第18話
しん……と静寂に沈む部屋で、しばし何もすることが出来ず独り立ちすくむ。窓から差し込む月光が、キラキラと輝いて部屋を明るく照らしていた。
「…………」
グレイはゆっくりとハーティアに言われた言葉を胸中で反芻し、ぐっと拳を握り締めた。
「……駄目だな。冷静になれない」
ふるっ……と頭を振り、寝台へと腰掛け、うなだれるようにして脚の間で組んだ手へと額を押し付ける。
(図星を刺されて、動揺したか?……ふ……最低な男だな)
浮かんでくるのは、自嘲の言葉のみだった。
どこか傷ついたような表情で言葉を重ねるハーティアに、何も言い返せなかった。――何一つ、言葉を返せなかった。
もともと、ハーティアにティア・ルナートの話をするつもりはなかった。どこを探したところで、もうティアはこの世にいない存在だ。千年前に、命を散らした存在なのだから。――その瞬間を、すぐ隣で見守った。今でも、あの日の胸の痛みは、昨日のことのように思い出せる。
今を生きるハーティアに、彼女の存在について話をしたところで、何もならない。古の盟友の生まれ変わりたちと出逢ったとしても何一つ語らないのと同じだ。本人たちに、過去の記憶はなく、当時の話をしたところで混乱するだけだろう。彼らにとっては、まぎれもなく見知らぬ他人の話でしかないのだから。
話をしないだけではない。今までは、そもそも、その存在を匂わせることすらなかった。その証拠に、クロエとて、千年前に灰狼の族長をしていた彼の先祖クロード・ディールという男の存在など何一つ知らない。
ハーティアも、出逢った頃は同じだった。彼女が、グレイにとって唯一無二の番にと望んだティア・ルナートの生まれ変わりであることなど、知らせるつもりもなければ匂わせるつもりもなかった。
生まれ変わりと出逢ったときは、時折ふと見せる仕草やこぼした台詞に、懐かしさを覚えて心を緩ませる――それだけだった。それだけで、よかった。
だが、指摘されてみれば、ハーティアを番にしてからは、その自制は出来ていなかったと言わざるを得ない。愛しさが溢れ、何一つ理性で行動を制限できなかった。
彼女に愛を囁くとき、どれも心の底からの言葉だったのは偽りがないが――ハーティアに向けて告げていたのか、もうここにはいないティア・ルナートに向けて囁いていたのかと言われれば、自信がない。
(情けない……)
脳裏に、少女の言葉が蘇る。
『グレイにとって、特別なのはその人だけっていうのは、わかってる。その気持ちを大事にしてほしいって本心で思ってる。……消そうと思って消せる気持でも、忘れられる思い出でもないでしょう?』
戸惑って、どう言葉にしていいかわからないと困惑しながら、それでも優しさを兼ね備えた凛とした声で、誠実に気持ちを伝えてくれた。そこに偽りがないと示すように、まっすぐにグレイを見て。
そして、その言葉を聞いて――ほっと、したのだ。
「マシロに聞かれたら、また『サイテー』と罵られるのだろうな」
フッ……と力のない自嘲の吐息が漏れる。
ハーティアの主張は、理解できる。記憶の継承がない以上、ハーティアにとって、ティアはどこまで行っても知らない”誰か”でしかない。いわば、グレイの『過去の女』という認識に近いのだろう。
いつまでも『過去の女』を忘れることが出来ないでいる――それどころか、彼女の生前に昇華できなかった想いを、今、ハーティアを身代わりにすることで昇華しているのだと思っているはずだ。
そして、そう思っていてもなお――それでいい、と言ってくれた。
グレイの心の中に、"ティア"という存在が深く根を張り、その美しい記憶に永遠にグレイが縋りつくことを、ハーティアは許すと告げたのだ。
ふざけるな、と言って頬を張られても文句を言えない状況だったろう。永遠に終わることのない地獄の底に引きずり込んでおいて、どういうつもりだと罵られてもおかしくはない。
もう二度と、その女を思い出すなと――ハーティアの向こうに彼女との記憶を見ることは許さないと、激怒されてしかるべきだが、彼女はそれを許した。
許されて――ほっとした自分がいたのだ。
例え、どんなに愛しい番の願いだとしても――それだけは、どうしても、約束することは出来ない。
「どこまで寛大な――いや。愛していないからこそ、か……」
笑い飛ばそうとしたが、表情筋は思った様に仕事をしてくれない。中途半端な吐息が漏れただけだった。
きっと、グレイには出来ない。――もしも、ハーティアに『過去の男』がいたとして、それが彼女の心に根を張り続けることなど、絶対に、許せはしない。
ハーティアには信じてもらえないかもしれないが――グレイは、確かにハーティアを、ハーティアと言う人物そのものを、心から愛しているのだ。
「同一人物だと思っている……と言っても、理解はしてもらえぬだろうな……」
肺の中の空気をすべて吐き出し、重たいため息が部屋に響いた。
グレイの中で、ティア・ルナートの魂を持った生まれ変わりは全て、同一人物であるという認識に近しい。いうなれば、定期的に記憶喪失になり若返る肉体を持っているだけで、この千年間、最初に愛した少女の時間が今まで続いていると思っていると言っても過言ではない。
心から愛した女が、記憶喪失になったとしても、記憶がないからそれは別人だ、と言って愛がなくなるわけではない。声も、顔も、性格も、何もかもがそのままなのだ。ただ共有する記憶がないだけで、どんな瞬間、どこを切り取っても、最初に愛した女と何一つ変わらないその存在を、別人だと思う方が難しい。
ティア・ルナートの影をハーティアに透かして見ることがあるのは否定しない。――それをするなと言われても、無理だろう。
だが――二人を別人だと思っているわけではない。ティアはハーティアであり、ハーティアはティアなのだ。どちらの方が好きだとか愛しているだとか、そんな比較は意味がない。――どちらも同一人物であり、どちらも同じだけ深く愛している。
ただ、グレイが持つ想い出を共有できない――それだけだ。
「だが……理解してもらえる気がしないな……」
苦笑と共に額に手を当てて呻く。
何を言ったところで、ハーティアにとっては別人にしか思えない、という気持ち自体はわかるのだ。仮に自分も誰かの生まれ変わりだったとして、その誰かとお前は同一人物だと言われても、それを理解するのは難しいだろう。
だからこそ、ティアの想い出を手放せと言われることを覚悟したが、ハーティアはそれを許すという。その寛大な心はありがたいが、それこそがグレイを愛していない証拠に思えて、苦い気持ちが広がっていく。
「……このまま……『家族』とやらになれば、いいのか……?」
ハーティアに伴侶としての愛を求めるならば、ティアの面影を追うことは彼女に不誠実だということはさすがに女心に疎いグレイにもわかる。自分がそれをされたら所かまわず暴れたくなるという点で。
だが、思い出を忘れることは出来ないのだ。ならば――ハーティアに伴侶としての愛を求めることをやめろ、というのが、彼女の主張だろう。別の女の影を追いながら愛を囁く男を愛すことはないのだから、さっさとあきらめろ、と言っているのだ。
とても理にかなっている。何一つ間違った論の展開ではない。
痛いほどに理解できるのだが――
『だから、もう、それを、期待しないでほしいの。私は――私を、"ハーティア・ルナン"を見て、愛してくれる人にしか、心も身体も許せない』
脳裏に愛しい声が蘇り、ざわっ……と全身の毛が逆立つ。
もしも、グレイがハーティアから伴侶としての愛を得ることを諦め、『家族』という立ち位置で満足したとして――
将来、他の誰かが、彼女を――”ハーティア・ルナン”を見て愛す男が現れたとしたら――
――――彼女は、その男を、伴侶にするようにして愛し、身も心も許すのだろうか?
「っ――――!」
一瞬、どす黒く醜い感情が胸の奥底から噴き出し、凶悪な破壊衝動がこみ上げる。
(許せない――許せない許せない許せない許せない――!)
衝動的に、指を鳴らしてハーティアの部屋へと転移しそうになるのを最後の理性でとどまる。指を鳴らそうとした右手を左手で抑え込み、ギリッ……と奥歯を噛みしめた。
今すぐハーティアの細い身体を組み敷いて、その美しい黄金の髪の一筋、睫毛の一本一本まで、ハーティアを構成する全てが自分の物なのだと主張し、彼女の心と身体にその意識が刻み込まれるまで滅茶苦茶に犯したい。自分と同じ匂いが香る首筋に鼻を寄せて、呪いのような言葉を吐いて、永遠に誰の目にも触れないように閉じ込めて、物理的にも精神的にも自分だけのものにしてしまいたい。
「っ……落ち着けっ……」
麻薬が切れた中毒患者のように、愛しい番の匂いを欲する本能を無理やり抑え込む。
今、転移をしてしまったら――きっと、第二のナツメが誕生するだけだ。
こんな凶悪な衝動を抱えたままにあの理性を狂わす愛しい匂いを嗅いでしまえば、もはや何者もグレイを制止することなど出来はしない。理性も良心も罪悪感も、何もかも全てが銀河の彼方に吹っ飛んでいくだろう。
「ティアの笑顔がっ……何より、失えない、一番のはずだろう……!」
自分で自分に言い聞かせ、理性の糸を必死で手繰り寄せる。
花が綻ぶ様に、幸せそうに笑う少女なのだ。千年前、生涯番うことが出来ないと悟った時も、その笑顔をただ守りたくて、失うことが耐えられなくて、永遠に傍で見ていたくて、たくさんの者を振り回し、無理矢理にこの森へと引き込んだ。
生涯絶えることのない幸いを贈る、と約束したのだ。
虚ろな顔でグレイに従う人形を作りたいわけではない。さめざめと泣かせたいわけでもない。
自分の後ろに自分以外の誰かを見ている、と――あんな風に、哀しそうな顔をさせたいわけでも、ないのだ。
「っ……」
彼女を彼女として愛す者など、これからいくらでも出てくるだろう。グレイだけが特殊なのだ。これから彼女が出逢う人物はすべて、ハーティアの生まれる前の魂のことなど知る由もない。
彼女は、とにかく美しい。美形揃いと言われる白狼でもなかなかいない、というほど整った外見はもちろん、脆弱な『人間』だったころから変わらぬ凛とした強い瞳は、見る者すべてを魅了する。
(そういえば、セオドアも――)
夕食のときに、ハーティアのまっすぐな瑠璃色の瞳に見据えられ、頬を紅潮させていた。あのように、ハーティアに心惹かれる男は、これから無数に出てくるだろう。
セオドアも、混乱の極みとなった黒狼の一族の中から、族長に選ばれた男だ。世襲に捕らわれなくなった初めての族長なのだから、間違いなく歴代の中でも目を見張るほどの優秀な男だろう。年若く、グレイなどよりよほど、物事の感覚はハーティアに近い。素直で優し気な紫水晶の瞳をした、場の空気を読むのに長けたあの青年ならば、ハーティアを幸せにすることも――
「っ――――!」
(この想像はだめだ――次にセオドアの顔を見た瞬間に八つ裂きにしたくなる――!)
転移先をセオドアの部屋へと変更しそうになった右手を必死で留める。想像しただけで問答無用で殺したい。
グレイに残された道は二つだ。
ハーティアの愛を得ることを諦め、『家族』として寄り添い、彼女が他者を愛し幸せになっていくのを血反吐を吐く思いで見届けるか。
かつてクロエがナツメにしたように、ハーティアを”ティア”として生きさせ、虚ろな人形のようにして誰の目に見ても狂った愛を――ただ、二人の間だけでは甘美な愛を――得るか。
「っ…………」
究極の選択を前に、グレイはギリリと歯を食いしばり――やがて、一つ指を鳴らし、部屋から姿を消す。
白銀の<狼>が消えた部屋にはただ、静かな眩い黄金の光だけが、窓から差し込んでいるだけだった――
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