第11話

 困ったとき、頼れるのは常識人であるマシロだけだ。唐突に廊下に置いて行かれてしばらく放心していたハーティアだったが、ハッと我に返って、自分にあてがわれた北の<月飼い>用の部屋というものの場所がわからないことに気づいた。困った末に、以前訪れたことのあるマシロの部屋を訪ね、事情を話して、過去に父が使っていたという部屋を訪れる。

「じゃ、あたしはこれで」

「あ、ありがとうございました!助かりました」

 ぺこり、と頭を下げるのを軽く手を振って制しながら、マシロはふぁ、と欠伸を漏らして自室へと帰っていく。就寝は早い習慣らしい。

 ハーティアはその後姿を見送ってから、改めて部屋の中を見回す。

 遠い昔、族長家の先祖の家紋だったと言われて現代まで引き継がれてきた文様が織り込まれたタペストリー。父が好きだった木彫り細工の小物入れ。枕カバーに使われているのは、父の誕生日に、母と一緒におそろいで刺繍をした布だ。自分が贈った下手くそな方は、自宅で日常使いをしてくれていたはずだから、これは母が縫ったものだろう。見れば、使われている色が異なるだけで確かに同じ模様のはずなのに、自分のものより圧倒的にきれいな出来上がりだ。

 その部屋には――今は亡き家族の面影が、確かに息づいていた。

 そっと寝台に歩み寄り、懐かしい刺繍の入った布を撫でる。

「お父さん……お母さん……」

 父だけではなく、母までも思い起こさせるそれに、ぱたりっ……と瞳から零れ落ちた雫が染みこむ。

「っ……!」

 ハーティアは、ぎゅっと思い出の詰まったそれを胸に抱き、声を殺して静かに涙をこぼしていった――



 コンッ コンッ

「……ん……?」

 硬質な音が部屋に響き、瞼を押し上げる。ひとしきり涙を流し終え、泣き疲れてしまったのか、いつの間にか眠ってしまっていたらしい。自然治癒の力のおかげで、眠っているうちに赤く腫れた瞼は元通りになっていた。便利な身体になったものである。

 そんなことを眠気の残る頭で考えながら、軽く眼をこすって音の出どころ――閉ざされた扉へと視線をやった。

「ティア。……起きているか」

「グレイ……?」

 この世で自分のことを”ティア”と呼ぶのは、もうグレイしかいない。まだぼんやりとする頭で呟き、目をこすりながら扉へと向かう。

 がちゃり、とドアを開けると、苦い顔をしたグレイが立っていた。

「すまない。起こしてしまったか」

「ううん、大丈夫……」

「嘘を吐くな。――お前の寝起き特有の声は、昔からずっと、忘れることが出来ず耳に残っている」

 ふ、と口の端に笑みを刻んで、愛しそうにハーティアの頬を撫でる。

(ぁ……そっか。昔の、誰かの――)

 グレイは時折、目の前のハーティアを慈しむようにしながら、その後ろに別の誰かを見ているようなときがある。

「……ティア」

「うん。何?」

「何もしないと約束するから――部屋に、入れてくれないか」

「えっ……」

 唐突な申し出に、驚き身体を固くする。グレイは苦笑して、静かに答えを待った。

「あ……う、うん……い、いい、けど……」

「ありがとう」

 そもそも、手出し禁止を言い渡したのはマシロであってハーティアではないのだが、グレイはそれを律儀に守るつもりらしい。部屋へ導かれたグレイは、少し物珍し気にぐるり、と周囲を見渡した。

「……ふむ。この部屋には初めて入ったな」

「え、そうなの?」

「あぁ。定期的に儀式をするようになった後は、<月飼い>との交流は持たぬようにしていたからな。基本的に、代表者とも、儀式の最中にしか顔を合わせん」

(あ……そっか。妖狼病のことがあったから……)

 <月飼い>との混血を生まぬために、<狼>全員に<月飼い>との交流を断絶しろと触れを出したという話を思い出す。グレイの性格や置かれた環境を思えば、たとえ彼が<月飼い>と交流したところで子を成すことなどありえないとわかっているが、他の<狼>たちに出した命令を自分だけが破るわけにはいかない、と彼は考えたのだろう。彼自身も、そうして北の<月飼い>との交流を断絶したのだ。

「これは、ルナートの文様だな。……ふむ。千年の後にも伝わっているのか。興味深いことだ」

 壁に掛けられたタペストリーを見ながら、何やら頷いて穏やかな表情を浮かべている。懐かしそうに緩められた瞳には、ハーティアには推し量ることも出来ぬほど感慨深く柔らかな光が宿っていた。

「知ってるの?」

「あぁ。……この部屋の内装の雰囲気は、お前たちの集落では標準なのか?」

「えっ?……あ、う、うん。……そういえば、ナツメさんの部屋とはだいぶ雰囲気が違うね。私はこっちの方が落ち着くけど――」

「そうか。……ふむ。懐かしい雰囲気だ。――気の遠くなるほど昔、繰り返し訪れた部屋の雰囲気に、似ている」

 ふっと黄金の瞳が柔らかく緩み、ぐるりともう一度部屋を見渡した。その横顔には、懐古と――哀愁が、漂っているようにも見えた。

 ここしばらく、ハーティアの前では雄としての一面ばかりを前面に出していたため忘れかけていたが、久しぶりに、彼が千年を生きる長寿の<狼>であることを思い出す。

 気の遠くなるほど長いその期間を――誰とも思い出を分かち合うことすらできず、ただ独り、孤独に歩んできた<狼>であることも。

「グレイ……」

「……あぁ。すまぬ。レディの部屋をじろじろと眺めるものではないな。失礼した」

「ううん。大丈夫」

 言って、ぎゅっとハーティアはグレイに抱き付いた。

「――――ティア?どうした?」

「グレイが……グレイが、寂しそうだったから」

「……ふむ。そう見えたか?」

 ふっ、と吐息だけで苦笑する気配が揺れた。そして、あやすようにゆっくりとハーティアの黄金の頭を撫でる。

「寂しくなどない。――お前がここに、いる」

「……そう……?」

「あぁ。永遠を共に歩んでくれる、生涯の番だ。寂しさを感じる必要など、どこにあろうか」

 言いながら、幼子にするように頭に軽く口づけを落とす。

「グレイは、すぐ……強がるから」

「ふむ。そんなつもりはないのだが。……手厳しいな、ティアは」

 グレイは苦笑して、大丈夫だと示すようにぽん、と背中を一つ叩いた。ハーティアは、それを合図にゆっくりと顔を上げる。

「口づけの一つもしたいところだが。――マシロに怒られるからな」

 茶化すように言って、身体を離す。

「……いつか」

「ん?」

「もしも、お前から、お前の香りがする時が来たら――」

「?」

 この、千年前に繰り返し訪れた愛しい女の部屋を思わせる空間で、あの時と変わらない香りを嗅ぐという、夢のようなひとときを過ごせるのだろうか――

「……いや。何でもない」

 ゆるく頭を振って、グレイは言葉を飲み込む。

 今を生きるハーティアに言うことではないというのはもちろん――

 ――いくらハーティアと言えども、忘れ得ぬたった一人の少女との宝物のような日々の思い出は、グレイだけのものだから――

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