第23話

 闇に溶けるような烏の濡れ羽色の髪も、これほど煌々と月光が眩く輝く夜では意味をなさない。月下で爛々と輝く瞳は、夜行性だったというオオカミの本能を思い起こさせるようだ。

「マシロ!ナツメを連れて下がっていろ!」

 叫びながら指を鳴らし、戒を発動する。巨大な空間圧縮の力場を造り出し、クロエの突進の経路を物理的に阻害しながら己もその場を飛び退った。メキメキと音を立てて、力場に幹を飲み込まれていった巨木が、ズゥゥン……と轟音を立てて地面へと沈んでいく。

 視界の端で、慌てたようにマシロがナツメの手を引いてその場を離れていく。クロエは、一度戦闘に没入すれば、それ以外のことには一切気が回らない。今も、ナツメを戦闘に巻き込むかもしれない、などという思考は一切ないだろう。ただ、目の前のグレイを仕留めることしか考えていない。

 人が変わったように戦闘に興じる番を前にして、その身を案じているのだろう。気の毒になるほど顔面蒼白になったナツメは、少し抵抗したようだったが、セオドアもマシロと一緒になってナツメを支え、タンッと地面を蹴ってその場を離れた。

 それを視界の端に認めながら、昏い影が胸を覆っていくのを自覚する。

(あぁ――むしゃくしゃする)

 無理やり、心を壊してまで手に入れたナツメに、心から愛されているクロエも。

 誰に対しても優しく慈しみ深いセオドアも。

 思い通りにならない現実との差異を際立たせるようで、酷く苛立ちが募っていく。

 子供じみたくだらない感情だということはわかっているが、胸に渦巻く闇は八つ当たり先を求めてドロドロと蓄積していく。

「行くぞ――!」

 嬉々としたクロエの愉しそうな声が響き、不可視の刃がヴンッ……と大量に生み出される気配がした。クロエの合図に従い、ほんの刹那の時間差で、複数方向から順番に刃が襲い来る。それと同時に、クロエは地を蹴りその場から逃れた。先程と同じ反撃を警戒してのことだろう。

「小賢しい――!」

 パキパキパキッ

 グレイもまた、指を順番に器用に鳴らしながら、踊るように空間捻じ曲げ、襲い来る刃を迎撃の刃へと変えていく。

 いくつかはクロエを掠めていくが、痛覚のないクロエは気にも止めない。致命傷だけはギリギリで避けながら、刃への対処に全力を尽くすグレイの元へと距離を詰める。

(あぁ――煩わしい――!)

 ギッと黄金の瞳が一段と鋭い光を放つ。ちまちまと相手に合わせて攻撃を返してやっていたのが苛立ちと共にどうでもよくなり、バキッとグレイの右手がひときわ大きな音を立てた。

「避けねば死ぬぞ――!」

 ベキベキベキベキッ――!

 最後の情けで一言だけ忠告を残し、広範囲にわたる空間圧縮の力場を生じさせる。

「っ――!」

 つんのめるようにしてクロエの身体が急減速し、必死に逆方向へと飛び退る。

「ガァ――!」

 クロエの口から苦悶の声が漏れた。一瞬逃れるのが遅れ、左手の先から空間圧縮へと巻き込まれてベキベキと折りたたまれていく腕を、無理矢理引きちぎるように身体を引いたため、ブチブチと耳障りな何かがちぎれる音が響いる。

 しかし、痛覚がない彼は瞳から嬉々とした光を消すことはない。ギラリ、と瞳が凄絶な光を放つと同時、グレイへと不可視の刃が再度複数迫ってくる。

「貴様――!」

 情けをかけて力場を消失させてやろうとしていたのを取りやめ、苛立ちと共に空間を捻じ曲げる戒へと変更する。

 刃の行き先を捻じ曲げる先は当然――クロエの喉元――!

「セオドア!ストップ!!!」

「はっ、はいっ!!!――かき消せ!!!」

 ヴンッ……と戒の発動音が響き、その場に生じていた全ての戒――グレイの戒もクロエの戒も、全てが掻き消える。

「「――――!」」

 二人が戒の消失に息を飲むのと同時に、セオドアは立て続けに両手を両者へと掲げた。

「動くな!」

 グンッ……と二人の動きが目に見えぬ糸に絡められたように無理やり封じられた。

「くっ……貴様――」

「ドクターストップよ!クロくん、死ぬ気!?」

 忌々し気にセオドアを睨んだクロエに慌てて駆け寄りながら、マシロは必死にグチャグチャになったクロエの左腕に触れて戒を展開する。

(なんで僕ばっかり……っ!)

 歴代最強の灰狼と名高いクロエの殺気のこもった視線は、途中で割って入ったセオドアの背筋を冷やすものだった。先ほどのグレイの殺気ほどではないが、十分に怯みそうになりならがらも泣き言をぐっとこらえ、必死に戒を維持する。

「……ふむ。戒の練度は目を見張るものがあるな。申し子か?」

「えっ」

 未だに冷ややかな瞳をしたグレイの声が響いた――と思ったとたん、バチンッと硬質的な音を響かせ、グレイの分の拘束だけがあっさりとほどかれる。

「な――――!?」

(どうして!?)

 混乱して絶句するセオドアに構うことなく、グレイは不自然な体勢で止められた身体をほぐすように軽く首や手を回しながら口を開く。

「この千年、私の動きを一瞬でも戒で止められた黒狼は少ない。誇っていい。お前はこの千年間で生まれた黒狼の中で五本の指に入る戒の使い手だ」

(力ずくで――僕の戒を、はじき返した……?)

 グレイの方に向けた右手を呆然と眺めて、起きた事態に愕然とする。

 「誇っていい」などとこの男は言っているが――とても、そんな気分になれない。

 仮に、事実セオドアが五本の指に入る黒狼だったとして――その彼の渾身の戒を、あっさりと力技ではじき返すような化け物が、今、目の前にいるということだ。

(つまり――黒狼が束になってかかっても、この<狼>には、きっと逆立ちしても敵わない……)

 昼間の会議で見せた統治者としての完璧な顔ではなく、千年前の大戦を生き抜いた一騎当千の戦士としての顔が垣間見えて、セオドアはつぅっと氷のような何かが背筋を伝い降りていくのを感じる。

「っ……!」

 ガタガタと震えだしそうになるのを必死にこらえ、クロエへと両手を向けて、クロエだけでも動きを封じ続けようと集中する。

 大人で器のでかい穏やかな長老のような顔や、番にぞっこんになって振り回されている見ている側が気が抜ける側面ばかり見ていたため、つい忘れそうになっていた。――この<狼>にまつわる、大戦時代の伝説級の逸話の数々を。

(怖い――怖い怖い怖い――!絶対にこの人の逆鱗にだけは触れないようにしないと――!)

 かつての同胞セスナ・ラウンジールが、この男に牙をむいたという事実がとても信じられない。こんな男の怒りを積極的に買いに行こうとするなど、もはや正気の沙汰とは思えない。

 今回、黒狼という種族そのものへのおとがめはなく、あくまでセスナの単独行動だったという裁きになったことは、奇跡だった。――連帯責任として群れそのものをつぶすことになったとしても、この<狼>の力をもってすれば、たやすいことだろう。

(ハーティアさんには近づかない、ハーティアさんには近づかない、ハーティアさんには近づかない――!)

 ゴクリ、と生唾を飲み込んで何度も心の中で繰り返す。

 この最強の白狼の逆鱗に触れるような何かがあるとすれば、それは間違いなくあの年端もいかぬ美少女に関することだけだろう。

 空気を読むことに長けた青年は、すぐに自分の行動指針を心に刻み込む。――万が一、億が一にも、ハーティアに気がある素振りなど見せてはいけない。彼女を害すようなことをするのももってのほかだ。

(群れに帰ったら、すぐに全員に通達しよう……今後あの女性が群れを訪れるときは最高の賓客として出迎え、細心の注意を払って扱い、万が一にもグレイの不興を買うような何かをしでかすな、と……!)

 黒狼という種族そのものを潰されたくなければ、それは大げさでも何でもない対応策だろう。

「グレイ……治癒が終わったら、三戦目だ……!」

「ふむ。懲りないやつだな、お前も」

 言いながら、チラリ、とグレイはセオドアを見る。まだ冷ややかな光を宿したままの視線で射抜かれ、ビクゥッと哀れな黒狼の肩が大きく揺れた。

 なぜかはわからないが、グレイの不興を買ってしまった可能性がある。――いや、心当たりは一つだけある。

「ぐ……ぐぐぐグレイっ……ね、念のため言っておきますが、ぼ、僕はその、人のものに興味はないですっ……」

「――……ほう……?」

「まだ見ぬ運命の番との出逢いに心躍らせているくらいですっ…!自分の番でもない女性に、興味はありませんっ!まして――まして、自分より序列が上の<狼>の番にだなんて――!」

「……ふむ……」

 飛んでくる声は、穏やかだが冷ややかだ。

 ダラダラとセオドアの額から滝のような汗が噴き出す。

「ゆ、ゆゆゆ夕食の場では、大変失礼いたしましたっ……!でもあれは、ハーティアさんが、昼間の様子とだいぶ違ったので、驚いてしまっただけで――」

「驚いただけ、だと?――頬を染めて熱に浮かされたような瞳で見ていたようだったが?」

 ゾクリ……と肝を冷やす低い声が告げる。

(ヒィ――!)

 悲鳴はなんとか飲み込んで、セオドアは必死に言い訳を探す。

「いえ、あの、その、それはえぇと、さすがグレイが選ぶ番ですから、とても美しい女性ですし――」

「――――ほう…?」

「いやいやいやいやいや変な意味ではなく!!!!変な意味では、決してなく!!!」

 もう一段低くなった声に、必死に弁明をしていると――

「グレイ!」

「ヒィ――!」

 後ろから響いた声に、今度は飲み込むことが出来なかった悲鳴が喉を割る。

 今一番近づきたくない女性だ。彼女自身には何の罪もないが――視界に入れるだけで、どんなことが起きるか、想像もつかなくて恐ろしい。

「……ティア」

「な――何やってるの!?どうしてグレイとクロエさんがこんな――!」

 色を失ってこちらへと駆けてくる美少女は、薄い部屋着にカーディガンを羽織っただけの軽装だ。

(――あ。これはマジで視界に入れるだけで死ぬやつだ)

 空気を読む力に長けるセオドアはすぐにそれを悟り、ぐりんっと全力でハーティアがやってきた方角とは逆方向へと首をひねる。……嘘でもいいから、自分にはすでに心に決めた番がいる、とでも言っておけばよかった、と今更ながら後悔したがもう遅い。

「セオドア、戒を解け。――グレイ、三戦目だ」

「ちょっと!!?まだ全部終わってないんだけど!?」

 歯をむき出しにしながら言うクロエに、マシロの悲痛な声が響く。

「……いや。手合わせはここまでだ、クロエ」

「何――!?ふざけるな、貴様――逃げるのか!?」

「馬鹿を言うな。これ以上やったところで同じことの繰り返しだ。もうすぐ夜が明ける。私はともかく、お前たちは眠らねば効率が落ちるのだろう。さっさと寝ろ。明日の会議開始時間は変えんぞ」

 言いながら、グレイは徐ろに己のシャツを脱ぐと、ハーティアの肩へと羽織らせ、しっかりと前を閉じさせる。……やはり、他の男には見せたくないらしい。セオドアの判断は正しかったようだ。

「一晩くらい眠らずとも――!」

「お前のことなど心配していない」

「何だと!?ならば――」

「く、くくくクロエさん!ここは言うこと聞いておきましょう!?きっと、今のグレイには何を言っても聞かないと思います!」

 セオドアは戒を解くことなく声をかける。

「ふむ。よくわかっているようだな、セオドア」

「は、はは……僕、大家族の末っ子で、空気を読む力だけは死ぬほど鍛えられたんです……」

 乾いた声で言いながら、ハーティアを視界に入れないようにして嘆息する。

(グレイが戦闘をやめた本当の理由は、たぶん、ハーティアさんが来たからだ。……万が一にも、戦いに巻き込んだりしないように)

 夕食のときに見た、強い瑠璃色の瞳を思い返し、顔を顰める。グレイが番に、と望むような女だ。きっと、族長同士の争いを前にして、ただおろおろとしているばかりではないだろう。――大規模森林伐採も辞さない二人の戦闘に巻き込まれる可能性は、十分に高くなる。

「行くぞ、ティア」

「えっ、ちょ――待って、グレイ!結局、いったいどうして――」

 肩を抱かれて強引にその場を後にしようとするグレイに困惑した声を上げるが、グレイは取り合わなかった。歩みを進めると、遠くに避難させられていたらしいナツメが蒼い顔で駆け寄ってくるのとすれ違う。

「――心配をかけたな、ナツメ。死にはしない。安心しろ」

「っ――……!」

 一言も発せられない言葉の代わりに、揺れる翠の瞳が彼女の気持ちを物語っていた。

「ナツメさ――」

「お前はこっちだ。――私以外の男を見るな」

 すれ違ったナツメを追って後ろを振り返ろうとしたハーティアの視界にセオドアが映りこみそうになった途端、ぐいっと無理やり前を向かせる。

「えっ!?どういう――わっ!?」

 ふぉんっ……

 小さな悲鳴を残し、二人の姿が一瞬で掻き消えたのだった。

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