第39話

  砂糖菓子よりも甘い口吻に、最初に音を上げたのは、言うまでもなくハーティアの方だった。

「ぐ、グレイ……っ!」

「ん……?どうした?」

 トントン、とキスの合間に何かを訴えるように肩のあたりを叩かれ、唇を離したグレイがいつもの五倍は甘い声で囁く。はぁ、と至近距離で漏らされた吐息が熱っぽい。ぞくり、とここ最近は目の当たりにすることがめっきり減っていた雄の色香に当てられて、背筋が泡立つ気配を感じながら、ハーティアは真っ赤な顔で必死に言葉を紡ぐ。

「なっ……長いっ……」

「……ふむ……?」

「そ、そろそろ寝ないとっ……」

 明日は早い、と何度も言っていたのは彼の方だ。いつの間にか、部屋に漂うむせかえるほどの甘い雰囲気を纏った空気は、かき混ぜることが出来るのではと思うほどに濃密だ。

 わざとらしくゴホン、と咳払いをして空気を変えようとするハーティアに、グレイは軽く瞼を伏せて何かを考える。

「――寝なければならないか?」

「へ……?」

「我々は、一晩や二晩寝ずとも、本来問題ないのだ」

「ぐ、グレイ……?」

「私はこのまま――朝までずっと、お前の唇を味わっていたい」

「!!?」

 ちゅ……ともう一度唇が降ってきて、ハーティアは驚きに息を飲む。

「お前の唇は麻薬のようだな。どれだけ貪っても、満足することを知らぬ。……『蜜月』の真っ最中に、二週間もお預けを食らったのだ。この渇望は、一晩ごときで埋められるものではない」

「ちょ――ちょちょちょ、グレイっ……!」

「愛している――愛しているんだ、ティア……」

 ギシッ……とベッドが耳障りな音を響かせて軋むのと同時、グレイの逞しい身体が再度のしかかってきて、ハーティアは思わず身の危険を感じた。

 何せ、二週間前にクロエと”手合わせ”をした時ですらほとんど乱れなかったはずの息が、荒く乱れている。何度もハーティアの髪を、頬を撫でまわし、身体を抱きしめる大きな手は、体内に籠る熱を持て余しているのか、ハーティアに触れるたびにその温もりをいたるところに分け与えていく。時に王者の威厳を湛え、時に吸い込まれそうなほどに美しく輝く黄金の瞳は、今は誰の目に見ても明らかな劣情の炎が揺らめいている。

「ティア――!」

「待って待って待って!!!」

 切羽詰まったような囁きと共に、グレイの唇が、唇から離れて首筋のあたりにうずめられた瞬間、貞操の危機を本格的に感じ、ハーティアは慌ててストップをかけた。

「ちょっ――駄目!」

「――――……何故だ」

 少し不機嫌そうな声が首元から響く。

「キスは儀式もあるから、いいけど――そ、そういうことはっ……に、匂いが変わってから、って――!」

「……?」

 ひょこ、とグレイが怪訝そうな顔で首筋から顔を上げる。

 しばし何かを考えた後、やっとハーティアの言わんとすることに思い至り、「あぁ」と頷いた。

「安心しろ。口吻以上のことをするつもりはない」

「っ……!?で、でもっ……朝まで――って――!」

「?……朝まで口付けるのが、そんなにおかしいか?――私は足りないくらいなのだが」

「おかしいです!!!」

 ぐいっとグレイの身体を必死に押しやって訴える。

「美容の先生も、夜はしっかり寝なさいって言ってたもん!眠そうな顔で祝言なんて、絶対に嫌!」

「……ふむ……残念だ。心から」

 つぶやくグレイの言葉は、彼の偽りない本心だろう。しゅん、とした様子で瞳を伏せた後、そっとのしかかっていた身体をハーティアの隣へと移動させ、その華奢な身体を横から抱き締めるようにして添い寝する。

「……今夜は、こうして眠ることで我慢しよう。――眠るお前の寝顔に口付けることは許してくれるか?」

「ひゃっ……」

 ぎゅっと身体をしっかりと抱きしめたまま、許可をもらうより先に唇を落とす。

 驚きに声を上げたハーティアだったが、グレイなりの譲歩なのだろうと思えば、それ以上の要求は出来なかった。

「……あの、グレイ」

「なんだ?」

「ほ、本当に――キス以上のことは、しない、のよね……?」

「そういう約束だ」

「ぅ……いやでも――」

「――――あぁ。”ソレ”は雄の生理現象だ。愛しい番を抱きしめながら同衾し、好きに口付けられる状態で一晩を過ごせと言われて、こうならぬ雄はいない。……安心しろ。約束は守る」

「ぅ……ぅぅぅ……」

 なんだかとてもいたたまれない。もぞもぞとハーティアは真っ赤な顔のままシーツの中へともぐりこんで顔を隠していく。

 グレイはそんな番に小さく嘆息してから、口を開いた。

「ティア。――祝言が終わったら、お前の身体に戒をかけていいか」

「へ……?な、なんで……?」

「アルフに聞いた。<狼>は、番ったとしても雌も成体にならぬ限り、どれほど繁殖期に行為をしても、子供は出来ぬらしい」

「!?」

「相手が元『人間』の場合はどうなるか、と尋ねたのだが、残念ながら有力な記録は残っていないようだ。子供が出来る基準が、人間基準なのか、<狼>基準なのかがわからぬ。今のお前とそうした行為をしかるべき時期にしたとて、子供が出来るかどうか、わからんのだ」

 思えば、そもそも妖狼病という病が出来たのが随分と昔だ。それを期にグレイが交流を禁じてからは『人間』と<狼>が番になることなど、殆ど観測されていない。故にほとんど記録らしい記録が残っていないのは勿論、十年前の赤狼の群れ襲撃の混乱で、研究データの紛失や優秀な学者の死亡などもあり、アルフは結局グレイの質問に的確に答えることが出来なかった。

「私は、愛するお前との子供が欲しいと思っている。だが、もしお前が<狼>基準で成体にならねば子を成せぬとなれば、この永遠に近い寿命を持つ身体では、普通に時を重ねていては何百年先になるのか、全く検討もつかん」

(や……やっぱりそうなんだ……)

 やはり、大人になるにはかなりの時間がかかるらしい。ハーティアはほんの少しがっかりする。

「だから、お前の身体に戒をかけて、身体の成長速度を早めようと思う」

「そっ、そんなこと出来るの!?」

「あぁ。勿論、お前に負担が大きくなるほど強力なものはかけないから安心しろ。それでも、何もせず自然に任せているよりは早く身体が成長するはずだ」

「う、うん……」

「お前が私に身体を許して良いと思えるようになるまでは、決してそうした行為はしないつもりだが――いつか、お前がそうしてもいい、と思ってくれた時に、もっと早くから掛けておけばよかったと後悔だけはしたくないのでな」

 言いながら、すり、と甘えるように首筋に頭を預ける。どこか寂しそうに、それでも堪え切れぬ独占欲を感じさせるようなその仕草に、ハーティアは思わず口を噤んだ。

 グレイの言う「いつか」は、いつになるかわからない。何百年でも待つと言っていた彼だが、確実に来ると約束されたものではない出来事を待ち続ける忍耐は、想像を絶する辛さだろう。だが、それがわかっていたとしても、彼は絶対に諦めることだけはしない。

「昔は、お前の匂いを自分の匂いに塗り替えたくて仕方なかったはずなのだがな……今では、昔嗅いだあの香りをもう一度、と願っているなど、ずいぶんと私は身勝手なようだ」

「そんなこと――」

「……この千年、お前の匂いは、愛しい『月の子』が再びこの世に誕生したことを知らしめるもの――私にとっては、”希望”と”幸い”の象徴だった」

 首筋に鼻をうずめたまま、グレイは静かに言葉を紡ぐ。

 そして、すぅっと香りを嗅ぐように息を吸い込んでから、ぎゅっとハーティアの身体を抱きしめた。

「今の私にとっても、それは変わらない。あの愛しく香しい匂いは、ティアが、私を、私と同じように愛し、受け入れてくれるという、その証明だ。これが、”希望”と”幸い”の象徴でなくて、何だと言うのか」

 そして、ふ……と吐息だけで笑った気配が伝わる。

「安心しろ。きっと、あの香りだけは、これからどれだけの時を経ても――何百年、何千年経とうと、私は決して忘れることはない。――忘れられるものか。千年ずっと、ずっと、毎日その匂いが変わらずあることに癒され、途絶えれば絶望し、誕生すれば望外の喜びに胸を熱くした。誰に頼まれようと、決して忘れ得ぬ香りだ。故に、それが香ることがあれば――どんなに微かでも、香ったのが刹那の間だとしても、必ず嗅ぎ当てる」

 優しく言って、ゆっくりとハーティアの頭を撫でた。

「いつか必ずそんな日が来ると信じて――今日は、眠るとしよう」

「……うん。おやすみ、グレイ」

「あぁ、おやすみ、ティア」

 ちゅ……と軽く唇をかすめるように口吻が落とされて、ふわりと心が温かくなる。

(……思い出すな。お母さんの、おやすみのキス)

 瞼を閉じた裏に浮かぶのは、優しい笑顔で毎晩頬にキスをしてくれた懐かしい母の姿だった。

 幸せな家族を象徴するようなその穏やかな時間と同じことをしている今が、酷く心地よいが、なんだか不思議でもある。

(頬か唇か、っていう違うはあるけど――同じこと、してるんだもんね。でも、どっちも、すごく幸せなのは一緒。――ってことは、やっぱり、私にとってグレイは『家族』なのかな……)

 匂いが変わらないというのは、そういうことなのだろうか。

(だけど――……)

 徐々に眠気が襲ってくる中で、ぼんやりと記憶の奥底にある何かのイメージが立ち上ってくる。

(あれ……何か……答えが、出そうなのに――)

 温かで幸せなイメージの欠片は、襲い来る睡魔に負けて、夢の彼方へと消えて行ってしまった――

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