ECHO

容原静

白世界

生きることは辛すぎる。あまりにも身に染みて、そのことを忘れてしまった。傷つくことにも気づけない。そしてそのまま死ぬんだろうか。

バイバイ。そうやって手を振るたびに、僕の心は泣いている。僕は泣けない。無表情で帰宅する。うまくない飯を頬張り、時間が来たら寝る。

繰り返されるピリオド。早く終われと連呼して、誰も終わらせないよ、でも終わらせるよきっといつかと目の前で待っているかもしれない終局を背中で期待している。何の希望もないのだ。

私はなくしてばかりいた。数少ない希望を全て棒に振った。もうなんにも見えない。周りを見ても、何も見えない。

ないで埋め尽くされた。総てが終わったのか。

僕はいつしか立てなくなった。もうなんにも見えない。

始まらないことばかり見ても希望はない。希望という言葉を繰り返しても希望は振ってこない。

鬱病患者は日光を浴びて、運動すれば回復するという眉唾な話を思い出す。外に出る体力もないから、鬱病なのだ。希望はない。

手錠がかかっているみたいだ。人生という牢獄で足掻くことを放棄した無表情。そのくせに、なぜ、今になってもがこうとしているんだ。俺は何を希望しているんだ。

何度も繰り返す。答えは僕の中には外に眠っている。しかし外を手離して内に籠った僕の胸の中に答えなどあるはずもなかった。

ああ、苦しい。

無駄に苦しんでいるんだ。

修行僧か。

私は何処へ行くのか考える。

胸の中の刃が自分を刺す。

傷。涙。

本当に自傷で何かを解決できるかと思ったら大間違いだ。


雪原を私は歩く。私は都市から逃げてきた。目的はない。私は狼狽の象徴だ。私の答えを遠ざけて、消失させて何もないそのものになるのだ。

枯れた木。降り注ぐ雪。私もまた大地の礎になるのか。

雪国の人でもない私は寒さにやられる。耐えられない。痛くて冷たくて消える。心はどうして眠っている。光景を見つめられないか。どこまでも区切っている。実生活という幻に溺れて、肥満し答えを忘れている。

俺はクリアーになりたい。透明になりたい。

白い雪に押しつぶされながら、白い空を眺めようと努力した。瞼は自然と閉じる。

胸中が笑えないのはどうしてか。俺は迷い込んだ。答えの出ない世界。此処もまた美しいのに、俺は見ようとしない。

「何故収まろうとするの」

幻聴か。総ては幻のように笑みも曖昧であるが、見つめようと努力する。幻聴でさえ捨て去るのが惜しい。俺は寂しい。人恋し。ややこしい人間。

「俺は俺になり切ろうと必死なんだ」

「世界は生命で溢れているのよ。あなたの思い込みもまた生命で価値で定められているわ」

「哀しいんだ」

幻聴は立っている。幻聴は見上げている。意図せずして我々は空を見上げていた。

「哀しくて哀しくてやりきれないんだね」

幻聴は膝を曲げる。私の頬を撫でる。柔らかく、温かい。

「君は生きているのか」

私は問いかける。この温かみは生命。

「幻聴とでも思った? ざんねんざんねん。私はこの通り生きてます」

これが私の人生を変える出逢いとなるのか。いつだってそうであるように仄かな期待と自分勝手な想像にデレデレする。私は凄く自分に都合がいい。

彼女の声は深森の湧水のせせらぎのように神秘に覆われて、煌めいていた。

私の胸が熱くなる。自身の奥で眠っている感覚が目を覚ます。出逢いが新しい形を産む。

私は生きていられるような気がした。凄く都合がいい。私は雪から抜け出す。立ち上がり、彼女の顔を見つめた。

雪、か。第一印象である。雪のように触れれば溶けてしまうような顔だ。キョトンととぼけて、掴みどころが無い。彼女は微笑んでいる。

「私を見ても何も出てきませんよ」

「君は綺麗だね」

彼女は頬を染める。顔をそらす。

「綺麗だなんて、お世辞にも程がありますよ」

「綺麗なものに綺麗って云うのは当然のことだろう」

彼女は緩やかにステップを踏む。ずれていく、空間。仄かに火炎が咲くように彼女は微笑のダンスをする。

「貴方はどうしてこんなところへ迷い込んだの」

「わからない。ただ歩んできた。朝が来る前に消えた星までの地図のような尊い関係と出逢いたくて、でもそんなの叶うはずもない星の回転に諦めながら、地の果てへ行こうと努めてきた」

「此処は地の果てよ。喜びなさい」

頭の中では歓喜の歌が流れている。雪と女と私。世界は生きる意思を失い世界の原型以外を記す勤めを放棄した。

私は世界を創造する意思がない。ただ生きることすら茫漠となり、一歩という足跡すらまともに記さない生命と名乗るには型落ちの私たち。

「此処は牢獄か」

私の呟きに彼女は微笑して応える。

「牢獄です」

人はみんな牢獄へ行く。形は違う。牢獄は案外心地よい。自らの価値を測らない限り、牢獄は自己にやさしく微笑んでいる。俺もまた腐っている。腐ったやつは心地よさを感じる。天国への階段を私たちは登っている。天国とは? 私は天国に何を望むか。安泰か。平穏か。怠慢か。許しか。思うと肥満を望んでいるか。余暇。余白。生きていることと矛盾している。牢獄にいる者は仮の天国で笑っているのだ。現世で天国を創成し、満足さにビビデバビデブーしているのだ。人の自由だ。自分の自由さにどのように生きるのか。何を楽しみ、苦労するか。何をやろうが、誰も賞賛も非難もしない。自分はただ生きていると云う状態が続くのみだ。そのくせに何故足掻くのか。想せずにはいられないからだ。

「私はなにになりたいのか」

自分の中で総てが揺れている。秒で世界が変化している。喜劇から悲劇へ。地球からアンドロメダへ。極端に次ぐ極端が走っている。それでも私は此処にいることに変化はなく、私と云うちっぽけがいつまでも私ですと叫んでいる。私は私である限り、私から逃れられないのだ。

「貴方は、此処にいる。それが今の全てよ」

女は云う。女もどうして此処にいるのか。彼女の牢獄は生きやすいか。

「君はどうして此処にいるんだい」

「私は、此処が私に相応しいから生きているのよ」

「相応しい?」

「そう。私は私でありたいから此処にいるの」

不思議だ。人は好き好んでこんな雪しかないところにいようとはしない。だから集い生きしづらいビルオフィスに固まって、ストレスと金銭に溺れながら短い生涯を棒に振るのだ。

「寂しくないのですか」

「寂しくありたいんです」

女はとても強い。人は寂しくあろうとするなんて、できない。俺は要求に駆られる。女を抱きしめたくなった。寂しいと想いながら、それを享受し、離さず見つめ続ようとする女に温かみを与えたくなった。

女は微笑する。

「貴方は私にやさしさをくれようとするのですね」

「どうしてそう思う」

「心を感じるから」

「感覚が良いんですね」

「感覚だけが私の全て」

女ににじり寄る。女は微動だにしない。

私は女にゆっくりと近づき、抱きしめた。女はそれを受け止める。私は優しく温かく抱きしめる。

二人はそのままゆっくりと倒れる。雪を圧迫する。雪は降り続ける。二人は雪の中に収まっていく。人間が二人、雪になったように天然の呼吸を続ける。白銀の世界が止まらない。二人の呼吸も止めない。生きるは自然と続く。雪は溶けて、増して。繰り返す。繰り返しを止めない。流転している。星の流れに導かれながら、私は此処にいると叫んでいる。生命体のダンシング。尊い。

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