第37話
「……ティア?」
「あっ……あのっ……」
「?」
「私の匂いが変わるまで――って……じゃあ……明日は、どうするの……?」
恥ずかしそうに、それでもどこか不安そうに、ハーティアの瑠璃色の瞳が揺れる。
ぱちぱち、とグレイの黄金が虚を突かれたように瞬いた。
「もしもこのまま、明日の祝言まで私の匂いが変わらなかったら――明日は、誓いのキス、して、くれないの……?」
「――――……」
「祝言は、一生に一度だから――もう二度と、永遠に、出来ないんだよ……?グレイは――私と生涯添い遂げるって、皆の前で、誓ってはくれないの……?」
「な――そんなはずないだろう……!たとえ頼まれたとて、生涯決してお前を離しはしない――!」
「私の前で、言葉で伝えてくれるのと、祝言の場で儀式としてするのとは、違うよ……皆の前でするのは、誓いの承認になってもらうためなの。もし違えたら、道を誤ってしまったら、ここにいる皆が道を正してね、っていう意味なの。グレイは――して、くれないの……?」
「っ――!」
しゅん、とハーティアのいつも気丈な瞳が哀しそうに伏せられ、グレイは息を飲む。
発展がゆっくりだった分、古くからの伝統が息づいていた北の集落では、儀式の意味や意義を当たり前のように子供たちに継承してきた。その集落で生まれ育ったハーティアもまた、大人たちからその意味合いを何度も聞かされてきた。祝宴に参加するだけの気楽な立場でいたころは、ただの華やかなめでたい日、という程度の認識でいられたが、自分が花嫁としてその場に立つとなれば、大人たちから聞かされてきたその意味合いを意識せずにはいられない。
幼いころのハーティアにとって、祝言の「誓いの義」は、神聖で憧れが詰まったものだった。いつか自分も誰かとこうして愛を誓う口吻をするのかと、胸をときめかせて生きてきたのだ。
(そっか……私、出来ないんだ――……)
ふるっ……と黄金の睫毛が切なく揺れた。
幼いころからの憧れを叶える機会が永遠に失われることに、未練がないと言えば嘘になる。
だが、そもそも、マシロの言葉が正しいならば、匂いが変わらない以上、グレイを生涯の番として受け入れる準備ができていない自分にも非がある。彼だけを責めることはできない。
「ご、ごめんっ……なんでもない。グレイは、一度決めた約束を破ったりしない<狼>さんなのに――」
<狼>は義理堅い生き物なのだ、と繰り返し告げた彼の言葉が脳裏に蘇り、あわててハーティアはパッと掴んでいた手を離した。
こんなことを言っては、彼を困らせてしまう。彼は、義理堅いと同時に、優しい<狼>でもあるのだ。
「ティア――」
「困らせてごめん。明日の儀式では、いつもみたいに、額にキスしてくれたら、いいから――」
「ティア」
「もう、大丈夫。子供みたいなこと言って、ごめん。もう寝るね」
儀式の口吻が何だと言うのだろうか。そもそもグレイにとっては、祝言という文化自体が意味不明のはずだ。全く理解の出来ない『人間』の儀式に付き合ってくれるだけでもありがたいのに、これ以上わがままを言って困らせるわけにはいかない。
最近のグレイはいつだって年長者の余裕を見せてハーティアを溺愛してくれた。その彼を思えば、儀式での口吻に憧れて、それが叶わないと知って落ち込んで我儘を言うなど、とても子供じみて思えてくる。
(あぁ――こんなんだから、不安になるんだ――……)
長としての能力も申し分なく、この赤狼の群れでも並々ならぬ人望があることは疑いようがなかった。本来理性で抗うことなど難しい、と講座で習った『蜜月』の習性にも、ハーティアを第一に考えて、ハーティアの準備ができるまで待つと言ってくれている。
そんな、完璧な<狼>を前に、自分は酷く幼稚で、釣り合わないように思えてしまう。
(早く大人になりたいのに――今の私の身体じゃ、何十年かかるんだろう……?)
千年外見が変わることがないという目の前の<狼>を見ていると、途端に不安になってくる。もしかしたら、何百年と今のこの幼い身体のままなのかもしれない。
身体が成長したからと言って、心も大人になれるかどうかはわかない。だが、まだ十四年しか生きていないハーティアにとって、そんなことを悟れる心の余裕などなかった。
「おやすみ、グレイ」
慌てたようにシーツに身体を滑り込ませて、ぎゅっと瞳を閉じる。
――夢を見よう。夢を見て、また、明日から、どうにも変わらない現実を歩き出そう。
いつかグレイが教えてくれた言葉を思い出していると――
「ティア」
ギシッ……
枕元――顔の横の当たりのスプリングが耳障りな音を立てた。
「……?」
ふと、何かの気配を感じて瞳を押し上げるのと――
「――――!」
ふ……と唇に温かく湿り気を帯びた柔らかな感触が触れるのは同時だった。
(ぇ――……)
驚いて目を見開いた先には、まるで彫刻のように美しい青年の白銀の睫毛が揺れている。
キスされている――と気付いたのは、その唇がそっと離れていった後だった。
(な――なんで――)
混乱で、思わず言葉もなく呆然とグレイを見上げる。
グレイと口吻を交わしたことは、今まで何回も――何百回とある。心を無にしていた最初の二週間で、もう二度と口吻などしたくない、と思うほどに繰り返されたせいだ。
その全てが、毎度毎度、まるで噛みつくように荒々しく、ねっとりと濃厚で、官能の極みと言えるような深い口吻ばかりだった。
こんな――こんな、まるで羽が触れたのかと錯覚するような、優しく温かな口吻は、ハーティアにとって、人生で初めてだ。
「ぐ……グレイ――……?」
困惑のあまり、恐る恐る問いかけるように声を発すると、唇を離したままの至近距離で、グレイは顔を軽く顰めて口を開いた。
「――私は、一度交わした約束を軽々破るような男ではないつもりだが」
これ以上なく苦み走った表情で軽く嘆息したあと、そっとハーティアの頬へと右手を添える。
「目的と手段をはき違えるような愚か者でもないつもりだ」
「……え…?」
「――私が約束を交わしたのは、お前の笑顔を守りたかったからだ」
ゆっくりと、愛しそうに頬を撫でる。
ふ、と黄金の瞳が柔らかく緩み、ハーティアを眺めた。
「私にとって、お前の笑顔を守ることは、全てにおいて優先されるべき事項だ」
「――――」
「だが、番になってすぐのころは、『蜜月』の本能に任せて私が口吻をするたび、お前は虚ろな表情で笑顔を消していただろう」
「ぅ゛……」
「あのときは、そんなお前をどうにかしたいと思いながら、何が要因かも皆目わからず、ただ盲目的にお前への愛を示すことしかできなかった。自分の本能に勝つことも出来なかったしな」
(あ……あのころ、何が要因かわかってなかったんだ……)
どう考えても、あの日々を振り返れば自明の理だろうと思うのだが、女心に疎い彼にそれを求めるのは間違いだったのかもしれない。早々に諦観して心を無にするのではなく、もっと根気強く、明確に訴えるべきだったのかもしれなかった。
「再び口付ければ、お前がまた笑顔を消してしまう気がしていた。だから、お前の匂いが変わるまでは、身体を重ねることはもちろん、口吻も交わすまいと約束した」
言ってから、こつん、と優しく額を合わせる。
「だが、その約束のせいで――唇に口吻をしないことで、お前の笑顔が曇るというのならば、話は別だ。そんな哀しい
「グレイ――」
「笑ってくれ、ティア。――お前の幸いが、私の幸いなのだ」
すり、と親愛の情を示すように肌を寄せられ、トクン……と甘く心臓が音を立てる。
「お前が虚ろな表情をしないというなら――この可愛らしい唇に直接口付けても、変わらず笑ってくれると言うなら、私としては、何度でも口付けたい。まったく……番にしてくれと言ったり、口吻をしてほしいと言ったり、お前は私の理性を奪う天才だな」
「ぅっ……そ、そんなつもりは――」
「お前はわかっていない。私が、この花弁のような可憐な唇の熱を、柔らかさを、甘さを知りたいと、どれだけの期間焦がれていたか、知っているのか?」
そっ…と指で唇に触れられ、一瞬で甘くなった空気にドキドキと胸を鳴らしながら、ハーティアは気まずそうに視線を逸らす。
「に……二週間、デス……」
「違う」
ふっ……とグレイは吐息が混ざるほどの距離で笑う。
「――千年、だ」
「――――!」
そのまま、驚いたハーティアの吐息を奪うようにして、再び唇が重なった。
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