第17話

 ガバッ

 衝撃の発言に驚き、思わずグレイは一瞬で人型へと戻る。目の前から柔らかな毛並みが消えて、ハーティアは驚いて息を飲んだ。

「――――」

 何かを言おうとしているのだろう。グレイの唇が微かに開き、しかし言葉を選べず、再び閉ざされる。普段から陶器よりも白い透明な肌が、さらに色を失っている。

「……ごめん……」

 ぽつり、とハーティアは痛ましそうな顔を向けて一言、なんとか声を絞り出す。

「私……やっぱり……グレイと同じ気持ちには、なれない……」

「ティ――」

「グレイのことは大好きだけど――ごめん」

 絞り出すように言った後、するり、と寝台から抜け出す。

「待っ――ティア!」

 何とか我に返ったグレイは、そのまま出口へと向かおうとしたハーティアの手を掴んで引き留める。

「待て……っ……急に、言われても、理解が出来ない。何が――」

「ごめん……私も、うまく言葉に出来ないんだけど――」

 ふるっ……と額に手を当てて、混乱する頭を振って考えを整理しようとするも、どうもうまく伝える術がわからない。

「でも、わかったの。きっと、これから、何がどんなふうに変わっても――私、グレイを、恋愛対象として好きにはなれないと思う」

「な――――」

 ぐっとグレイがつかんでいる手首に力が込められた。

「何故いきなりそんなことを言い出す……?私が何か、気に障ることを言ったか」

「――――そ、れは……」

「謝る。――だから、そう性急に決めつけるな」

 ぎゅっとグレイの眉根が寄って、痛ましげな表情へと変わる。

「お前とは、永遠を歩むのだ。これから先、どれだけの年月があるか、わかるか」

「――――……」

「頼む。――これから先、その果てのない期間、絶望の中を歩みたくはない。……愛する番に拒絶されるというのは、我ら<狼>にとって、何物にも耐えがたい苦しみだ」

 まるで縋るように握られた大きな手が、熱い。

「……拒絶、じゃないよ。家族にはなれると思う。ずっと、一緒に生きていきたい、っていう気持ちは、今も変わってない。貴方を独り置いて死ぬことは出来ない。――番になったことを後悔はしてない」

「ならば何故――」

「でも、心まではあげられない。――私は、好きになってしまった人には、私と同じ気持ちを返してほしいって思ってしまうから」

「――――……」

 ぱちり、とグレイの黄金の瞳が幾度か瞬く。言われた言葉の意味が理解できなかったのだろう。

 ハーティアは苦しそうに顔を歪めてうつむいた。自分でも、うまく言葉に出来ない。

「……どういうことだ?私の愛は伝わっていないのか?――こんなに、狂おしいほどに愛しているのに」

「っ……」

 捕まれていた手を緩く引かれ、そっと胸の中に閉じ込められる。激情に任せて乱暴に抱きしめたいのを堪え、ハーティアを怖がらせないように、必死に自制しながら抱きしめてくれただろうことが引き入れられた胸の熱さでわかり、彼の優しさにぎゅっと胸の端が痛んだ。

「グレイが愛してるのは――私じゃ、ないでしょ……」

 そっと男らしく逞しい胸を押し返し、身体を離して呟くように告げる。

 キリキリと胸が絶え間なく痛みを発していた。

「……ティア……?何を――」

 震える声で弱弱しく告げられた言葉の意味が本気でわからず、グレイは困惑した声を上げる。

 すぅっ――と一つ肺の中に空気を吸い込み、ハーティアはぐっと気持ちを固めてグレイを見上げた。

「グレイが愛しているのは、千年前の、女の人。――貴方が『最初の最愛』と呼んだ、その人だけだもの」

「――――――――」

 ひゅ――

 グレイが息を飲み、表情が固まる。

 部屋に、沈黙が流れた。

「……グレイはいつも、私の向こうに、別の女の人を見てる。愛しそうに、切なそうに、ずっとずっと、過去の面影を追いかけている」

「――――……」

「グレイが、生涯で唯一番にしたいと思った――<狼>種族と天秤にかけても譲れなかった、女の人。グレイはその人を投影して、私を見てる。その人にしてあげたかったことを、その人に伝えたかったことを、今私を相手になぞってるだけ。私を――ハーティア・ルナンを愛してるわけじゃない」

 言いながら、そっと身体を離す。

 ――今度は、引き留められることはなかった。

「マシロさんの言ったことが本当なら、私の匂いが変わるのは、私がグレイに心も身体も許していい、って思ったときなんだよね。――だったら、きっと、それは無理だと思う。……私は、ナツメさんと違って、『ハーティア・ルナン』として生きた日々を、捨てることが出来ないから」

「――――!」

 ハッ……とグレイの目が見開かれる。

 過去、すでに死んでしまった女の影を投影して番を溺愛する様がクロエと同じだと指摘されたのだ。そしてそれは、的確にグレイの胸を抉った。

 クロエは、それを問題と思っていない。ミズキという名を持つ女の自我を殺して「ナツメ」として生きることを強要し、彼女が息をするようにそれが自然にできるまで監禁して洗脳した。彼女は今や、百五十年前、二十歳という若さで命を散らしたナツメ・シグファリードの続きの生を無理やり生かされていると言っても過言ではない。クロエが、ミズキが二十歳になった途端に攫って無理やり番にした上に監禁したのは、そういう背景だろう。

 同じようにすれば、きっとハーティアも、同様にグレイを愛するようになるかもしれない。――もはやこの世のどこにも存在しない、ティア・ルナートとして、生きるようになるのかもしれない。

 ――虚ろな表情をして、グレイが望んだ反応をグレイが望んだとおりに返す、人形のようなティア・ルナートの完成だ。

「私は、ハーティア・ルナンだよ。グレイが守っていた北の<月飼い>の集落で生まれたの。弓はお父さんが下手くそだったから、叔父さんに習って上手になった。お父さんのことは尊敬しているし大好きだけど、どんなに考えてもお父さんを男の人として好きになる要素なんてピンと来ない。だって、お父さんだもん」

「…………」

「<狼>さんの獣型が怖くないのは、グレイと初めて逢ったのが人型の方で、意思疎通ができるってわかってるから。ルヴィっていう猟犬が一番の親友で、大好きだったから、そもそもイヌが好きなのもある。グレイと初めて逢ったのはつい数週間前で、それまでは<狼>さんは私たち<月飼い>を憎んでいる怖い生き物なんだって教えられて生きてきた。――獣型のグレイが瀕死の重体で狂暴化してたら、さすがに無視はできないと思うけど、何も考えずに手を差し伸べることは出来なかったと思う。きっと、私はすぐにお父さんを呼びに行ったと思うよ。……私に、そんな記憶はないけれど」

 ハーティアは、困った顔で笑みを浮かべた。

 哀しい、哀しい、笑みだった。

「グレイが、今まで孤独で辛い生涯を生きてきたのは知ってる。それを、かつて愛した女の人の魂を見守って、思い出を懐かしんで、その魂が引き継がれていくことを心の支えにしていたのもわかる。だから、私は――グレイに、その思い出を大事にしてほしいの」

 眩い月明かりが、部屋に差し込む。――少女と同じ、黄金の光が。

「グレイにとって、特別なのはその人だけっていうのは、わかってる。その気持ちを大事にしてほしいって本心で思ってる。……消そうと思って消せる気持でも、忘れられる思い出でもないでしょう?」

「……」

「私の向こうに、その人を見てもいいの。思い出してくれても、いいの。グレイが苦しいとき、辛いとき、そうして生きてきたことを知っているから。……でも、私は、貴方が見ているその『誰か』として、貴方がくれる愛と同じ気持ちで、愛を返すことは出来ない。だから、もう、それを、期待しないでほしいの。私は――私を、"ハーティア・ルナン"を見て、愛してくれる人にしか、心も身体も許せない」

 言い切った後、瑠璃の瞳が、そっと伏せられた。

「ごめんね。……ごめん。きっと私は、グレイを、男性として好きになってしまったら、辛くなる。ずっと――ずっと、グレイの心は永遠に手に入らないことを、知ってるから」

「――――――」

「だから――だから、家族でいよう。大好きだよ、グレイ。家族として、ずっと、永遠に、傍にいるから」

 ふわり、とハーティアは笑みを作る。

 眩い月光に照らされたその笑みは――涙をこらえるような、笑みだった。

「だからやっぱり、部屋に帰るね。――おやすみ、グレイ」

 精一杯の笑顔を作ったまま、ハーティアはくるりと踵を返し、部屋を出る。

 グレイは何一つ言葉を発することが出来ぬまま、じっと部屋に佇むことしかできなかった―― 

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