第43話

「ティア、準備は出来たか?」

「グレイ!」

 突然の来訪者の聞き覚えのある声に、ぱっと嬉しそうな顔でハーティアが振り向く。シャン、と髪飾りにつけられた宝石が小さな音を立てた。

「おかえり!もうすぐ始まるよ」

「――――――」

 グレイはぱちぱち、と黄金の瞳を何度も瞬いてハーティアを見つめる。

「……グレイ……?」

「あぁ――いや。……美しすぎて、言葉がなかった」

「へっっ!!?」

「とてもこの世のものとは思えぬ――まるで月の精だな。綺麗だ、ティア」

 そのまま、流れるように額にキスを落とされ、さっと頬が淡く色づく。

「あ……ありがとう。さっき、挨拶に行った人たちも、皆綺麗だって褒めてくれて――」

「……む?誰かに見せに行ったのか?」

「うん」

「……ほう。誰に?」

「えっと、ナツメさんとクロエさんと」

「褒めたのか?……あ奴らが?」

「うん。ナツメさんはいつも通り無言だったけど、笑顔で頭撫でてくれた。なんだか嬉しそうな気がしたから、きっと褒めてくれたんだと思う。……クロエさんにはジロッていつも通り見られただけだったけど、ナツメさんが肘で小突いたら、ぶっきらぼうに棒読みでほめてくれたよ」

「……今度、クロエにはしっかりと言い聞かせよう」

 グレイの顔が苦く顰められる。

「あっ、あと、マシロさんとセオドアさんにも逢ったよ!二人は手放しでたくさん褒めてくれた!」

「――――――ほう」

 グレイの八つ当たりがクロエに向く前に、と慌てて話題を変えるが、逆効果だったかもしれない。黄金の瞳がすぅっと静かに細められる。

(褒めても褒めなくても怒る、って理不尽すぎじゃない!?)

 ハーティアの至極まっとうな主張を聞き入れられるほど、『蜜月』のグレイは番の周囲の男たちに対して寛容ではない。

「私より先に、お前の美しい姿を他の男が見たということが不愉快なだけだ」

「そ、そんなこと言われても……グレイが独りでどっか行っちゃったんじゃない……」

 口をとがらせ、ぶつぶつと呟く。

「第一、知らなかったの?お世話になった人には、花嫁姿を事前に見せに行くのが習わしなの。北の集落で行われてた祝言の様子、何度も見てたんでしょう?」

「見てはいたが、作法について詳しいわけでは――」

 グレイが中途半端に口を閉ざす。そのまま、何かを思い出すように軽く首をかしげて視線を巡らした。

「……ふむ。言われて思い出してみれば、昔、その誓いの儀とやらの前に、花嫁本人が広場にいる者たちに逢いに来て声をかけていたな」

「でしょう!?」

「何せ、あまりにも昔の出来事の上、なるべくなら思い出したくない記憶だったからな。だが――ふむ。なるほど。……では、あの時は、カズラに見せるより先に――」

「……ぅん?」

「……いや。何でもない」

 ふ、とグレイは苦笑してから、飾り付けられた髪型を崩さないようにぽん、と軽くハーティアの頭に手を置く。

「仕方ない。今日は特別に許そう」

「……今日は、って……祝言は生涯一回だけだよ」

「――これが、一度きりだと?……それは惜しい」

 グレイはハーティアの顔を至近距離から覗き込む。不意の接近に、ドキン、と胸が高鳴った。

「永遠に今日この日を忘れぬよう、お前のこの美しい姿をこのまま額に入れて屋敷の寝室に飾りたいな」

「へっっ!?」

「毎晩、眠るお前の寝顔と見比べる」

「なんで!!?やめてよ!!」

「華やかに着飾ったお前の美しさと、何も飾らないお前の美しさを見比べる贅沢を味わう」

「何それ!!?」

「世界の誰もがうらやむ美貌を持つ花嫁を手に入れた喜びと、その花嫁が全幅の信頼を寄せて無防備な寝顔を晒してくれる喜びを毎晩噛みしめるのだ。――良い思い付きだと思わないか?」

「思いません!!!」

 <狼>故なのか、グレイ故なのか。愛情表現の仕方が独特すぎて、とてもついて行けない。

「しかし、こんなにも美しい姿を、この先永遠に見られないというのは拷問ではないか?お前が着飾らずとも美しいのは知っているが――」

「いやいやいや、前に言ったでしょ?誓いの儀は、お世話になった人たちへのお披露目と、もし誓いを破ったり道を誤ったりしたら正してね、ってお願いする儀式なんだから、何回もやるのはおかし――」

「……だが、世代は入れ替わるだろう」

 グレイの指摘に、ぱちぱち、と瑠璃色の瞳が瞬く。

「我らが普通の<狼>や<月飼い>であればお前の言う通りなのだろうが――今日参加する者たちは、いずれ子供を産み、老いて、命を散らしていく。我らは、それを見送っていく運命だ」

「ぁ――……」

「三百年後には、今日の我らの誓いを聞いていた存在は誰もいなくなる」

「――――……」

 少し表情に影を落としたハーティアに、グレイは安心させるように微笑んで、そっとその美しい手を取った。

「だから、その日にはまた、こうして誓ってくれないか。――三百年後に生きる<狼>も<月飼い>も、どれも愛しい子らに違いない。私は彼らに、ティアとの仲を承認し、見守ってほしいと思う」

「…………」

「その時は、今日の誓いから三百年の間、決して誓いを違えることなく、愛し合ってきたことを参加者に報告し、また次の三百年も変わらず愛し合うことを誓って承認してもらえばいい。……そもそも我らはすでに世の理から外れた存在だ。――一つや二つ、<月飼い>の習わしと異なる解釈で儀式を行ったとて、許してはもらえないか?」

 穏やかで優しい笑みをたたえる黄金は、三百年の後も、変わらずこうしてハーティアを愛しそうに眺めるのだろう。

 何一つ疑うことなくそう思える不思議に、ハーティアはふっと笑みを漏らす。

「うん。わかった。また、三百年後に――今いる皆がいなくなっちゃった後にも、グレイはずっと、今日みたいに、変わらず私の隣にいてね」

「勿論。頼まれたとて決して離れぬ。――愛している、ティア」

 ちゅ、と額に唇を落とされる。ルージュが引かれた唇に口付けないのは、彼なりの配慮なのだろう。

「今日は歴史的な日になるだろう。ここ数百年ずっと、<狼>たちは<月飼い>の文化に触れていない。東の<月飼い>たちも、灰狼以外の<狼>たちを目にするのは初めてのはずだ。これから先、ゆっくりと交流が始まるだろう両者にとって、記念すべき第一歩だ」

「うん」

「ミーハーな赤狼あたりは、<狼>の社会でも祝言をやりたい、などと言い出す者たちがいるかもしれんな。それくらい今日のお前は美しく、この場に集まった男女すべての憧れを集めるだろう」

「ぅ……あ、ありがとう……」

(それを言うなら、グレイの方こそ、すごく格好いいけど……きっと、今日来ている女の子は全員、憧れちゃうよね……)

 花婿のために仕立てられた白と蒼と金を鮮やかに組み合わせた、華やかな衣裳を身に着けた白銀の<狼>は、ハーティアが幼いころに読んだおとぎ話の中に出てくる王子様の五百倍は格好いい。

「夢みたいだな……」

「?」

「まさかこんなに格好いい人と、結婚出来るなんて――」

 ぱちり、とグレイが驚いたように目を瞬き、ハッと我に返る。つい、心の声が漏れてしまっていた。

「なっ……なななな何でもない!――わっ!?」

 ボッと顔に火をつけて否定をするハーティアの腰を、グレイがぐっと引き寄せる。

「ティア。――もう一度」

「なっ……ななな何が!?」

「もう一度、言ってくれ。――幻聴ではなかったと、夢ではなかったと、教えてくれ」

「っ……そ、そんな――どうせ、今までいろんな女の人に、何万回と言われてきてるでしょ!」

 かぁっと頬を染めて憎たらしいことを言うが、グレイは瞳に熱を宿らせ、ハーティアの様子などお構いなしに、顔を背けようとする少女の顔をしつこく覗き込んでくる。

「有象無象に言われるのと、ティアに言われるのとでは、意味が全く違う」

「いっ……今までだって、何回か言ったことあるしっ……」

「そんな風に、熱に浮かされたように色っぽく言われたことは一度もない。――あぁ、ティア。やはり、唇に口付けても良いか?今すぐこの花弁を貪りたい」

「だっ……だだだダメっ!!!」

 覗き込んできていた顔をぐっと近づけられて、必死に手で相手を制す。黄金の瞳には、昨夜と同じく劣情の炎が宿り、微かに息が荒くなっている気がした。

「私を男として、見てくれるのか?」

「っ……!」

「ティア。――ティア」

 ちゅ、ちゅ、と我慢できないように、顔のいたるところに唇が降ってくる。合間に名前を囁くのは、彼にとってそれがこの千年で最も慣れ親しんだ愛情表現だからなのかもしれない。

「お、男の人として見てなかったらっ……そもそも、唇に、き、キスとか、許さない、からっ……!」

「あぁ――これは本当に、夢ではないのか……?もう、儀式など放り出して、今すぐ屋敷に帰りたい――!」

「だっ、ダメだよ!!?お願いだからちょっと落ち着いて!?」

 劣情に侵されて唇へと口付けようとする美しい<狼>を必死になだめながら、控室の中にハーティアの必死な叫びがこだましたのだった。

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