことに酔っている。私は空に飛び立とうと思ってはいないが、星を手に入れたいと願っている。宇宙にでもいくのだろうか。

「君の夢はなんなんだい」

私は彼女に問いかける。

黙り込む女。じっと考え込んでいる。

「私、今の姿が夢かな。深碧の空に浮かぶ星霜のような生き方。今が答え。受け止めたモノを大事に思い続けていたい」

彼女の在り方はまるで小さな息子をやわい両手で抱き抱える小さな母親のようだ。非常に愛おしく抱きしめてあげたくなる。

しかし、私の心に浮かぶ映像の必然性は何処まで刻まれているのか。人間関係において絶対性を発揮してほしいと願う私は傲慢だ。幸福など現象に過ぎない。人がいて喜怒哀楽がある。喜怒哀楽があって人がいるのではない。私は充分に保護対象から抜け出したことを悟る。子供はいつまでも笑って泣いている。大人はそれを踏まえてなんでもないように振る舞うことを覚悟している。それでいて、自由だ。私でしかいられない。

私が今想っている今日も過去となる。彼女とも分かれて、思い出すこともなくなる。それでもこの出逢いが尊いことは覆されない。

私の中に多くの人と出逢っていくフェーズが高まっている。ただ傷つき殻の中で身籠る時代は終わりを告げた。

私は手を重ねる、彼女に。彼女は微笑み手を動かさない。彼女の瞳の中に私がいる。

雪の冷たさが身内の温かみを炙る。

「生きる生きる。ただ強く生きる。それだけなのよ」

どちらが言葉を発したかもわからないほど、私の意識は陶酔した。

誰が何者であるのかなんてどうでもいい。ただ生きている。そして死ぬのだ。だからこそ猛烈に生きたい。これ以上にもっともっともっと。過剰に生き続けたい。私を印してまみれて消えたい。駆け抜ける星になりたい。その為に必死に出逢って別れたい。

私はこれまでもこれからもたくさんの人と出逢う。別れる。

だからこそ、必死に今を生き抜くのだ。星々が消えないほどの短い時間の中で自分を抱きしめて。

「私はきっとそう遠くないうちにキミと別れる」

女はその言葉を耳にすることを知っていたように、何事も紛い物であることを承知した哀しみを押しつぶそうと心がけた賢者の微笑みを浮かべた。彼女は無言でうなづく。彼女は何か言おうと必死だったが、喉に言葉がかかるたびに内臓に逆流して辛そうだ。私は抱きしめる。自分の矛盾を心得ながら、これぐらいしか私は与えられない非情さに内心愚か者と想う。

「この日々は別れても、宝物だ」

「あんたってやつは、あんたってやつは」

無言が続いた現場で彼女はようやく言葉を発した。

「あんたってやつは、あんたってやつは」

彼女は地団駄を踏み、駄々っ子そのままに胸を叩き続けた。熱い涙が雪を溶かしている。ドロドロに二人の周りは未完成の絵画のように構成が不明瞭な雪化粧となった。

私が現実に記す物語は常に曖昧に描かれるんだろうね。昔から曖昧に思う実感を現実から改めてそう思えっ!! と突きつけられるような、自分の限界を思い知るような、哀しみ。

私は彼女が落ち着くまで抱きしめ続けた。わかっている。自然と全ては収まるのだ。人は何事もなく生きるのだ。思い出という名の傷をいくつも抱えて、死ぬまで生きていくのだ。

ああ、此処は本当に果てなのだ。雪があまりにも象徴的だ。僕はこれ以上何かを手に入れることはない。

「ありがとうありがとう」

まだ別れてもいないのに、別れよ。気持ちが溢れ出す。

彼女は動きを止めて、私を見た。

「変なの」

彼女は破顔する。

「変だな」

私もいう。

「変なの」「変だ」「変」「へん」

二人は笑い合う。

雪は降り止まない。

雪よ、私たちを包め。窒息死させてくれ。

自然よ、お前らこそが私たちを完成させる。私たちはピースなのだ。材料だ。

そうか。だから必死に生きるしかないんだ。

私はこのようにして生きる意味を今知った。

穏やかな傷をゆっくりと創りながら、今知った。

忘れることしかできない。別れることしかできない。それでいながら出会うことをやめない。

必死に生きているのならば、生きるしかない。

生きるのだ。

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