第20話

 マシロの就寝は早い。早寝の習慣こそが成長ホルモンの分泌を最も促すのだという説を聞いてから、とにかく早く寝るようにしている。――主に、全く成長してくれない胸部にホルモンが影響してくれることを心の底から期待しながら。

 だから、その日も当たり前のようにスヤスヤと夢の世界に旅立っていたのだが――

 ドンドンドン

「ひゃっ!?な、何何何!?」

 乱暴に叩かれた扉の不穏な響きに、一瞬で意識が覚醒する。

 慌てて体を起こして扉に向かえば、いつも人形のような顔しか見せない美女が、顔面を蒼白にして立っていた。美しい翠の瞳は、今にも泣きそうに歪んでいる。

「な、ナツメ……!?どうし――わっ!」

 脆弱な人間でありながら、いつも凛とした強さを見せる美女の初めて見る弱気な姿に驚いたのもつかの間、すぐにナツメはマシロの手を取り走り出す。

「ちょっ……何よ、何がどうなって――」

 手を引かれながら走る廊下には、壁に取り付けられたいくつかの大きな窓から眩い黄金の月光が差し込んでいる。今日は満月だ。雲一つない夜空から差し込む光は、氷のように冴え冴えとして冷たい。

(ナツメが誰とも喋らないのは知ってるけど――こういう時、すごく不便よね…)

 必死に手を引いて走る背中は、何も答えてくれない。どうやら緊急事態らしい、というのはわかるが、これではマシロの優秀な頭脳を生かすことすらできない。

(でも、ナツメが焦るってことは、クロくん関係よね、絶対。でも、クロくんの身に何かが起こるような事態があったなら、普通、グレイを頼るでしょ。なのにあたしを呼びに来るって、一体何が――)

 数少ない情報から予想を立てつつ、ふと何気なく窓の外を見て――

「――――!!?」

 思わず足を止めてナツメの手を振りほどき、窓に齧りつく。ナツメも驚いて足を止めて振り返った。

「な――何あれ!?あの人たち、何してんの!!?」

 窓の外――キラキラと月光をはじき返す千年樹の泉のほとりの開けた場所で、土煙を上げながら、二人の<狼>たちが何度も交差し、激しい戦闘を繰り返している。

「ちょ――本気!?本気よね、あれ!?」

 口をパクパクさせながらナツメを振り返る。

 いつも優しく穏やかなグレイが戦闘時にしか見せない冷酷な瞳をしている。いつも無感動で不機嫌そうな三白眼のクロエが、好敵手を前にしたときにしか見せない爛々と輝く瞳をしている。

 月明りがまぶしいおかげで、外は昼のように明るい。よく見れば、クロエの身体のいたるところから出血が認められた。中には尋常ではない出血もあるようだが、爛々と輝く瞳は、そんなことなど気にしたそぶりもない。――痛覚がないのだから、当たり前だろう。怪我を負っていることにすら気づいていないかもしれない。

(なるほど、あたしが呼ばれた理由はこれ――!)

 さぁっと頭から血の気が引く。――あの出血をそのままにしておくのは確かにヤバい。

 何がヤバいと言うと、その傷からの出血そのものはもちろんだが――その傷すら無視して突っ込んで行くせいで、新たな傷を無数につけられているのだ。彼の突進の数に比例して、通常では考えられない速度で致命傷が増えていく。

 慌てて再び廊下を駆けだそうとした、その時。

 バンッ!

「――っ!ま、マシロさん!!そ、外の二人、あれ、何ですか!?尋常じゃない血臭がするんですけど!?」

 廊下の先から、見覚えのある黒狼がオロオロと飛び出してきた。マシロには感知しえないが、通常の<狼>であれば顔を顰めるほどの血臭がしていたのだろう。いぶかしんで部屋の窓を覗き、二人の戦闘を見て、慌てて飛び出してきたに違いない。

「セオドア!あんたも来て!――たぶん、クロくん止められるの、あんたしかいないから!」

「えっ、えぇっっ!!?ぼ、僕がですか!!!?」

 駆け抜けざまにマシロに手を引かれて転びそうになりながら、必死に足を動かして混乱しながら聞き返す。

「そうよ!――っ……ドクターストップかけたところで、あの戦闘狂が、自分より強いグレイと戦える最高の戦闘を自分から止めるわけないでしょ!!あたしが合図したら、アンタの戒で無理やり止めて!」

「わっ――わかりました!!」

 クロエを止められるのが自分だけ、という意味を正しく理解し、セオドアの表情がキリリと引き締まる。

(どうせ、クロくんじゃグレイに叶わない――グレイのことだから、あたしが到着するまで多少の手心を加えて本当の致命傷になるような攻撃はしないでいてくれると思うけど……でも、そもそも、あんなにのらりくらりと躱していた手合わせを受ける気になった時点で、グレイも正気じゃない――!)

 ごくり、と嫌なつばを飲み込んで、マシロは一直線に外へと続く扉を目指した。

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