第29話

 千年樹のほとりの東の<月飼い>の部屋で、ナツメから渡された「アドバイス」に書いてあった中の一番大きな計画が、これだった。

「へぇ~、東の<月飼い>の集落で、二週間後に、祝言を?面白いこと考えるねぇ、アンタたち」

「あたしたち<狼>にはない習慣だからよくわかんないんだけど、『人間』にとっては生涯のパートナーとして互いに承認し合う大事な儀式なんだって聞いて」

「パートナー……承認……うーん、まぁ、そう言われりゃそうだけど……なんか仰々しいねぇ」

 少し呆れた顔でシュサがピコピコと煙草を揺らしながらつぶやく。ハーティアもこくこく、と頷いた。

「じゃあ何?あたし、見たことないからわかんないの」

「ま、要するに「私たち結婚しました~」ってみんなにお披露目する場ってことでしょ。で、皆におめでとうって言ってもらう。それだけ」

(それはそれで軽すぎる気も……いや、確かにそっちの方が近いかもしれないけど……)

 ハーティアは心の中で呻く。

 過去、<月飼い>の集落で行われていた祝言を思い出せば、確かにシュサが言うくらいの軽い意味合いだったかもしれない。物事の分別があまりついていないくらいの幼いころは、タダでご馳走が振舞われるお祭りのような日、という認識だったし、ある程度分別がついてから参加したときは、花嫁衣装を身に着け着飾った美しい花嫁と寄り添う夫の幸せそうな様子に、「いつかは私も誰かと……」と恋に恋する気持ちを抱く行事だった。承認だのなんだの、意味合いとしては確かにあるのだろうが、そこまで仰々しいイメージはない。とにかく華やかで、にぎやかで、結婚した夫婦を祝うめでたい日、という認識だ。

「なんでお披露目なんかする必要があるわけ?『人間』ってよくわかんないわ」

「そりゃ……アンタら<狼>と違って、『人間』は匂いで判別とか出来ないからねぇ。村全体に周知しとかないと、誰が誰の嫁さんか、わかんないじゃない?狭いコミュニティーの中で、うっかり寝取られたりしたら面倒だし」

「あー、なるほど。確かに!」

(そ、それで納得するんだ……)

 祝言にそんな意味合いはないと思うが、マシロは目からうろこ、といった様子で納得している。彼女自身、嗅覚がないため、匂いだけで番を判別する社会で匂いがわからないながらに生きる不便さを体感しているせいかもしれない。

 本人が納得しているならいいか、とハーティアはいったん説明を放棄した。

「で、せっかくだったら、「こいつは俺の嫁さんだ!手を出すなよ!」って周知しながら、「どうだ、最高にきれいだろ?」って自慢したいじゃない?あんな美人を仕留めたのかーって周りの男どもを悔しがらせたいじゃない?だから、花嫁さんってのは綺麗に着飾ってあげるもんなのよ」

「なるほど!」

「ちょ、ちょちょちょ、さすがにそれは適当過ぎませんか!?」

 軽薄な調子で適当な知識をどんどん吹き込んでいくシュサに、さすがに放置できずにストップをかける。

「何よ。絶対男たちはそう思ってるって」

「いやいやいや、それはわからないですけど!でも、本来の意味合いはそんなとこにないですから!」

 母から聞いた、北の<月飼い>の元となったご先祖様が住んでいた地域の祝言の歴史を思い出し、ハーティアは必死にマシロに説明する。

 その昔、狩猟は男の仕事で、女は家に縛られる生活だった。文明もまださほど発達していなかった時代、便利な道具などもなかったころは、家事をこなすだけで重労働だった。故に女は、結婚したら、その家の繁栄のために、身を粉にして働く必要があった。身だしなみに気を配る余裕など全くない。祝言は即ち、”女”としての自分――娘時代との決別の儀式でもあった。故に、人生で一番美しい姿に着飾ることで、娘時代の最後を華やかに終えさせ、未練をなくさせる――という意味合いがあったらしい。

「へぇ……何それ、最悪。女は召使か何かだとでも言いたいわけ?」

「いや、本当に大昔のことらしいですから……今は、女でも商売をして店に立っている人もいたし、私みたいに女でも狩猟の手伝いに出てたりもしましたし」

「ふぅん……なるほどねぇ」

 言いながら、マシロは懐から取り出したメモに視線を落とす。

「だから、ナツメからの指示書の中に『二週間後までに最高に綺麗な女性に仕上げる』って書いてあるのね」

「そ、そんなこと書いてあるんですか……?」

「うん。ここら辺は温かくて植物がよく育つの。精油が豊富にとれるから、香油の種類も豊富で、美容対策をするにはうってつけの地域なのよ。加工された化粧品は東や西にも卸してるし、北の果てから注文が入ることもある。植物学者的な側面を持った<狼>たちが研究を重ねた結果の副産物で出来た産業だけど、今となってはうちの集落にとってはなかなか馬鹿にできない収入ね」

「そ、そうなんですね……」

(そういえば、他の群れに薬も卸してるって言ってたし、もしかして、赤狼って一番お金持ちの種族なのでは……?)

 シュサがセスナに言われて<狼>種族を潰そうと考えたとき、最初に赤狼の群れから手を付けた理由がわかる。治癒の出来る<狼>が多いため生命線なのだ、というのがもちろん一番の理由だろうが、<狼>社会の経済を要となって回しているのも彼らなのだろう。

「じゃあ、明日からは二週間みっちりエステ通いね」

「え……えすて……?」

「えぇっとそれから、数日後に何着か花嫁衣裳ってのが東から送られてくるらしいから、サイズ合わせと、それに合う髪飾りの調達と――」

「えっ、えっ、えっ?」

「ん……予定組むと、五日目くらいがちょうど暇になるわね。……あ。ついでだから、あんたも参加する?――赤狼の『講座』。女の子向けのもあるのよ」

「!!?」

 マシロが言う『講座』が何のことか察し、ボッとハーティアの頬が染まる。

「ぉ?何々、おもしろそうじゃん。講座なんか行かなくても、二週間、毎晩お姉さんが手取り足取り腰取り、みっちり教えてあげよっか?」

「ヤメテ。とんでもないこと教えそうだし、グレイが暴れて集落が吹き飛びそうだからヤメテ」

 面白そうに緋色の瞳を輝かせた姉にツッコミを入れる。その判断は正しい。その昔、生きて金を得るために身体を売ることすらいとわなかったシュサの男女の営みの経験値は確かに豊富だろうが、その分偏りがとんでもなさそうだ。何より、「面白そう」という理由だけでとんでもないことをわざと教えて、二人の仲を引っ掻き回そうとする彼女の性格を、マシロは熟知している。

「でも、あの女心の分からない白狼が、よく祝言なんて許可したねぇ。それこそ「意味が分からん」とか言って否定しそうじゃん」

「あ、それは……もともと、彼の中にも思うところがあったらしくて」

 もごもごとハーティアは口の中で呟く。

 ナツメがハーティアに祝言を挙げることを提案したのは、成り行きで番になってしまった彼女の気持ちを整理させるためだった。番になるというのはあくまで<狼>の習慣に過ぎない。人間に当てはめれば結婚という制度が一番近しいと考えれば、ハーティア自身が「自分はグレイの妻になったのだ」という認識に変えることで現実をストンと受け入れやすくするために、と『人間』社会での儀礼をしてみてはどうか、という提案だった。首を噛まれただけで、急に執着を増して溺愛してくるその様は、『人間』からしてみれば異様としか思えない。彼女自身経験があること故の計らいなのかもしれなかった。

 故にこの計画は、完全に「ハーティアのため」以外の何物でもなかったが――グレイは、予想に反して、二つ返事で了承してくれた。「何のために?」などと言ってデリカシーのないことを言われると思っていたハーティアは肩透かしを食った形だ。

 だが、思い返してみれば、確かグレイは、過去ハーティアの魂たちが集落で祝言を挙げるたびにそれを死にたくなるような気持ちを抱えていた、と発言していた。夫になる男を頬を染めて見つめる姿を見て、その表情を永遠に自分には向けてもらえないのだと嫉妬と共に絶望を抱えていたのだろう。

 彼にしてみれば、「祝言」という言葉は、愛しい女を他の男に取られていくのを指を咥えて見ているだけの苦しい記憶と密接に結びつくものだった。それを、ハーティアを相手に、自分と彼女がその儀式を主役として行えることは、彼にとっては嫌な記憶を良い記憶に塗り替える願ってもない提案だったのだろう。

『あの、この世のものとは思えぬほど美しく着飾った姿を、他でもない私の隣でしてくれるのか。――あぁ、それは、堪らない。千年の悲願だ。今から楽しみで仕方がないな』

 提案を聞いた途端に心から嬉しそうに瞳を緩めて、愛しそうにハーティアの頬を撫でたその表情は、これ以上なく幸せそうだった。

「ねぇ、ハーティア。指示書の中に、よくわからない文言があるんだけど」

「?……どれですか?」

「これよ」

 聡明なマシロがわからないということは、人間界の習慣に関することなのだろう。指さされた箇所を隣から覗き込み――

「"でーと"って、何?」

「!!?」


 ――祝言の当日まで、空いた時間はなるべくグレイとデートをして過ごすこと――


 指示書には、確かにナツメの美しい筆跡で、そんな文言が綴られていたのだった。

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