第14話

 ふぉんっ……

「ひゃ――!」

 急に体を包む浮遊感と、すぐに始まる落下の気持ち悪さに、喉の奥で悲鳴を漏らす。

 この二週間で、グレイに抱き締められるような体勢のままで色々なところに連れまわされたおかげで、転移による移動自体にはだいぶ慣れたが、彼の腕に無理やり縋りついて一緒に転移したのは初めてだ。転移先の空中に急にふわりと投げ出される恐怖に、いつもの安心感は、グレイがしっかりとハーティアを抱きしめてくれていたからだったのだと悟る。

「ティア……!」

 小さな悲鳴を聞いて焦った声が響き、逞しい腕がすぐに伸びてきて、宙に放り出されそうになった身体をしっかりと抱き留めてくれる。

「ご、ごめん――」

「何故……」

 一瞬、シュサに連れられて無理やり何度も転移させられた時のことがよぎって、恐怖でドキドキとうるさい心臓をなだめながら青ざめた顔で謝るも、グレイは困惑した表情でハーティアを見下ろした。

「グレイが、私の話も聞かずに、どっかに行こうとするから」

「だが――」

「前も言ったでしょ?……グレイは、女心なんてわからないんだし、私のこと、よく知らないじゃない」

「何……?」

「私のことを、勝手にあなたが決めないで。――勝手に決めて、勝手に不幸にしないで」

 ふぅ、と一つため息をつくと、やっと転移の恐怖による心臓の動悸が収まったようだった。落ち着いて見渡せば、転移してきた先は、どうやら昔一晩だけ眠らせてもらったグレイの部屋らしい。

 じわりといつの間にか額ににじんでいた汗に張り付いた黄金の髪を鬱陶しそうにかき分け、ハーティアはもう一つ深呼吸をして気持ちを切り替えると、グレイの瞳をまっすぐに見上げた。

「ちゃんと、話をしよう?――一緒に、生きていくんだから」

「…………」

「私だけが我慢するのも、グレイだけが我慢するのも、おかしいの。一緒に、二人で、生きていくんだもの。ちゃんと、話し合って、お互いを理解することを諦めないようにしよう?」

 言いながら、ハーティアはそっとグレイの手を取り、ぎゅっと握った。

「さっきは、ごめんね。私は、私の思い込みで、グレイの気持ちを決めつけてた。お父さんに嫉妬するなんておかしいって決めつけて、ちゃんと向き合って話を出来なくてごめん」

「いや――」

「私にとって、お父さんはやっぱりお父さんでしかなくて、やっぱり変な気はするけど――でも、グレイが気になるなら、ちゃんと考えて、話すよ。なんだっけ。……えっと、お父さんの、どんなところが好きか、だっけ?」

 クスっと笑う表情は、転移の恐怖で青ざめた気配が微かにあるものの、いつものハーティアだった。グレイの黄金の瞳が困惑したように二、三度瞬かれる。

 ハーティアはグレイに微笑んだまま、その手を引いて傍にあったベッドに腰掛ける。以前ここで眠った時に指を一つ鳴らすだけであっさり取り外された柵はあれからずっとそのままにされているのか、酷くさっぱりしたベッドだ。そう言えば、グレイはそもそも殆ど眠らないと言っていたことを思い出す。ベッドを使うこともほとんどないのだろう。めったに使われることのないその寝台を、わざわざ元に戻す必要もないと思っていたのかもしれない。

 つい先ほど、ベッドに無理やり押し倒されて泣きそうな顔になっていたハーティアを思い出し、一瞬グレイは軽く抵抗を示したが、笑顔のままハーティアが座り、手を引いて促されると、視線をさまよわせて苦い顔をした。少し黙った後、視線を合わせることなく、促されたままに隣へと腰を掛ける。

 隣がその重みで沈むのを待ってから、ハーティアは考えながら口を開いた。

「えっと……お父さんって、村長だったの」

「知っている」

「過去、色々な村長がいたらしいんだけど――お父さんは、すごく、村の皆に好かれる人だった。癖なんだ、って言いながら、誰に大しても丁寧な言葉づかいで話すの。村の子供にも”さん”付けで――呼び捨てで気安く話すのは、家族だけなの」

「――……知っている」

「でも、別に他人行儀ってわけじゃなくて――とっても温かいの。優しくて、村の皆のことを、本当に愛して、慈しんでるの」

「…………」

「決して器用な人じゃなかったと思うけど、愛情深くて、優しい人だった。そして、いつも村と村人のことを考えてる人だった。でも、家に帰ってきたら、家族のことを一番に愛してくれた。お母さんも私も、ルヴィにも、毎日たっぷりの愛情を注いでもらったの」

「……あぁ」

「なんだろう……他の男の人と比べて、とかはよくわからないけど――一緒にいて、心地がいいのかな。それはお父さんだから、だと思ってたけど、グレイの話だと、もしかして血の繋がりなんて関係なく、千年間、お父さんの魂と出逢うと、私はいつもそう思ってたのかな」

「…………」

 きゅっとグレイの眉が寄り、目が微かに眇められる。ハーティアは苦笑して、握っていたグレイの手を離し、そっとその上に重ねた。

「グレイは、お父さんのこと嫌いかもしれないけれど――私にとっては、すごく大事な家族なの」

「……嫌いなわけじゃない」

「嘘。さっき、憎くてたまらないって――」

「憎い。……が、嫌いなわけではない」

 ぽつり、と低い声が苦々しく響く。

「あの男が――カズラの魂を持つあの男が、誰にも優しいお人よしで、争いごとを嫌う穏やかな性格で、どんな生でも一人の妻を大切にする愛妻家で生涯家族を深く愛し、長になれば村人に慕われていたことはよく知っている」

「……うん」

「<月飼い>の代表者としても申し分ない。しっかりと責務を果たし、後世へと襷をつないでくれた。人として嫌いなわけではない。長として、男として、優れた人間だと思う」

「うん」

「――だから、憎い」

 ぽつり……

 グレイの声が、静かに響いた。

「いっそ、どうしようもない男なら、よかった。妻以外の女にうつつを抜かしたり、長としての責務を任せられぬような男であれば、よかった。そうすれば――私は、ティアに、『そんな男はやめておけ』と言うことが出来たのに」

「――――……」

「どの生でも、お前はいつも、あの男の隣で笑っていた。その場所が酷く居心地が良いと証明するように、心から、幸せそうに笑っていた。何度生まれ変わっても、必ずあの男の隣で、笑っていた。――そのたびに、現実を突きつけられる」

 グレイは、ぐっと拳を握って言葉を切る。

「私とは正反対の男を、お前は愛す――決して私は、お前の愛を得られぬ男なのだと」

「えぇぇ…?なんでそんな話になるの?」

 ハーティアは困惑した声を上げた。話が一気に飛躍して、本気で意味が分からない。

「カズラは、穏やかな男だ。争いとは無縁の、平和を愛す男だった」

「?……うん。確かに、お父さんが誰かと喧嘩してるのとか、見たことないかも」

「常に最前線で戦い続け、凄惨な戦場に身を置き続ける私とは正反対だ」

「……えぇ?いや、でもそれって千年前の――」

「大戦だけではない。<狼>の種族は争いが常について回る。ヒトとの決定的な決別がある。<夜>の復活騒ぎも、この千年のうちに二回も起きた。<狼>種族同士でも、時折諍いが起きる。そのときの仲裁役は私だ。いついかなる時も、有事の際は私は危険の最中に身を置かざるを得ない。そして、最後は己の圧倒的な力でそれらをねじ伏せる」

「ぅ……いや、でも、別に、対話を諦めてるわけでもないし――」

「<狼>は序列が物を言う社会だ。最後の最後、力を誇示して相手をねじ伏せる側面を持てぬものは、決して長になれん。優しさだけではなく、厳しさや非情さを持たねばならん」

「う、うん……え、別にそれはいいんじゃないの……?」

「対話を以て仲間の諍いを解決する、というとき、私とカズラは根本的に構図が違う。私が仲裁に入るとき、私の言葉を<狼>たちが聞き入れるのは、根底に私への恐怖があるからだ。何をしても私には実力で敵わぬと知っているから、序列を意識し耳を傾ける。仮に耳を傾けぬ頑なな態度を取られれば、私もまた序列を思い出させるような実力行使を視野に入れた解決策を取る。――だが、カズラは違う。あいつは最後まで、決して手を上げることはない」

「いや……うーん、お父さんが特殊だから、って感じでもないと思うけど」

 ハーティアは困った顔で唸る。

「そもそも、人間って、統治者に必ずしも『強さ』が求められるわけじゃないの。もちろん、そういう統治者もいると思うけど、それだけじゃなくて……人望とか、器用さとか、決断力とか、そういうのが重視されて選ばれることもあるの。<狼>さんたちとは、そもそもが違うのかも」

「……だが、お前はそういう男がいいんだろう」

「う……ぅぅぅううん……いやまぁ、不必要に好戦的な人が好きか、って言われたら、なるべく争いを避けようとする人の方がいいのは確かだけど……っていうか、お父さんが手を上げたりしないのって、単純に、お父さん、昔から運動はからきしだったからじゃないかな。それでも長にならなきゃいけないから、対話で諍いを治めたり何かを決めるときに全員が納得できるところを探したりするのが上手になっただけな気がするけど……」

 人生で一番最初に弓を習ったのは父だったが、父は弓も下手くそで、ハーティアに弓の才能があるとわかるとすぐに村一番の射手に指導を交代していた。昔はなんとも思っていなかったが、大きくなるにつれて、どうしてあんなに下手くそなのか――父が弓を放ったとしても、何とか的の端に矢を届かせるのが精いっぱいで、真ん中を打ち抜くことなど見たことがない――本当に自分と血が繋がっているのか不安になるレベルだった。

 愛犬と野山を駆け回って村一番の俊足を誇り、メキメキと弓の才能を伸ばして幼いながらに狩りの役にも立っていたハーティアとは裏腹に、父は狩りでは罠を掛けるなどの役割を担うばかりで、弓や剣を持って実際に獲物を狩ることはなかった。

 人には向き不向きがある。武芸に明るくなくても長としての手腕を発揮できる父を尊敬していたのは確かだが、だからといって、グレイのような武芸に秀でる男が嫌いかと言えば、それは違う。

「……っていうか、グレイの方が、全然お父さんより統治者としては優秀だと思うんだけど」

「……?」

 半眼で呻くと、初めてグレイの瞳がこちらを向いた。黄金の瞳が、怪訝そうな色を宿している。

 ハーティアは自分を客観視できていない様子の千年を生きる<狼>に、呆れながら口を開いた。

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