第24話

 転移した先は、ハーティアの部屋だった。氷のように澄んでいた月光も、夜明けが近くなるにつれてだいぶ白んできており、部屋の中も薄暗くなっている。

「……さぁ、寝ろ、ティア」

「ちょ――ま、待ってよ……!なんで急に二人が喧嘩してたのか、教えて――」

「喧嘩ではない。手合わせだ」

「何でこんな時間に!!?」

 ハーティアのツッコミは至極まっとうだ。グレイは小さく嘆息して視線を逸らす。

「気が向いた。それだけだ」

「嘘!絶対クロエさん寝てたでしょ!いつものグレイなら、相手を起こしてまでそんなことしないもの!」

 この二週間のせいで、完全に嘘を吐けなくなってしまったらしい。今度は大きなため息をついてから、グレイは有無を言わさずハーティアをベッドへと横たえた。

「ちょっ――」

「何でもない。お前は知らなくていい。――眠ってくれ、ティア」

「…………」

 ハーティアの顔が悲しそうに歪められる。チクリ、と胸が痛みを発した錯覚を、頭を振って振り払い、グレイはそっと小さな黄金の頭を撫でる。

「大丈夫だ。お前が心配するようなことは何も――」

「本当?本当に?――強がってない?」

 ぐっと頭を撫でる腕の袖口をつかんで、ハーティアはグレイを見上げる。

「グレイ――哀しんでない――?」

「――――……」

 美しい宝石のような瞳には、はっきりと『心配』の色が浮かんでいる。

 グレイはきゅっと眉根を寄せて口を閉じた。

 しばし、白んでいく世界のなかで、沈黙が下りる。

「……頼みが、ある」

「う……うん。何……?」

 ぼそり、と呟くように滑り落ちたグレイの言葉に、ハーティアは真剣な顔で聞き返す。

「もしもお前が言うように、これから先、私に心も身体も許すことは出来ぬというのなら――」

「ぅ……うん……」

「――私以外の誰にも、等しく、ただ一人の例外なく――それを許さぬと、約束してほしい」

「――――――…へ……?」

 きょとん、と瑠璃色の瞳が驚いたように瞬かれる。

 見上げた先の美青年の顔は、これ以上なく辛そうに歪んでいた。――どうやら、冗談ではないらしい。

「お前は、『期待をするな』と告げたが――それは、無理だ。唯一無二の番にと願った相手に拒絶される苦しみは、<狼>にとって絶望に等しい。クロエの話をしただろう?」

「え、あ、う、うん……」

「私には、クロエと違って"次"がない。――お前が、最後だ。最後にして、唯一の、最愛だ」

 ドキン……とハーティアの心臓が一つ飛び跳ねる。

「お前に拒絶されるくらいなら、死んだほうがましだ。お前の心を永遠に得られぬなど――そんな未来は、絶対に受け入れられぬ。想像しただけで、心が、バラバラになりそうだ」

 言いながら、そっと宝物に触れるようにして、ハーティアの白い頬へと手を伸ばす。温かな手が、包み込むようにして頬を撫でた。

「すぐではなくてもいい。何年、何百年かかってもいい。いつまででも待つ。待てる。――お前が、いつか、私を見て、嬉しそうにこの白い頬を染めてくれる日を夢見て、待ち望もう」

「ぇ――」

 グレイの脳裏に浮かぶのは、初めてこの魂の持ち主を『美しい』と思ったあの日――

 出逢ったばかりのころ、今のハーティアと同じくらいの年頃だったティア・ルナートが頬を染めたあの表情だ。

「この千年、何度もお前は生まれ変わり、そのたびに、生涯の伴侶を見つけ、子を成し、血を繋いだ」

「う…うん……」

「祝言のたびに、お前はいつも伴侶を見上げて、嬉しそうに、恥ずかしそうに、幸せそうに、この頬を染める。――得も言われぬ程に美しいそれを見ながら、いつも、この表情を私に向けてもらえる日は永遠に来ないのだと、死にたくなる気持ちを抱えていた」

「――――……」

「だが、奇跡が起きた。お前を番にすることが出来たのだ。――ならば、待とう。永遠に手に入れることは叶わぬとあきらめていたその時を、私はもう、決して諦めることが出来ない」

 言いながら、そっと黄金の瞳が伏せられる。

「だから、拒絶をしないでくれ。今はまだ、お前の中で、その可能性を排除してもいい。『家族』とみなしてもいい。だが――私から、唯一の『夢』を、奪わないでくれ。この地獄の底でくじけたとき、哀しいことが起きたとき、この『夢』を奪われては、私はもう立ち上がることが出来ない」

「――――……」

 ハーティアは息を飲んでグレイを静かに見つめた。

 めったに眠らないというこの<狼>が見る『夢』が――そんなことだというのか。

 もの言いたげなハーティアの視線に気づき、ふっ……と一つ苦笑して、グレイは口を開いた。

「私の今の『夢』を教えてやろう。――<狼>種族が、今以上に繫栄している。外敵に脅かされることもなく、どの群れも助け合い、時に良き闘争をしながら、互いの発展の一助となっている。今や東だけとなってしまった<月飼い>だが、妖狼病の特効薬が開発されたことで、<狼>との混血も当たり前に誕生するようになり、いたるところにその血族が続いていく。<月飼い>も<狼>も関係なく、時に手を取り、どの子らも幸せそうに笑っている――そんな、世界の中で」

 そっ……とグレイは、ハーティアの頬をひと撫でする。

「お前が、私の、隣で笑っている」

「――――!」

「今までのように、”誰か”の隣ではない。――”私”の、隣で、幸せそうに笑っているのだ」

「グレイ――……」

「ティア、と呼べば当たり前に振り向いてくれる。抱きしめ、キスをしても、頬を染めて笑ってくれる。そんな時のお前からは、私の匂いと共に、時折、お前自身の香りが香る――それが、私が思い描く、これ以上ない、幸せに満ちた世界だ。私がこれから先の千年で叶えたいと描く、『夢』の世界だ」

 それを叶えるためならば、どんな地獄の底も歩いて行ける――そんな風に思える、とっておきの『夢』だから――

「だから、ティア。頼むから、私から『夢』を奪わないでくれ。――今すぐに、私を受け入れてくれなくてもいい。だが、他の男を愛すことだけはやめてくれ。希望を奪われ、死にたくなる」

「そっ、そんなことしないよ……!」

 慌てて否定するが、グレイは苦い顔で見返してくる。

「お前という個人だけを見て、愛する者が生まれても?」

「あ、当たり前でしょ!ぐ、グレイと――番に、なったんだから……」

 もごもご、と恥ずかしそうに口の中で呻く。そんな、浮気みたいなことは、考えたこともなかった。

「……では、勝手に期待することだけは許してくれ」

「え……?」

「私は、お前を愛している。――愛しているよ、ティア」

 ドキンっ……

 切ない声で真摯に告げられた言葉に、ハーティアの心臓が、ひときわ大きく音を立てて飛び跳ねる。

「お前に理解してくれと言っても難しいのはわかっている。だが――私にとって、千年前から、この魂を持つ者は、皆、同一人物だと思っている」

「――――へ……?」

「全て、どの魂も、『最愛』だ。私にとって、全てが特別な、唯一無二の存在だ。千年間、ずっと、ただ一人だけを、愛してきた。<狼>の愛は一途だと伝えただろう?」

「え……で、でも――」

(最初の最愛って言って――あれ…?でも、そういえばさっき、私に向かって、最後の最愛って……)

 混乱しながら、グレイの言葉を思い出す。

『最初の、最愛を奪った憎い憎いあの男が、いつもお前の傍に――!』

 激昂しながら言われた言葉に、自分は最愛ではないのだと傷ついたのだが――

(『最初の最愛』じゃなくて……最初の、『最愛』――『最愛』は魂の持ち主全部を指すの……?)

 二番目の最愛も、三番目の最愛も存在することになる。確かに、その理論で行けば、ハーティアは『最後の最愛』だ。

「お前の言う通り、最初の魂を懐かしむことが多いのは事実だ。彼女との出逢いが全ての始まりであり、ただ見守るだけではなく、何度も顔を合わせて会話をし、交流を深めたのは、お前を除けば彼女だけだからだ。だが――思い返せば、彼女と密に交流をしたのは、たった五年程度だ。まだ出逢って数週間のお前よりも、たくさんの想い出があることは事実だから、ふとした時に思い出すことが多いのだと思う。ただし、そのうち、お前との思い出の方が多くなるだろう」

 グレイは触れていた頬から手を離し、さらり、と黄金の髪を撫でた。

「この千年、見守り、見送ってきたすべての魂が、愛しい――愛しい、私の、『月の子』だ。序列をつけることなど適わぬ。お前の言う通り、決して最初の記憶を忘れることは出来ぬ。――が、それは、彼女だけを愛し、お前を愛していないという訳ではない。彼女もお前も、私の中では、等しく愛しい『月の子』なのだから」

 ドキン……ドキン……

 急に心臓が活発に動き始め、顔に熱が上りそうになる。どんな顔をしていいかわからず、バッとシーツを頭までかぶった。

 それを見てどうとらえたのか、グレイは寂しそうな顔をする。

「……理解してくれ、とは言わぬ。お前の気持ちはわかっているつもりだ。そんなことを言われても、お前にしてみれば、別人としか思えぬだろう。――だが、信じてほしい」

 言いながら、シーツの上から、そっともう一度、ハーティアの頭を撫でる。

「仮に、私に千年の記憶がなく、つい数週間前に、初めてお前と出逢ったのだとしても――きっと私は、お前に――ハーティア・ルナンに、変わらず、恋をした」

「――――!」

「番にしたい魂とは、そういうものだ。――天啓のように、悟る。これが、唯一無二の相手なのだと。――そもそも、別の誰かで代用など、出来る代物ではない」

 だから、同一人物なのだ。

 初代のティアも――ハーティアも、その間の魂も、どの女性も、いつだって、グレイは愛しくて仕方がなかった。交流がなく見守るだけだった今までの魂たちも、村から攫って無理やりに番にしてしまいたいと、何度考えたかわからない。

 どれも等しく、番にしたいという衝動が堪えられなかったのだ。――代用の利かぬはずの存在が、複数個体存在するはずがない。そもそも番とは、世界に一人しかいないはずなのだから。

「……『夢』を奪われれば、私はお前を、ナツメのようにして閉じ込めてしまうだろう。永遠に手に入らぬならいっそ、と酷い行いをしてしまいかねない。だから――ティア。お願いだ。私から、希望を、奪わないでくれ――」

 懇願するような声と共に、そっとシーツ越しに額に唇が触れた。

「!」

 ハーティアが息を飲むのと同時――

 ふぉんっ……と小さな音を立てて、部屋からグレイの気配が一瞬で、掻き消えたのだった。

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