第19話

 ふぉんっ……と転移した先の部屋の住人は、すでに寝静まっていたようだ。

「――――……?」

 ピクリ、と布団の中が軽く身じろぎするのは、部屋に来訪者があったことに気づいたからだろう。さすが、野生の勘が誰より優れている男だ。

 しかし、彼は誰よりも睡眠を貪る男でもある。突如現れた来訪者がグレイだと気づくと、軽く怪訝な気配を醸し出したものの、敵意があるわけでもないその存在を気に留めるはずもなく、すぐにもう一度眠りの世界へ旅立とうとした。

「――起きろ」

 バサッ

「――――!」

 不機嫌そうな低い声と共に、シーツをめくられ、バッと男――クロエが、身体を起こし、とっさにシーツをひっつかんだ。――隣で寄り添うようにして眠っていたらしき女の肌が、この黄金の瞳に入らぬよう、ガッと強い力で布を抑える。

 見れば、シーツを抑えたクロエ自身も裸だった。どうやら今日も例にもれず、することをしてから就寝していたらしい。チラリと寝台の周囲に目をやれば、男女二人分の衣服が床に散らされている。

「――何の用だ。今何時だと思っている」

 グルルル……と唸り声を響かせかねない形相でクロエが低く呻く。愛しい番の肌を、自分以外の男の視線にさらすなど耐えられない、と全身から本気の殺気を周囲に振りまいていた。

 隣で、もぞ、とシーツの中身が動き、癖一つない漆黒の頭が覗いた。

「起きるな、ナツメ。布団を頭までかぶっていろ」

 鋭い声音で身を起こそうとしたナツメを制し、ぐっとシーツを頭まで被せて押さえつける。

「ふむ。私に殺気を振りまくとはいい度胸だ」

「貴様……ふざけているのか……!?」

 ギリリリッとクロエが犬歯をむき出しにして怒りを露わにする。

 グレイとクロエの間には、追いつくことのできない実力差があることはわかっているが――それでも、立ち向かわねばならぬ事態、というのはある。

 たとえ立ち向かった先で八つ裂きにされるとわかっていても――愛しい番に関わることは、決して譲れない。

「ちょうどいい。――手合わせをしてやる。表へ出ろ」

「――――……何……?」

 クロエの三白眼がこれ以上なく怪訝に歪められる。グレイは冷ややかな視線でそれを受け止めた。

「お前が死ぬ前にもう一度手合わせをしてやる、という話だったろう」

「――どういう風の吹き回しだ……?」

 『申し子』であるクロエには痛覚がない。戦闘狂である彼が強者たるグレイに挑むとき、それは加減を知らぬ突進を生む。灰狼の現族長として貴重な人材でもあるクロエを、くだらない私闘で失うわけにはいかない。最初の一回は、序列を明らかにするために手合わせを受けてやったが、それ以降何度クロエに請われようともグレイは決してその申し出を受けることはなかった。

 百年以上のらりくらりとかわされ続けてきたくせに、今夜、なんの前触れもなく、グレイが自ら、手合わせをすると申し出たのだ。訝しむなと言う方が無理がある。

「今夜は、月が綺麗だ。こんな夜に部屋に閉じこもることもあるまい」

「――――……意味が分からん……」

 ぎゅっとクロエの眉間にしわが寄る。

 いきなり深夜に訪れたグレイの冷え冷えとしたその黄金の光は見覚えがある。――彼が、戦闘モードになっているときの、瞳。

 何でもない様子を装って、普通に会話しているように見せているが、彼から漂う空気はピリピリと張りつめ、何やら酷く不機嫌であることはすぐにわかった。

 クロエは少し頭を巡らした後、これ見よがしに大きくため息をついて、床に散らばった服を拾い集める。

「まったく……犬も食わんと言っただろう……」

 ぼそり、と呟く声には疲労感がにじんでいる。

 いつでも冷静で、<狼>種族の長としての振る舞いを決して崩さぬグレイが、個人の感情に支配されて不機嫌を露わにする要因があるとすれば、それはあの黄金の髪をした少女に関することだけだ。

「……八つ当たりされる身にもなれ」

「ふむ。気が乗らぬなら、無理強いはせん。――次に私の気が向くのがいつになるかは知らんが」

 口の中でぼやきながら服を身に着けるクロエに、冷淡な瞳のまま告げる。

 その言葉を聞いたクロエは、フッ……と吐息を漏らしてグレイを振り返った。

「――まさか。このまま、お前は約束をすっぽかすつもりだと思っていた。こんな好機を逃す手はない」

 漆黒の眼がきらりと嬉しそうな光を宿す。爛々と輝くそれは、戦闘狂と綽名されるクロエが、好敵手を前にしたときの愉悦の光だ。

「そうか。……では、ナツメ。我々が移動したら、マシロを叩き起こして連れてこい」

 ぴくっ……と頭までシーツに覆い隠された塊が微かに肩を揺らした。

「この馬鹿は、己の痛覚がないことをいいことに、加減を知らぬ戦いしかせん。手足の二つや三つは吹き飛ぶだろう。お前が、こいつを死なせたくないと思うなら――曲がりなりにも、この男を愛しているというならば」

 最後の一言には、ぞっと肝を冷やすような仄暗い感情が宿っていた。ナツメが静かに息を飲む音が響く。 

 恐怖を感じただろう番の反応に、クロエが敏感に反応し、犬歯をむき出しにした。

「……自分が番に思うように愛されないからと言って、ナツメに当たるな。羨ましいと思うなら、お前も俺のようにすればいい」

「……それが出来れば苦労はせん」

 言いながら、グレイは冷ややかな瞳で右手に力を入れる。

「行くぞ」

 ゴキッ……ふぉんっ

 いつもの合図とともに二人の男の気配が掻き消える。

「っ――――!」

 バサッとシーツをはねのけ、ナツメは急いで衣服を身に着けると、今は眠りの世界に旅立っているであろう赤狼の少女の部屋へと駆け出して行った。

 

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