第36話

 風呂から上がり、この二週間で買いそろえた化粧品でしっかりと最後のケアを完了させ、髪をしっかりと乾かしてブローする。

「……よしっ、完璧!」

「ふむ。毎晩見ているが、女子おなごというのは大変だな」

 鏡の前で気合を入れるようにうなずいたハーティアの乾かしたばかりのふわふわの黄金を指先でつまみ、グレイが感心したように言う。

「でも、そのおかげで、この二週間で見違えるほどきれいになったよ!」

「そうか?二週間前も今も、私から見れば世界一美しいことに変わりはないのだが――お前が嬉しいなら、よかった」

「ぅ……またそういうことサラッと言う……」

 ハーティアが嬉しそうにしていることが、グレイにとっては何よりも嬉しいのだろう。穏やかに微笑んで言われて、もごもごとハーティアは口の中でぼやいた。

「だが、あまり美しくなりすぎると、悪い虫が寄って来ないか心配だ」

「へっっ!?」

「ほどほどにしてくれ。きっと私は、並の男より嫉妬深い」

「……それはもう嫌と言うほど知ってる……」

 髪に口づけられながら告げられた言葉に、半眼でハーティアはうめく。この二週間でやっと落ち着いてきた狂愛が再び顔を出すとしたら、間違いなくグレイの嫉妬心を刺激してしまったときだろう。場合によっては、うっかり監禁されかねない。

(他の男の人を好きになるとか――そんなこと、ないんだけどな……)

 何度そう告げても、グレイは過去、ハーティアの魂の持ち主が数々の人間の男たちと祝言を挙げて子供を成していった千年間がトラウマにでもなっているのか、何かのきっかけで再びハーティアを他の男に取られるのではないかと恐れている節がある。そういうときのグレイの瞳には昏い光が宿り、狂気が顔をのぞかせるので勘弁してほしいところだが、どうやら言葉を尽くしたとて納得してくれるものでもないらしい。

「……ね、グレイ。今の私の匂いって、どんな感じ?」

「む?」

 ふと、思い出したように尋ねると、グレイはスンスン、と首筋に顔を寄せて鼻を鳴らした。

「風呂上がりの石鹸の香りが混じってはいるが、変わらず私の匂いだ。――愛しい」

「そっか。……ふふっ……くすぐったい」

 首元で囁かれて、吐息がかかると同時に耳にグレイの柔らかな髪が触れて思わず身を捩って笑い声をあげる。

「そう可愛い反応をするな。――愛しさで、今すぐ襲いたくなる」

「!!?」

「……冗談だ」

(いや、目が一瞬本気だったよね!?)

 一瞬黄金の瞳に情欲の光がよぎったが、二、三度の瞬きであっという間にかき消される。

 グレイは、マシロに手出し禁止を言い渡されて二週間、しっかりとその言いつけを守り、一度もハーティアに手を出すことはなかった。抱き寄せたり匂いをかいだり、額や髪に口付けたり、といったスキンシップは頻繁にあるが、夜の営みはもちろん、唇にキスをすることも我慢しているようだ。『蜜月』による本能に理性で抗っているということだろう。さすが、千年想いを堪え続けただけあって、自制心は並々ならぬものがあるらしい。

(やっぱり、匂いが変わらないと――…)

 全ては、それにかかっている。匂いが変わらない限り、彼が自制心を解放することがないのはもちろん、ハーティアがいつか他の男に取られてしまうのではという妄執にも永遠に捕らわれ続けるのだろう。

(でも、どうやったら変わるのかな……)

 グレイが、初代の女ではなく、確かにハーティア自身を見て、彼女自身を愛してくれているということは、この二週間、何度もデートを重ねたことで知ることが出来た。

 最初の背筋が寒くなるような狂愛は、最近ではめっきり鳴りを潜めて、穏やかで胸焼けしそうな溺愛を繰り広げるばかりだ。身体の関係を強要されることもない。

 ハーティア自身も、グレイの一挙手一投足にドキドキと胸をときめかせる回数は圧倒的に多くなった。

(これが、恋愛じゃなかったら何なの、っていうくらいなんだけどな……)

 しかし、まだ匂いが変わったという話は聞かない。あれほど切望していたのだ。きっと、一瞬でも変われば、すぐにグレイは気づくだろう。

「出立の準備は完了しているか?お前は今日も寝るのだろう?起きてすぐに出立できるように、夜のうちに準備をしておけ」

「うん。――あ、お花、どうしよう……このままでいいのかな」

 ふと部屋を見回した先に、花瓶に活けられた花を見て思い出す。

 三回目のデートの時、花屋に並ぶ色とりどりの花を物珍しさに眺めていたら、さらりとグレイが買ってくれた花束だった。

「しおれちゃったのもあるから、だいぶ少なくなっちゃったけど……」

「ふむ。店主の、一週間くらいは保つ、という見立ては確かだったな。気になるならば屋敷に持ち帰ればいい。ここに置いて行って、次の宿泊客の心を和ませても良いだろう」

「……うん。じゃあ、置いていく。――南のお花って、北では見たことないお花ばかりだったから、珍しかったの」

「北の地方とはだいぶ気候が異なるからな。植物も、適したものだけが咲くのだろう。……気に入ったなら、次に来た時にまた買い求めればいい。望むなら、戒で枯れるまでの時間を延ばしてやろう」

「ふふっ……うん」

 言いながら、ちょん、と大輪の鮮やかな花を咲かせる花弁に触れる。

「ねぇグレイ。祝言が終わって、北のグレイのお屋敷に帰ったら、村はずれのお花畑に寄ってもいい?」

「……む……?」

「南のこういう大きなお花も素敵だけど――なんだか、北の小さくて可憐なお花も恋しくなったから」

「――――もちろんだ。あの地に眠る『月の子』らにも、逢いに行こう」

「うん」

 大きな優しい手が、ぽん、とハーティアの頭に載せられる。

「さぁ、そろそろ眠れ。朝は早い」

「うん」

 促され、素直に頷いてベッドにもぐりこむと、グレイはいつも通りベッドのすぐ脇に椅子を置いて腰掛けた。

 ――ハーティアの寝顔を、しっかりと確認できる位置。

「……あの。もう、これ言うの何度目かわかんないけど――本当に、寝顔ずっと見てるの、やめない……?」

「どうして?」

「……ぅ……は、恥ずかしい……」

「眠ってしまえば気にならないだろう?」

「そ、そうかもしれないけど……」

 とにかく、恥ずかしいものは恥ずかしいのだ。

「そ、そうだ!グレイも、今日くらい寝たら?」

「?」

「明日は祝言でしょう?事件のあと、もう一か月近く、ほとんど寝てないんだから、疲れたまま臨むのはちょっと――……」

「ふむ……この程度で疲れたりはせんが。お前が心配するというなら、そうしよう」

 この<狼>は、どこまでも己の番に甘いらしい。さらりとベッドの中の黄金の頭を幼子にするように撫でて囁くと立ち上がり、椅子をどける。

 そのまま、瞬き一つで白銀の獣が狭い宿屋の部屋に現れた。そのまま、ベッドの横へとぺたん、と寝そべる。

「わ――……」

 キラリ、とハーティアの瑠璃の瞳が嬉しそうに輝くのを見て、グレイが苦笑する気配が伝わった。

「触りたいなら好きに触れ。――私がこの姿を晒すのも、好きに触れることを許すのも、お前だけだ」

「ぅっ……」

 完全に嗜好性を把握されている。思わず我を忘れてベッドから身を乗り出して好きなだけモフモフしそうになるのをぐっと自制し、口を開いた。

「そこで寝るの……?床、固くない……?」

「ふむ……?とはいえ、その狭い寝台にこの巨躯は収まらんだろう」

 部屋の中にあるベッドは一つだけだ。――宿屋の主人は、番の二人が別々に寝ることなど想定しなかったのだろう。用意された部屋は、人型の二人が寝そべるには十分な広さのベッドが一つだけの部屋だった。

 結果として、眠ることのないグレイに不便はなく、ハーティアは独りで悠々とベッドを使う日々が続いていたのだが――

「いやいや……一緒に寝ればいいじゃない。さすがに獣型じゃ無理だろうけど、人型になればグレイも十分寝られそうだよ?」

「――――……まさか、人型で寝ろと?そこに?」

 ひょこ、と寝そべった状態から顔だけを上げてグレイがやや呆れた顔をする。

(ぅっ……可愛い、すごく可愛い、撫でまわしたい……)

 美しい白銀の獣の誘惑に頑張って打ち勝ちながら、ハーティアはシーツを捲る。

「嫌?狭い?」

「そうではないが――」

 言いながら、グレイは嘆息したようだった。ハーティアはグレイの言いたいことがわからず首をかしげる。

 やれやれ、と言いながらグレイは瞬き一つで人型に戻ると、捲られたシーツがあった場所へと腰掛け、ハーティアの頭を撫でる。ギシッ……とスプリングが音を立てた。

「私の『月の子』は大胆だな。――人型でそんなところで夜を過ごせと言われれば、先日の講座でアルフに教わった"実技"を試したくなるに決まっているだろう」

「!!!???」

 ぼふっ……と顔を一瞬で真っ赤にしたハーティアを見て、グレイはふっと笑みを漏らす。警戒心がないにもほどがある。

「これでも毎晩、必死に『蜜月』の本能を相手取って堪えているのだ。あまり私の理性を試すようなことをしてくれるな。お前にそんな誘いを受けては、断るのに酷く苦労する」

「っ……」

「お前の甘美な匂いを前に、その花弁のような美しい唇に口付けることさえ叶わぬのは、正直、酷く辛い。――だが、約束だ。お前が私に、身も心も許して良いと思えるまで――お前の匂いが変わるまでは、耐えてみせよう。おやすみ、ティア」

 ちゅっ……と音を立てて、優しく子供をあやすように額へと口吻が落とされる。

 そのまま、話は終わりだとばかりに身を引いたグレイの手を、きゅっと遠慮がちにハーティアがつかんだ。

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