第22話
「……はぁ……」
誰もいない部屋に、重いため息が吸い込まれていく。
夜もだいぶ更けてきたはずなのに、こうして横になっていても全く眠気が訪れないのは、寝台が慣れないものだからか、月が明るすぎるせいか、胸に渦巻くもやもやのせいなのか。
ハーティアは寝返りを打って、母が施した刺繍の枕へと額をうずめる。
グレイと、少し気まずい別れ方をしてしまった。自分でも、自分の気持ちをしっかりと誤解なく伝えられたかどうか、自信がない。
「……嫉妬、なのかな…」
ぽつり、と小さな呟きが部屋に響いて消える。
グレイが時折ほのめかす「最初の、最愛」という女が誰なのかは知らないが、その存在をにおわせられると、胸のあたりがしくしくと痛むのだ。
もしかして、これが恋をしたら訪れるという、嫉妬と言う感情なのだろうか。……だとしたら、本当に、むなしい。
永遠に勝てるわけがない。――死んだ女には、永遠に。
「……やだな……」
ぎゅっと瞳を閉じて、母に甘えるように額をこすりつける。
今ならまだ、引き返せるだろうか。優しく穏やかな黄金の瞳をした、あの美しい<狼>の甘い誘惑から逃れることが出来るだろうか。
「……ドキドキは、するんだけどなぁ…」
何せ、間違いなく人生で出逢った中で一番顔面偏差値が高い男だ。そんな男が、長としては申し分ない人格者であることに加え、ハーティアに対して、寝ても覚めても砂を吐きたくなるような特大の愛を囁き続けてくれるのだ。愛が重すぎて時折背筋が寒くなることと、毎日何度も身体を求められることだけは辛くてたまらなかったが、それ以外に関しては――歯の浮くような口説き文句を、あの美しい男が当たり前のように熱っぽくささやく現実については、未だに夢なんじゃないかと思うときがある。
彼が、自分のどこにそんなに惚れてくれるのか、全く現実味がないのだ。
「……だから、かな……」
まだ、出逢って数週間という中で、あれほど雄としては完璧な要素を兼ね備えた男が、ハーティアを女として愛してくれるようになる理由が思い至らないのだ。
――彼の、かつて愛した女の生まれ変わりである、というその一点以外を除いて、何一つ。
「……はぁ……」
今夜何度目かわからない重たいため息をついて、もう一度ごろっと寝返りを打つ。
(贅沢者……)
家族を失い、村を失い、哀しみと憎しみに捕らわれたハーティアを、傍で見守って支えてくれたのはグレイだ。<狼>の陰謀に巻き込まれ、<夜>に無理やり番にされてしまったときも、彼が助けてくれた。あのまま、<夜>と死にたくても死ねない地獄を歩む羽目になっていたらと思うとぞっとする。それに比べれば、今、グレイと共に人生を穏やかに歩めているのは、本当に天国のような事態のはずだ。
それらはすべて、ただ「ラッキーだった」としか言いようがない。――たまたま自分が、グレイの想い人の生まれ変わりだった。そのラッキーがあったからこそ、彼は悲しみに沈むハーティアに寄り添ってくれたし、<夜>に捕らわれたときも必死に助け出してくれた。
――ハーティアを愛していたから、ではない。
「当たり前じゃん……初対面の私に、どうしてこんなに――って思ってたくらいなんだから……」
思い返せば、グレイは最初からずっとハーティアを特別扱いしてくれていた。『月の子』と呼び、時折熱っぽくも切ない瞳を向けて、ずっと寄り添ってくれた。
「……はぁ。考えるの、やめよう」
好きになってしまったら、きっと、辛くなる。グレイが、ずっと、自分を見ていないのだと――見知らぬ誰かだけが本当の意味での特別で、結局自分はその身代わりでしかないのだと突き付けられる現実は、きっと、辛くて辛くてたまらない。
かといって――彼がそれを忘れようとすることも、辛い。
<狼>種族を何よりも優先する彼が、唯一、その使命よりも、と我がままを通した存在だ。それほどの大切な人を、忘れろというのは忍びない。
それは、グレイ・アークリースと言う人格を構成する大事な要素だ。
『<狼>の長』でも『伝説の<狼>』でもない、なんでもないただ一人の<狼>――グレイ・アークリースという個人を構成する、大事な要素。
ただでさえ、自分を抑え込んで他者を優先してしまう男なのだ。千年の歴史の中で、ただこれだけは、と願ったその願いの元を断つようなことは、絶対にしたくない。
(もう寝よう)
瞳を閉じて、夢を見て――そうしたら、また、歩き出す。与えられた現実の中を、もがきながら。
『家族』と同じくらい大事な、大事な、大好きな<狼>と一緒に。
「――――……」
瑠璃色の瞳をゆっくりと閉じて、無理矢理頭から全ての考え事を締め出して――
メキメキメキメキッ……
「――――!?」
何やら不穏な音が窓の外から響いた――と思った次の瞬間、ズゥゥゥン……と重たい衝撃が部屋を揺らした。
「な――何――!?」
慌ててシーツを跳ね上げ、窓へと縋りつく。
雲一つない真夜中、外は昼間のように明るかった。
「――――え――!?」
ハーティアは目に飛び込んできた光景が信じられずに絶句する。
外にはなぜか、族長たちが勢ぞろいしていて、クロエとグレイが争っている。クロエは、遠めに見てもわかるくらいに衣服を鮮血に染めて、それでも果敢に何度もグレイへと挑んでいく。
見ていると、クロエが放った不可視の刃が、グレイを仕留めそこない、すぐ後ろの森林へと吸い込まれていった。一瞬遅れて、ズズゥゥゥン……と先ほどと似た重たい衝撃が部屋を揺らす。
おそらく先ほども、どこかの木が二人の争いに巻き込まれて倒れた音だったのだろう。見れば、比較的近くに巨木が倒れた形跡がある。幹は刃で切り倒されたのではなく、メキメキと何かに抉られたようになっている形跡が残っているのを見ると、どうやら先ほどの音の正体は、グレイの攻撃によるものだったらしい。
「な――何やってるの――!?」
ハーティアは慌てて上着をひっつかんで肩にかけ、部屋を飛び出した。――二人を争いを止めるために。
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