第27話
サワサワと、少し肌寒い風が頬を撫でて通り抜ける。冬が近づく気配が間近に迫っていた。
「ティア、忘れ物はないか?寒くはないか?」
「う、うん。……あれ、でも、南にある赤狼の群れはそんなに寒くないって――」
「いいのよ。どうせ、ただのいつもの溺愛でしょ。好きに心配させておけば?」
後ろから半眼のマシロの声が飛ぶ。ゲロを吐きそうなほど、と表現した通り、今にも砂を吐きそうな顔で吐き捨てるように言う様子は、二人に完全に呆れているに違いない。
会議が終わり、グレイは事件後唯一顔を出していない赤狼の群れに寄っていくと決めた。彼が赤狼の群れに顔を出すのは、十年前の事件からマシロが族長に選出されるまでのわずかな期間、一時的に混乱を治めるために滞在していた時以来だ。シュサというかつての敵が居ついていることもあり、群れの様子を見たいというのは本当だろう。本当だろうが――ついでに、群れで開催されている『講座』も受講するつもりなのだろうということも、当然マシロにはよくわかっていた。
マシロが話を持ち掛けたときも、案の定、『講座』を受けることに関して、グレイは何一つ抵抗はないようだった。千歳も生きたプライドも何もない。唯一懸念するのは、今、講座の講師を務めている年若い赤狼の戸惑いだけだ。かつて群れの危機を救ってくれた完璧超人のグレイを相手に、子供向け講座を行うことになるなど、まさか夢にも思っていないはずだ。しかも、内容が内容である。
「いい?赤狼たちは、グレイに興味津々だと思うから、群れの中では色々なところで色んな<狼>にベタベタされると思うけど、気にしないでね」
「え?」
「昔、話したでしょ。十年前、赤狼の群れが襲われたとき、グレイが助けに来てくれたこと。――あれ以来、うちの群れじゃグレイは救世主扱いなのよ。元々、色々なことに興味関心が強い種族だから、完全無欠の長の秘密を探りたい、って思ってる<狼>は多いと思うわ」
「群れを回った後は、他の<狼>たちの匂いが移って不快かもしれぬが――どれだけ群れの<狼>たちに慕われようと、私の唯一はティアだけだ。安心していい」
「は、はぁ……いや、私は別に気にしないけど……」
どうせ、元人間であるハーティアに、匂いなどわかるはずもない。息をするように甘い声で口説いてきたグレイに呆れながら半眼で返す。
「まぁでも、もしかしたら、アンタにも興味を示されるかも。あのグレイが番にした雌ってどんな女?っていう観点で。群れの中を歩くときは覚悟しておいた方がいいかもね」
「え゛!?」
「大丈夫だ、ティア。せいぜい取り囲まれて質問攻めにされるくらいだろう。お前に危害が加えられるようなことはない。基本的にお前が外に出るときは私が常に傍にいるようにするし――万が一離れている間に何かあれば、すぐに私を呼べ」
「――だ……大丈夫です……」
ひくり、とハーティアは頬を引きつらせて返答する。
危害が加えられるなど――そんな状態でグレイを呼んだとして、その危害を加えたとされる<狼>がどういう末路を辿るのか、言葉にされずとも、この二週間の彼の狂愛ぶりを見ていれば一目瞭然だ。不幸な虐殺が行われないよう、万が一の時は自力で何としても逃げ出そう、と心に誓う。
「それにしてもセオドアは遅いな。何をしているのやら――」
「初めての招集だったから、荷物多いんでしょ。――セッちゃんの私物、持って帰らなきゃでしょうし」
(ぁ……そ、そっか)
この建物にある部屋はすべて、"役職"に割り当てられている部屋ばかりだ。セオドアが使う部屋は彼の部屋、というよりも『黒狼の族長』に割り当てられた部屋でしかない。族長会議は、基本的にわざわざ招集がかかるくらいなのだから、数日間にわたることもしばしばだ。幾日かここで過ごすことになっても不便がないように私物を持ち込んで置いておくのが常である。
きっとセオドアは、今回の初めての招集に際して、自分の私物を群れから持ち込み――空になった鞄に前任者であるセスナの私物を詰めて帰るのだろう。
持ち帰られた私物が、遺品として家族の手に渡るのか、セオドアの手で処分されるのかはわからない。
(セスナさん――……)
黒狼の群れにおいて、<夜>の器の片割れとして認識されていた彼が、あまり良い待遇ではなかったということは、本人の口から聞いたことだ。せめて家族だけでも彼の死を悼んでほしい、と思う反面――彼の真の理解者は、彼がその手に掛けてしまった、彼が『魂の片割れ』と呼んだその存在しかいなかったのでは、とも思う。それならば、グレイと相談して造った彼の墓――かつて彼が何十年と言う長い月日を過ごした石牢の中、寄り添うように兄の隣に建てられた墓――に、静かに捧げてもらうのも、一つの供養なのかもしれない。
ほんのりと寂しい気持ちになったハーティアの表情を察し、グレイが何も言わず頭を撫でてくれる。その温かさに心がふっと緩むと――
「す、すみません!お待たせしました!」
背後から恐縮しきった声が響いた。振り向くと、年若い紫水晶の瞳を持った青年がパンパンになった鞄を持って向かってくるところだった。
「ナツメ。しばらくここに来ることはない。心残りはないか」
「はい、クロエ」
セオドアの後ろから、長身の美男美女がやってくる。当たり前のようにナツメの荷物も一緒にクロエが持っているあたりに、彼らの関係性が見える。第三者には歪にしか見えなくとも、本人たちの中では幸せに完結した世界の中で愛を育んでいるのだろう。
「お前たちも一緒か」
「たまたまだ。飯を食い終わったからな」
グレイの言葉に、フン、とクロエが不機嫌そうに鼻を鳴らす。会議終了後、お仕置き終了、とばかりにクロエはやっとのことでナツメの手料理にありつけたのだ。
「あの、グレイ……その、本当にいいんですか?僕としてはとても助かりますけど、その、群れまで送ってもらって――」
「構わん。送り先は石牢の辺りでいいか?」
「は、はい!大丈夫です」
ぺこり、と頭を下げるセオドアを前に、ハーティアは少しだけ残念そうな顔をする。
(セオドアさんの獣型……見てみたかったな……)
しゅん、と黄金の睫毛が伏せられて頬に影を落とす。<狼>の獣型は、それぞれの人型の特徴を引き継ぐのか――逆に、人型が獣型の特徴を引き継いでいるのかもしれないが――個体差が激しいことは、以前この場でそれぞれの族長の獣型を目にしたときに知っている。
(マシロさんは可愛くて、クロエさんはカッコよかった……セオドアさんはどんな風なのか、すごく見てみたかったのに……)
「あ、あの……ハーティアさん、大丈夫ですか……?何か、すごく落ち込んでるっぽいんですが……」
「なんで本人に聞かずにあたしに聞くのよ」
「……いや、本人と言葉を交わしたりしたら、一歩間違ったらグレイに殺されかねないですし……」
「どんな間違いよ、それ」
何やらマシロとセオドアがこそこそ話をしている。
はぁ、と物憂げなため息を漏らすハーティアが、なぜ落ち込んでいるのか、何となく予想がついているのだろう。グレイは苦い顔のまま、すっと手を掲げた。
「では、送ってやろう。そのうち、黒狼の群れにも顔を出す。それまで愛しい子らを頼んだぞ、新族長」
「はっ、はいっ!」
少し緊張した面持ちで背筋を伸ばすセオドアを前に、ゴキッとグレイの右手が音を鳴らす。ふぉんっ……と小さな音を立ててセオドアの姿が掻き消えた。
それを見届け、グレイは長身のカップルを振り返った。
「……さて。クロエ、お前たちも送ってやろう」
「いや、いい」
「何っ……!?」
きっぱりと断られたのが予想外だったのか、グレイが少し焦った声を出す。
クロエはいつも通りの三白眼でチラリ、とナツメの方を見た。
「ナツメは昔から、花だの草木だの、自然が好きな女だった。群れの外に出られる機会は限られているからな。こういうときは森の中を散策がてらゆっくり帰ると決めている」
「はい、クロエ」
いつも通りの定型文を口に乗せるナツメは、ほんの少しいつもより嬉しそうだ。
言われてグレイも思い出す。
百五十年前――初代のナツメの病床に訪れたとき、毎日欠かさずその枕元に色とりどりの花が活けられていたことを。
戦い以外に興味などないクロエが、必死に彼女の気を引こうと、笑顔を引き出そうと、森の中に分け入っては花を摘んでいるのかと思うと、愛は人を変えるとは本当だな――と感心したものだ。
だが、今それを言われるのは誤算だった。
「待て、それなら我らが転移した後に――」
「?……何を訳の分からんことを言っている」
自己中が服を着て歩いているような男に、グレイの言葉が響くはずもなく。
当たり前のように瞬き一つで、クロエは獣型へと姿を変えた。
「わぁ――……!」
現れた薄墨色の筋肉質な雄々しい獣型を目にして、口の中で小さく、しかし確かに洩らされた歓喜の声に、人並外れた聴力を持つ<狼>が気づかぬはずがない。グレイの頬が、ひくり、と引き攣った。
グレイよりも、当然マシロよりも、その獣型は鋭く獰猛な牙を持ち、戦闘に特化した身体つきであることをうかがわせた。人型の時の三白眼を思い起させる獰猛な雰囲気を纏った獣型は、普通の人間であれば恐怖に身をすくませるところだろうが、狩りに特化した猟犬であるルヴィと幼いころから共に生きてきたハーティアにとって、その雄々しい姿は胸をときめかせることこそあれ、恐怖で近寄りがたいなどと思うことはない。
「格好いい……」
「え゛。……嘘、どこが……?」
ぽーっと熱に浮かされたようにうっとりとハーティアが呟く声に、信じられない、といった様子でマシロがドン引きする。クロエの獣型は、よっぽどのっぴきならない事情でもない限り、可能であれば絶対に近づきたくない、と思うくらいの威圧感がある。不用意に近づけば、その獰猛な牙か爪で一瞬で命を刈られそうだからだ。
二人の会話が聞こえていないわけでもないだろうが、我が道を行くクロエが気に留めるはずもない。ちらり、とナツメを振り返った。
「行くぞ、ナツメ。乗れ」
「はい、クロエ」
のそり、と筋肉質な巨躯が一歩ナツメに近づく。
(わ――伏せるの!?伏せ、するの――!?)
ドキドキ、と胸を高鳴らせてハーティアは食い入るようにその光景を見つめる。
戦うために生まれてきたような筋肉質なその体躯を、従順に地面に腹をつけてぺたんと臥せる姿は、過去一緒に育った愛しい親友の姿を思い起こさせて、想像するだけできっとすごく可愛――
「っ――それ以上、そんな目で見るな――!」
「へ!?」
どこか切羽詰まった声がして、一瞬で視界が真っ暗になる。
驚いて瞬きをし――やっと、自分の目を手で覆われたのだと理解した。
「グレイ!?」
「ダメだ――駄目だ、ティア――っ……もう二度と、私以外の全ての男を、その視界に入れたくなくなる――!」
「えぇ!!?」
「頼む――お前を永遠に、屋敷に縛り付けて閉じ込めたいわけではないのだ――」
「えぇぇえ!?それは困るよ!?」
いきなりぞっとするような狂愛を切実な声で耳元にささやかれ、驚きのあまり振り返る。見上げれば、ぎゅっと眉根を寄せて苦し気な顔をしたグレイが、ハーティアを切ない瞳で真摯に見つめていた。
「お前は本当に、私を嫉妬させる天才だな」
「えっ!?ち、ちが――」
「違わない。お前が、我々の獣型が好きなことはよく知っているが――私の獣型では満足できないか?以前、クロエの獣型を見たときも、熱心な視線を注いでいただろう。性格はカズラのような男が好きだとしても、外見はクロエのような男が好きなのか?獣型だけか?人型も、か?――あぁ、だめだ、考えるだけで今すぐ殺したい」
「おっ……おおおお落ち着いて、グレイ!」
その黄金の瞳に昏い光が宿りかけたのを見て、慌てて制す。――目も声も笑っていない。完全に、どこまでも本気だ。とっさにピクリと動いたような気がした右手を抑えたのは正解だったようだ。――ここで制止していなければ、問答無用で癇癪を起こしたような特大の戒を薄墨色の<狼>へとけしかけていただろう。
頬を引きつらせて見つめていると、グレイは堪え切れなくなったようにその身体を抱き寄せ、ギリッ……と奥歯を噛みしめる。そのまま、歯の隙間から絞り出すような声が響いた。
「セオドアの獣型も、絶対に見せぬぞ……!ティア、お前は私だけを見ていればいい。いくらでも、いつでも、お前が望むなら、獣型になってやる。望むなら、好きなだけ触らせてやるから――」
「えぇええ!!?いや、それは嬉しいけど――って、ちょっと待って!?今日、わざわざセオドアさんを転移させたのって、そんな理由だったの!!?」
まさか、そんなくだらない理由だとは思わず聞き返すも、不機嫌そうに歪められた表情が無言であっても答えを物語っていた。
(ぐ、グレイの獣型も大好きなんだけどな……)
幼いころから大好きだった絵本の挿絵そっくりのその姿は、つい魅入ってしまうほどの神々しいまでの美しさとふさふさの上質な手触りも相まって、問答無用でハーティアの心を端掴みにするのだが、今それを伝えても、言い訳がましく聞こえてしまうかもしれない。
「女。……俺はナツメ以外の女に興味はない」
「いやいやいや、私もそういう意味で見てないですから!」
後ろから不愉快そうにぼそりと告げられた言葉に、慌てて振り返って反論する。見ると、すでにクロエはナツメを背に乗せて立ち上がってしまった後だった。『伏せ』の姿を見られなくて少しがっかりする。
「フン……ではな、グレイ。二週間後に東で会おう。こちらはこちらで準備を進めさせておく」
「あぁ。頼んだ。――二度とティアの前で獣型になるなよ」
「知らん。心配なら永遠にその女に目隠しでもしておけ。――いくぞ、ナツメ」
「はい、クロエ」
ぶっきらぼうな声に、上に乗っている横座りの美女がいつも通りの定型文で答えると、踵を返してのそっとのんびり薄墨の体躯が歩き出す。横座りのままこちらを向いて上品に微かに手を振ってくれる優雅な貴婦人の散歩にしか見えぬその様子に、ほぅっと魅入っていると、ぐいっとグレイがハーティアの手を引いた。――見るな、ということらしい。
「ねぇ。痴話喧嘩はもういいから、あたしたちも早く行きましょうよ。そろそろ、お昼ご飯が食べたいわ」
くだらないやり取りを繰り返すカップルを前に、心の底から呆れかえった声で、半眼のままマシロが口を開いたのだった――
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