第35話

 月日は流れ、数日後――



 ガヤガヤとうるさい露店が並ぶ大通りを抜けて、美しい水音を響かせる噴水がある公園のベンチへと腰掛ける。夕暮れが近いせいか、すでにここで遊んでいた子供たちは解散して帰路に就いた後らしく、公園に人影はなかった。

「ふぅ。グレイ、付き合ってくれてありがとう」

「買い物はあれだけでよかったのか?明日にはここを発つ。今回、珍しく長居をしたからな。お前が戒を覚えて自力で訪れるようにでもならぬ限り、しばらく立ち寄ることはないだろう。心残りがあるなら遠慮せず言え」

「大丈夫だよ、ありがとう」

 ついに、明日は祝言の本番だ。朝一でグレイの戒で東の<月飼い>の集落へと移動し、準備に追われることになるだろう。

「お前の私物は全て燃えてしまっていただろう。くれぐれも遠慮はするな」

「うん。もう十分すぎるくらいだよ。これは本当。ありがとね」

 衣服も思い出の品も、全てがあの運命の夜に、紅蓮の炎の中へと飲み込まれていった。ゼロから身の回りの物を揃えねばならなかったが、今回の滞在で必要なものは十分に揃えられた。

「ふふっ……グレイとのデートも、もう何回目かな?最初はドキドキしたけど、毎回、すごく楽しかった。――これで終わりだって思うと寂しいな」

 群れの中を観光したり、店を一緒に覗いたり、食事をしたり、時には宿の部屋でまったりとおしゃべりをするだけの日もあった。

 グレイの狂愛によって一度は完全にすれ違ってしまった二人だったが、ナツメの提案で始まったこのデートのおかげで、その距離は着実に縮まり、互いの理解が深まったことは疑いようがない。

「……ふむ……?"でーと"とやらは、結婚をした後にはしないものなのか?」

「え?」

 思わずグレイを見上げると、予想以上に優しい光を宿した黄金の瞳がハーティアを見ていた。

「仮にそうだとしても、人間社会の常識にとらわれる必要もないだろう。お前が楽しかったというのなら、これからも続ければいい。何度でも、こうして穏やかな時間を二人で過ごせばいい」

「ぁ――う、うん。そうだね……ふふっ……ありがとう、グレイ」

 少し気恥ずかしそうにはにかみながら、ハーティアは嬉しそうに微笑む。どこまでもハーティアを甘やかしてくれる優しい<狼>は、今日も健在だ。

 赤狼の群れに滞在した二週間でわかったことがある。

 グレイは、本当に<狼>たちに心から尊敬されていること。グレイもまた、<狼>たちを心から大切に思っていること。

 そして、この心優しい<狼>は――誰よりもハーティアのことを、心から愛しているということ。

「……あのさ、グレイ」

「?……どうした」

「ずっと、聞きたかったんだけど――質問しても、いい?」

 言葉を選ぶようにしてゆっくりと開かれた口に、グレイがふわりと緩く笑みを漏らす。

「デートというのは、互いを知るためのものだと言ったのはお前だ。――なんでも、遠慮せず聞けばいい」

「うん。――あの、あのね……」

 なおも少し言葉を選ぶように一度花弁のような唇が閉ざされ――ゆっくりと、美しい瑠璃色の瞳が、まっすぐにグレイを見上げた。

「グレイは――私の、どんなところを、好きになったの――?」

「――――……」

 サァ――

 間近に冬が迫る木枯らしが、二人の間を吹き抜けていく。

 茜色に染まった西の空が、景色を、二人の白い頬を、全てを紅の中へと沈めていた。

「……ふむ。難しい質問だ」

 少し考えるような沈黙の後、グレイは軽く首を傾げた。

「それは、初代のお前の魂の持ち主の話をしているのか?それとも、今のお前の話か?」

「あ、え、えっと――そっか、そうだよね……」

 彼の中では、初代からハーティアまで、全て同一人物だと思っている、と告げられた言葉を思い出す。ハーティアを好きになった理由を問いかけれられたのならば、当然の疑問ともいえるだろう。

「その、あんまり深く考えて質問したわけじゃないんだけど――う、うぅん……」

 ハーティアは困った顔で視線を逸らす。

 彼の感覚に合わせるならば、初代の話を聞くのが、筋としては正しいのだろう。

 だが――やはり、どんなに同一人物だと言われたところで、ハーティアの中では、どうしても別人という認識が拭えない。

 その別人にグレイが惚れた理由やエピソードを詳細に聞くことは――どうしても、気が進まなかった。

「……ふむ。まぁ、初代だろうが、何代目だろうが――勿論お前だったとしても、私がお前を好ましいと思う点は、あまり変わりがないのだがな」

「へっ!?」

 グレイの言葉に、思わず弾かれたように顔を上げると、西日の茜色に染まった美しい顔が、微かに苦笑する。

 そのまま、そっ……と静かにハーティアの頬へと手を伸ばした。

「お前は、底抜けに優しい。自分のことなど差し置いて、相手が敵だろうが、未知の存在だろうが、対話をして、境遇を理解すれば、そっと優しく心を寄せる」

「ぇ――」

「己が、家族も友人も、生まれ故郷も全て失ったばかりだというのに、人外の力を持つ<狼>に心を寄せて清らかな涙を流したり、な」

「――――……」

 グレイも、マシロも、クロエも――セスナでさえも。

 ハーティアは、自分が何より大変な状況にあったというのに、己の不幸に酔いしれることなく、闇に沈み込むことなく、いつでも他者を気に掛ける。心を寄せて、我が事のように心を痛め、時に相手を想って涙を流す。

 気が遠くなるほど古い記憶の中――武装した男たちに取り囲まれている、傷だらけの小柄な<狼>を助け、憎しみから牙を剥かれるかもしれぬ危険など顧みず、手を伸ばして涙を流した少女と、その本質は変わらない。

 ――千年前から、変わらない。

「お前の隣は、居心地がいい。いつも張りつめている私の心を――もはや、息をするように自然になってしまっていて、張りつめていることに自分自身すら気づいていないような私の心を――ふっと解きほぐし、本音をこぼすことを許してくれる。お前の前では不思議と、弱音を隠すことが出来ん。そして、それを吐露しても、優しく受け止めて、悩みも苦しみもすべて掬い取ってくれる。月が出ていないような真っ暗闇にも似た世界でも、お前がいるだけで――月光のように穏やかで優しい明るさを持つお前がいてくれるだけで、お前を想い、どんな闇の中でも恐れることなく足を踏み出すことが出来る。お前はこの、漆黒に閉ざされた地獄の底を歩いていく生涯を照らしてくれる――私の、愛しい、『月の子』だ」

「――――!」

 初めて出逢ったときから、幾度となく呼ばれた呼び名に込められた意味を知り、ハーティアがハッと息を飲む。

 ふっ、と吐息で笑って、グレイは両手でハーティアの顔を包み込んだ。そのまま、額を合わせて、少女の瞳を覗き込む。

「だから、言っただろう。私が世界で一番好きな色の一つは、『月光を溶かしたような黄金』だ。――愛しい『月の子』の象徴だ」

「……っ……」

 優しく囁きながら、そっと髪を撫でられ、息が詰まった。

 瑠璃と黄金の視線が、至近距離で絡み合う。

「この瑠璃の瞳も、私が愛しく思う象徴だ。お前は決して強くない、我らに比べれば酷く脆弱な存在だ。それなのに、お前はいつも、強者にも理不尽にも屈しない。この真っ直ぐな瑠璃の瞳に強い光を宿して、己の信念を頼りに、いつだって敵を見据える。施設の<狼>もどきを前にしても、セスナに捕らわれたときも、決して諦めぬ、凛とした美しさを備えた強さだ。ここにあるのは、この世に存在するどんな宝石よりも美しい瞳だ」

「っ…………!」

「まぁ――私としては、独りで立ち向かう前に、もっと頼って欲しいと常々思っているのだが」

 至近距離で苦笑して告げる。

「愛しい女を守るのは男にとってこれ以上ない誉れだ。――守らせてくれ、ティア。強くて美しいお前を、私の手で、永遠に」

「っ………」

「言ったはずだ。お前がお前であるかぎり、私は変わらず、何度でもお前に恋をする。初代だの何代目だの、関係ない。北の集落が焼かれたあの晩に、初めてお前という存在と出逢ったとしても――きっと私は、変わらずお前を番にと求めただろう。……習っただろう?三度も顔を合わせれば、我々<狼>の雄は、己の番を天啓のように悟るのだ」

 そろり、と愛しそうにグレイは押し黙ってしまったハーティアの頬を撫で――ふ、と笑みを漏らす。

「……ふむ。夕暮れ時なのが惜しいな」

「ぇ……?」

「お前のこの真っ赤に染まった頬が、夕日のせいなのかどうかがわからぬ」

「っ――!」

 撫でられた手が、ほんの少しひんやりと感じるということは――グレイは、ハーティアの頬に灯った熱に気づいているはずだ。

 ボボボ、と羞恥でさらに頬が熱くなっていく気配に思わずうつむくと、ふっと吐息だけでグレイが笑う気配がした。

「これで、質問の答えになったか?――さぁ、宿に帰ろう、ティア。明日の出立は早い」

「ぅ……うん……」

 ついこの間まで、周囲がドン引きするくらいの狂気を振りまいて番への執着を強めていた<狼>は、いつの間にか年長者の余裕で幼い恋人を甘やかす男になっていたようだ。

 ドキドキとうるさい心臓をなだめながら、当たり前のように指を絡められて繋がれた手の温かさを、決して離れないように大事に握り締める。

 西の彼方に茜色が沈んでいき、東から徐々に宵闇が広がっていく。

 雲一つない空にひと際美しくきらめく宵の明星は、明日の門出の日が快晴であることを予感させた。

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