第12話
「……そういえば、グレイ、何か話でもあったの?こんな時間に――」
「あぁ。すまぬ。特に用があったわけではない。――お前が恋しくなっただけだ」
さらり、と口説き文句を当たり前のように口にして、髪を撫でる仕草は、プレイボーイさながらだ。――女心がわからない鈍感男の癖に。
情事に関することはこの二週間で無駄に経験することが多かったが、いつも、背筋が寒くなるほどの重すぎる狂愛を囁かれるばかりで、こんな風に普通に口説かれることはなかった。少し驚いて、心臓が軽く飛び跳ねる。
(甘い言葉も声も、こんなにあっさり出せるんだ……)
急にグレイが余裕のある大人に見えて、ドキドキしてしまう。……二週間、『蜜月』のフェロモンの影響で余裕のないグレイしか見てこなかったせいかもしれない。
簡易テーブルセットは、この部屋で過ごす人間は一人であることを想定していたためだろう。椅子が一脚しかない。ハーティアはグレイをベッドに腰掛けさせ、自分も隣に座る。「危機感が足りない」とグレイには苦笑されたが、立ったまま話をするのもおかしいだろう。グレイは軽く鼻を抑えた後、小さな嘆息と共に言われた通り腰掛けてくれた。
ギッと二人分の体重を受け止めた寝台が小さな音を立てる。
少し言葉に迷った後――グレイはゆっくりと口を開いた。
「二週間、すまなかった。――私の我儘に付き合わせたな」
「えっ!?」
「辛かっただろう。……どうにも私はすぐに、お前が元は『人間』であることを失念してしまう。すまなかった」
<狼>同士であれば、番になってすぐに『蜜月』に入ることは何の違和感もない常識だ。その期間は番のこと以外何も考えられぬほどに執着を強め、雄が繁殖期もかくや、という勢いで雌の身体を求めることも、わざわざ説明するようなことではない。
だが、ついこの間まで、<狼>という存在はおとぎ話でしか聞いたことがない非現実的なもの、と考えていたハーティアからしてみれば、未知の体験だったに違いない。混乱するのもついて行けぬと弱音を吐くのも当然だ。完全なる異文化であり、異種族なのだから。
しかも、グレイの事情を想えば、彼の執着は一般の<狼>と比較しても特別強い。まだ十四年しか生きていない少女にとっては、恐怖の対象になるのも仕方がなかった。
「あ、だ、大丈夫……さっき、マシロさんに、色々教えてもらったから――今は、その、グレイの我儘とかじゃなくて、<狼>さんの生態と言うか……本能?みたいなもののせいで、制御するようなものじゃない、ってわかったから――」
「そういう問題ではないだろう。お前が辛い思いをするのは、私には耐えがたい。教えてほしい。『人間』たちは伴侶を得るとき、どうするのだ?」
「えっ!?」
唐突な問いかけに、ハーティアは驚いて目を瞬く。
「……結婚、とかいうのを、するのだろう」
「う……うん」
「あまり詳しくはないが――確か、祝言とかいうものを挙げるのではなかったか?……何度か、お前たちの集落で、それが催されているのを見たことがある」
それは、グレイにとってなるべくなら思い出したくない記憶だった。彼にとっての祝言の知識は、ティア・ルナートが挙げたあの日の記憶と密接に結びついている。何度、他の者同士のそれを見ようと、見れば必ずあの日の砂を噛むような死にたくなる気持ちを思い出した。――当然、『月の子』の祝言であれば、なおのことだ。
「そ、そうだけど……なんでそんな、嫌そうなの……」
「……気のせいだ」
微かな表情と声音だけで鋭いツッコミを入れてくるハーティアに、説明を避ける。不機嫌になりそうな自分を必死に律した。
「我らに『人間』の文化は理解しがたい。――愛してもいない、顔も見たこともない相手と、生涯添い遂げると誓うその精神は、何度考えても、どうにも度し難い」
「へ!?」
「恋愛と結婚は別なんだろう。……結婚した後に、愛せるように努力する、と聞いた」
「ちょ、ちょちょちょ、ちょっと待ってグレイ!それ、どこの世界の常識!?」
「?……お前たちの世界では、そういうものなのではないか?」
「違うよ!!?普通に、好きな人と恋愛して、恋愛の延長線上に結婚があるものだよ!!?」
きょとん、とした顔で聞き返すとぼけた<狼>に、慌てて否定して正しい知識を授ける。この男は相変わらず、千年も生きていたくせに、変なところで『人間』に関する知識が偏っている。
「……そうなのか?」
「そうだよ!!!そんな、政略結婚みたいなの――いつの時代!?って感じだよ!」
「……ふむ。千年で、価値観が変わったのか」
「それ千年前の常識なの!?そりゃ変わるよ!当たり前でしょ!?人間たちが、何世代経たと思ってんの!?」
<狼>の感覚では――いや、グレイの感覚ではかもしれないが――千年という月日は意外と短く感じているのかもしれない。ついこの間、というような調子で話をされて、思わずツッコミを入れた。
「わ、私も、自分が結婚したことがあるわけじゃないけど……普通に、好きな人と、一生ずっと一緒にいたいって思って、結婚するんだと思うよ」
「好きな人、というのはどういうことだ?」
「ど、どういうって……」
「我らは、番にしたい相手を、雄が本能的に悟る。"事故"ではないならば、基本的に番になることについて、雌が拒否を示すことはない」
「えぇぇ!?そ、そうなの!?」
驚愕するハーティアに、こくり、と頷く。
基本的に、<狼>同士であれば、願った相手と番えないということはあり得ない。魂の匂いすらわかる<狼>が選んだ相手に間違いなどあるはずがないからだ。
そして、生涯の番になりえる個体は世界に一人だけだと言われている。雌にはわからないが、雄に求められれば、それは雌にとっても世界で一人だけの個体ということになる。故に、拒否を示すことはありえない。
例外があるとすれば、"事故"で番ってしまった場合か、<狼>以外の異種族の雌を番にする場合だけだ。百五十年前にクロエが初代のナツメに、番にしたいという申し出を断られたのも、彼女が<月飼い>との混血であり<狼>の血がほとんど入っていない個体だったからだろう。
愛する番に求愛したというのに、その相手に番うことを拒否されるという悲劇は、<狼>にとって立ち直れないほどのショックだ。生涯の番になりえる個体は、世界に一人だけ――その一人に拒否されたら、もう二度と出逢うことは出来ない。種を残すだけならいくらでもできるだろうが、心を寄せることが出来るのは、唯一無二の番だけだ。他の者で代替など出来ぬその唯一に拒否されてしまう絶望は、筆舌に尽くしがたく――おかげで、ナツメの死後百年ほどかけて、絶望を煮詰めに煮詰めまくった結果、純粋培養の狂気の灰狼が出来上がってしまったわけだが。
「だが人間は、そういう感覚がないのだろう。ならば、どうやって結婚相手を――好きな人とやらを見つけるのだ?」
「ぅ……」
あまりにかけ離れた文化に、くらっとめまいがする。これは、相手に理解してもらうのが大変そうだ。
「えっとね。……まず、好きな人って言うのは、見つけるとかじゃないの」
「……?」
「何だろう……最初はなんでもなかった人と、徐々に愛を育む、って感じ」
「……ふむ……?よくわからん」
「えっとね……えぇと……」
ハーティアは必死に頭をひねって説明を考える。
「何だろう。最初は知り合い、とか友達、とかだったりするんだけど」
「ふむ」
「一緒にいるうちに、何となくお互いがいいなと思い始めて――デートとかして、お互いを意識していって、恋人になって、生涯ずっと一緒にいたいって思ったら男の人からプロポーズして、女の人が了承したら、やっと結婚出来るの」
「……ぷろぽーず……?」
「『結婚してください』って花束と一緒に申し込むことだよ。言葉は人によって色々だけど、女の子の憧れなんだから!男の人は、すごく緊張して、オーケーしてもらうために何度も練習したりしっかり準備したり言葉をあれこれ考えたりするものなんだ、ってお父さんが言ってた」
「……ほう」
興奮するように語るハーティアの言葉に一瞬黄金の瞳が細くなり、すぐに瞬きで覗きかけた感情を払う。
「……なるほど。まったく異なる文化なのだな。愛を育む、か。――そもそも、”でーと”とは何だ?」
「な、なんだろ……改めて言われると定義が難しいけど、二人で時間を過ごすこと、かな。お出かけしたり、家でまったりしたり」
「……ふむ……?それで愛が育まれるのか?」
「わ、わかんない……けど……相手のことをよく知ることは、出来ると思う」
初恋もまだだったハーティアには、グレイの素朴な疑問にすっきりとした回答を返すことが出来ない。
「お母さんが、言ってたの。相手を好きになるには、たくさんの時間を重ねて、相手のことをたくさん知ることだよ、って」
「…………ふむ」
「お母さんとお父さんは、村でも有名な仲良し夫婦で、お父さんはお母さんのことをすごく大事に愛していたし、お母さんも同じだった。だから、私も将来はこういう家庭を築きたいなって思ってたの」
そして、ふわりと綻ぶような飛び切りの笑顔を向け、あっさりとグレイの地雷を踏み抜く。
「だから、私はきっと――お父さんみたいな人と結婚したい、って思ってたんだと思う」
「――――――――…………」
ひくり、と眉が不快げにひそめられる。たったそれだけで済んだのは、噴き出しそうになった狂暴な衝動に、ひとえにグレイの強烈な自制心が勝っただけだ。一瞬不愉快を前面に出しそうになったのを無理やり理性で抑え込んだのだろう。ぐっとハーティアから見えない方の手が、爪が食い込むほどに強く握られる。
「……グレイ?どうかした?」
「…………」
何でもない、と答える余裕はなかった。――ともすれば、衝動に任せてハーティアを今すぐベッドに押し倒してしまいそうなのだ。ギリ、と口の中で奥歯を噛みしめると、不穏な音が響いた。
ぐっと歯を噛みしめて無言のまま視線すら合わせてくれない<狼>の様子に、怪訝そうな顔を向け――はた、と風呂上がりのやり取りを思い出し、ハーティアは彼の沈黙の理由に思い至る。
「……え。まさか、嫉妬したの……?」
「…………悪いか」
「いや――だ、だって、お父さんだよ?恋愛対象になるわけな――」
「関係ない。お前が惚れるのは、ああいう男だ。――あの、男だ」
「え……えぇぇぇ……?」
困惑しきって、嫉妬の感情を暴走させぬように必死に耐えている<狼>の横顔を見つめる。ギリリ、と犬歯がむき出しになり、完全に父を敵視していることがうかがえた。
「――何が、いいんだ」
「え?」
「あの男のっ……何が、お前をそんなに惹きつけるっ……!」
「えぇぇぇ……??」
呻くように鋭く問われ、ハーティアは心から困惑した。
ハーティアにしてみれば、父はあくまで父で、血を分けた肉親だ。グレイが何故そんなにも嫉妬をむき出しにするのか、本当にわからない。
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