第10話
セオドアが持ってきた報告書――クロエの分と合わせて二人分――に目を通し、論点をまとめたころ、やっと"お楽しみ"の時間が終わったクロエが部屋から出てきた。その時点で既に時計の時刻は夕方を指し示しており、ナツメとハーティアが食事の準備を、族長たちは会議の続きを開始した。
会議が一段落し、食事が始まれば、相変わらず胸焼けしそうな肉のフルコースが食卓に並んだが、再びナツメの好意で用意された青野菜にハーティアは感動する。最初は緊張しきりだったセオドアも、会議の中で打ち解けたのか、いくらか空気が和んでいて、少しホッとした。
「あの……先ほどは、自己紹介もせずすみませんでした」
「えっ、あ、いいいいいえ!そんな――」
「ハーティア・ルナンと言います。北の<月飼い>――でした」
「ぁ……は、はい。セオドア・ラウンジールです。よろしくお願いします」
北の<月飼い>――という言葉だけで、彼女がたどった人生が何となく透けて見える。セオドアは少し紫水晶の瞳を揺らした後、深くそこには触れずに無難にあいさつを交わした。彼なりの優しさなのだろう。
グレイの番である、という紹介は省いた。そんなことをしなくとも、昼間の様子を見れば察するだろうし、何よりセオドアは<狼>だ。匂いを嗅げば、ハーティアがグレイの番だということは一目瞭然だろう。
「あの……私が、セスナさんと――一番最期まで、一緒に居ました」
「あ――…」
「その……彼がしたことは許せないし、今でも怒りを覚えるのは事実ですが――それでも、彼が、どうして、あんなことをしようと思ったのか……それを、彼の口から聞かせてもらえたのは、きっと、私だけです」
「――――……」
ごくり、とセオドアが生唾を飲み込む。周囲の<狼>たちも口を噤んで、部屋には食事の音だけが響く。
惑うように瑠璃色の瞳を伏せると、黄金の長い睫毛がふるりと揺れた。天井の明かりに照らされ、白い頬に影が落ちる。
「……無理に、とは言いません。共感は出来ないと思いますし、貴方たちにとっては、愉快な話ではないでしょう。それでも――私には、伝えられる言葉があります」
すぅ――と黄金の睫毛が上げられる。宝石と見紛うばかりの美しい瞳には、強い光が宿っていた。
(美しい――…)
初めてこの部屋に入ってきたときの虚ろな瞳と同じとは思えぬほどのまっすぐなそれを前に、思わず魅入ったセオドアの頬にほんのりと熱が灯る。
「……ねぇ。命が惜しかったら、そこらへんにしておいた方がいいわよ」
「っ――!?」
ナイフでカットした肉を口に運びながら、マシロが独り言のようにつぶやいた言葉に、ハッと我に返る。ハーティアの隣に視線をやれば、千年を生きる<狼>の冷ややかだが殺気のこもった瞳がこちらを射抜いていた。
頬を紅潮させ、ぽーっとハーティアを眺めてしまったのを目ざとく見つけられたのだろう。一瞬で全身が冷や汗に塗れる。
「い、いや、あのっ、その、す、すすすすすみませんっ!!え、えっとっ……!」
思い切り動揺していると、ハーティアは、己の隣で口ほどにものを言っている絶対零度の黄金の瞳に気づいていないのか、きょとん、とした表情をしている。
視線だけで威圧してくるということは、ハーティアの前でわかりやすく牽制したくない事情があるのだろうと、空気を読むことに長けたセオドアはそれを察し、必死に心を落ち着けてごほん、と咳払いをした。
「ハーティアさん」
「はい」
「その……話して、欲しいです。――僕らの一族が、逃げずにきちんと向き合わなければならないことだと、思うので」
真摯な瞳で告げた若い<狼>に、ハーティアはふわりと笑い――哀しく切ない生涯を送った、一匹の黒狼の話を、そっと紡いだ。
食事を終えて用意された風呂から上がり、脱衣所を出ると、入り口でグレイが待ち構えていた。
「ゆっくりできたか?」
「うん。……待っててくれたの?」
「あぁ」
「ふふっ……ありがとう」
ふわり、と花が綻ぶ様に笑ったハーティアに、ぐっ……と一瞬で湧き上がった堪えがたい衝動を必死に抑える。
この二週間、嫌がるハーティアを離すことが出来ずに、風呂にも無理やり一緒に連れ込んでは、いつぞやのクロエとナツメのような行為を致していた。最近は、それすらも虚無のような瞳でやり過ごされていたが、こうして一人の時間を与えてやると、こんなにも美しい笑顔を見せてくれると思うと、過去の行いを深く反省する。――反省はするが、愛しい笑顔と風呂上がりのいい匂いにあてられて発情しそうになるのは、もはや本能だ。本能に従って手を出さないだけ成長したとほめてほしい。
「……今日の夜だが」
「えっ!?あ、う、うんっ……」
サッとハーティアの頬が緊張に強張る。また無理矢理に抱かれるのかと不安になったのだろう。
その反応に苦い気持ちを持て余しながら、相手に気づかれぬように嘆息し、提案を口にする。
「……北の<月飼い>用の部屋がある。そこで休め」
「え――?」
きょとん、とハーティアの瞳が瞬かれる。グレイは苦い顔で言葉を続けた。
「以前ここに来たときは、お前の身に危険が迫る可能性が高かった。故に私の部屋に通したが――ここには、各族長たちの部屋のほかに、東西南北の<月飼い>の代表者用の部屋もある」
「ぁ……そ、そっか。この建物、元々、<月飼い>の代表者のために造ったって言ってたもんね……」
すでに懐かしいと言っても差し支えない、初めてここに来た時に彼から教えてもらったときの記憶を思い出してハーティアは納得する。
「そうだ。お前には、その部屋を使う権利がある。<月飼い>の制度がなくなったとはいえ、お前のルーツがそこにあることに変わりはない。現存する、最後の北の<月飼い>だ。――代表者の証である水晶も持っているしな」
言って胸元を指す。そこには、<夜>の死と共に力を失い、ただの宝石となった真っ黒な水晶が、首から下げられていた。
「……うん」
そっとその首飾りに手を当てて、頷く。
ハーティアにとって、この首飾りは、今は亡き母から託された大事な宝物だ。必ず守ると誓った、目に見える母との約束だ。
これから先、永遠と言われる長い年月を歩む中で――自分のルーツを思い出すための、大切な大切な宝物。
それを身に着けることを許してほしい、とグレイに申し出たところ、二つ返事で優しく許してくれた。男女のことに関しては酷く無理矢理で人の言うことを聞いてくれない彼だったが、根源的なところでは、変わらず優しく、ハーティアを深く思いやってくれるその優しさに、本当に感謝している。
「それに、あの部屋を最後に使っていたのは――お前の、父親だ」
「――――!」
ハッ……とハーティアは息を飲み、弾かれたように顔を上げた。
見ると、酷く苦い顔をしたグレイがいた。
「亡き父を想い、使うがいい。――お前の村に残っている父を思い出すものは、何もかも、焼けてしまっただろうから」
「グレイ――……」
優しい心遣いに、じわりと胸が温かくなり――
「………………なんで、ちょっと、嫌そうなの……?」
苦みが混じるその顔に違和感を覚え、眉を顰める。
「……そんなことはない」
「嘘。絶対嫌そうな顔した!」
視線をそらして呻くグレイを問い詰める。この二週間、不本意ながら毎日うんざりするほどそばに居続けたのだ。彼のちょっとした仕草や表情で、彼がどんな気持ちになっているか、察せるようになってきたハーティアは、確信をもって尋ねる。
グレイはしばらく黙秘を続けたが、やがて観念したように口を開いた。
「…………お前は」
「ぅん?」
「お前は――本当は、ああいう男が、好きなのだろう」
「――――――へ……?」
悔しそうに、憎々し気に、呻くように絞り出された言葉の意味が本気でわからず、ぽかん、と口を開く。
「ああいう男――って……お、お父さんのこと……?」
「そうだ」
「…………へ?……な、何それ……」
ひくっ……と困惑に頬が引き攣る。
「え?……ごめん、意味がわからない。……そりゃ、小さい頃は、お父さんと結婚する!とか言ってたけど――」
「やめろ。――所構わず暴れそうになる」
押し殺した声音が響き、ビクリ、と肩が揺れた。――どう考えても、本気の声だ。
(……えぇぇ……いや、本当に意味が分からない……なんで、嫉妬……?)
父を相手に、どうしてここまでグレイが本気の嫉妬をにじませるのか、ハーティアには知る由もない。
ギリッ……とグレイは音が響くほど奥歯を噛みしめ――
「……頭を冷やしてくる。――これ以上そばにいると、無理矢理襲いそうだ」
「えぇ!?ちょっ――」
ハーティアが止める間もなく、ふぉんっ……とグレイの姿が掻き消える。
「……な……何だったの……?」
一人残されたハーティアは、困惑の極みに、情けない声を出すしかなかった。
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