第38話

「んっ……」

「ティア……」

 ぞくりと背筋が泡立つほどの色香を漂わせた声音で愛称を囁き、何度も角度を変えながら口づけを繰り返す。腕が置かれた枕元がギシッ……と小さな音を立てて軋んだ。

 かつてルナートと呼ばれた領地で、初めてティアが生涯の番であると悟った日以来ずっと、グレイはその可憐な唇に己の唇で触れる日を夢見て焦がれてきた。

 比喩ではない。本当に、気の遠くなるような年月をずっと、己の本能と理性とを激しく戦わせながら胸を焦がし、夢の中でしか触れる事の出来ぬその唇に、夢の中でさえ触れることは叶わなかった。いつだって、夢の中の彼女は、人間の男の隣で、血を繋ぐ子供をその腕に抱きながら幸せそうに笑っていた。その光景に、胸の奥底で仄暗い感情が沸き起こる気配を感じながら、それでもまた百年後には次の生まれ変わりが誕生することに安堵し、笑顔で暮らす彼女の世界を守ることが出来る幸せを噛み締めた。

 今は、千年夢でさえ触れられなかった唇に、己の唇を重ねることを、ハーティア本人から許されているのだ。

「――――ティア……?」

 ちゅ、ちゅ、と微かなリップ音を響かせながら、横たわるハーティアに雨のようにキスを降らせては何度もその甘やかな唇の感触を味わう最中、グレイはふと何かに気づいたように動きを止めた。

「まだ、私と唇を重ねるのは怖いか……?」

「ふぇっ……!?い、いや、そ、そういうんじゃなくて――」

「無理をするな。先ほどから、ピクリとも動かずに完全に固まっている」

 グレイはほんの少しだけ寂しそうな眼をした後、すぐに安心させるような穏やかな笑みへと変わる。緊張したように固く握られたままのハーティアの手に視線を落とし、するりとその手を解すようにして指を絡めた。

「あ、ち、違っ……ほ、本当に違うの!これはちょっと――び、びっくりして……」

「びっくり?」

「そ、その――こういうキスって、初めてだったから――……」

「?」

 もごもごと言いにくそうに口を開くハーティアに疑問符を上げた後、「あぁ」とグレイは彼女が何を言わんとしているのか思い至る。

 熱烈な愛を囁いて唇を重ねても、唇同士が軽く音を立てるような軽やかな口吻が続いたことを言っているのだろう。

「アルフに教わった。初めからがっつく雄は嫌われると」

「ぅ……」

「相手が未熟な場合は特に、性欲に任せて貪るような口吻は驚かせてしまうから、優しく触れるところから始めろと言われた。――嫌だったか?」

 真面目な顔で問いかけられ、ぶんぶん、と頭を横に振る。かぁっと頬が熱を持っている自覚があった。

「そうか。よかった。……祝言では、こうした口吻をするものなのだろう?過去に目にしたものは皆そうだった」

「あ、当たり前でしょ……!?絶対、いつもみたいなキスしたら駄目だからね!?」

「ふむ……そうなのか。難しいことだ」

「なっ、なんで!!?」

「愛しさが募れば深く口付けたくなるのは自明の理ではないか?」

「理ではありません!」

 思わずマシロ張りのツッコミを入れるが、ふむ、とグレイはあまり納得していない様子で頷くだけだった。

「い、言っておくけれどっ……ほ、本来、キスっていうのは、人に見られるところでやるものじゃないんだからね!?明日は、儀式だからやるだけで、普段は人目をはばかるものなんだよ!?」

「……ふむ……?」

「なんでよくわからない、みたいな顔してるの!?全部の群れを回ったけど、<狼>さんだって、昼間の往来でチュッチュッしてる人なんかいなかったじゃない!」

 クロエとナツメは例外として考える。

「まぁ、『蜜月』の<狼>は、基本的に外に出ないからな。……別に、私とて、あえて人に見せたいと思っているわけではない。ただ、誰の目があろうが、ティアに口付けたいと思ったときに優先すべきはその感情だろう。愛しいと伝えたいときに、何も憚らず相手にそのまま伝えられる幸せを、お前は知らぬからそう思うかもしれないが――」

「せめて口で伝えて!?」

「だから口で――」

「言葉で!!!!」

 ああ言えばこう言う聞き分けのない<狼>の反論を途中で遮る。グレイはなおも納得がいかない、という表情だったが、ひとまず口を閉ざして軽く嘆息すするにとどめた。

 そして、そっとハーティアの唇に指で触れる。

「この唇が甘く離れがたいのが悪い」

「!!?」

「一応、愛する番の主張だ。頭の片隅に入れておくが――ここには誰もいない。今は、誰に遠慮する必要もないだろう?」

「っ……そ、れは……そう、だけど――」

 もごもご、と口の中で呻くハーティアに、グレイが嬉しそうに頬を緩めた。

「この二週間、触れたくて触れたくてたまらなかったのだ。幾度、無理矢理奪ってしまおうと思ったことか。……明日、うっかり箍が外れぬよう、今夜のうちに、もう少し堪能させてくれ」

「んっ……」

 ハーティアが答える時間さえ惜しむように、すぐに唇が降ってくる。

 最初は軽くついばむように――徐々に、探るように、ゆっくりと、深く。

 千年樹の根元で初めて口付けたときのような自分本位な口吻とは異なり、ハーティアの様子を見ながら、彼女の幸いを想い、どこまでも優しく甘い口吻がとめどなく与えられていくのだった――

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