第9話
「あの……グレイ」
「……あぁ」
近づかれた途端、いつものくらくらする匂いが鼻腔を擽り、思わず軽く鼻を抑えながらなるべく平静を装って答える。
(……理性が吹っ飛びそうだな)
今すぐ抱き寄せ、いつものように腕の中に閉じ込めたくなる衝動を必死にこらえる。ハーティアの自由を奪っている、とクロエに苦言を呈されたことを思い出した。
「その……えぇと」
「……あぁ」
言葉少なく頷き、先を促す。鼻を抑えたままごくり、と生唾を飲み込み、湧き上がる衝動を何とか抑え込んだ。
「私……もう少し……一人の時間が、欲しくて」
「……あぁ」
「色々――考える時間とかも、欲しくて」
「……何を、考えるのだ……?」
ざわり、とした不快な何かが胸の奥を撫で上げていくのを感じ、昏い声が口から洩れた。
「言ったはずだ。――もう、お前を放してやることは出来ない」
「え……?」
「お前が、どれだけ泣こうが、苦しもうが、私はもう二度と――」
「ハイ、ストップストップー!ドクターストップです!」
チリッ……と湧き上がってきた仄暗い感情に支配され、脅しのような言葉を吐き出しそうになったグレイの目の前を遮るようにマシロが手を上げて割り込んでくる。
「……マシロ」
「いくら『蜜月』でハイになって独占欲強くなってるからって、脅すようなコミュニケーションはだめ!そういうのがハーティアの心に負担をかけてるの!」
ぐ、と言葉に詰まって素直に口を閉ざす。……この程度もダメなのか。
「もう……アンタたち一回、しばらく離れて過ごしたら?」
「なっ――!?」
グレイの口から絶望的な声が漏れる。
「仕方ないでしょ。一緒にしとくと、無自覚な雄が、純粋無垢な雌をいじめるんだもの」
「私はいじめてなど――」
「アンタにそのつもりがなくても、傍から見てるとそうなの!……まずは生活の拠点を離して、落ち着くまで一定期間を離れて過ごして、時々顔見る、とかから始めたらいいんじゃない?」
「お前――私に死ねというのか!?」
「……いや……そんな大げさなことじゃないでしょ……」
顔面蒼白で真剣に悲痛な声を出したグレイに、呆れた顔でマシロが半眼になる。
「『蜜月』の番を離すなど、鬼畜の所業だ!」
「……まぁ……前例はないと思うけど」
「さすがにそれだけは承諾できぬ……!」
グレイは腕を伸ばしてハーティアをぐっと引き寄せ、胸の中に閉じ込める。ギリッ……と奥歯が鳴り、マシロを鋭く睨みつけた。
「……そんな、完全に敵認定しなくても。ドクターストップ、って言ってるでしょ」
ウウウウ、と唸りだしそうなグレイに困った顔でマシロが言う。どうにも言うことを聞いてくれない患者だ。見ると、グレイの腕の中に捕らわれたハーティアは、再び心を殺して虚無の仮面をかぶっている。やはりこれは、どう考えても、良いサイクルとは思えない。
「マシロ。お前は聡いが、現実をちゃんと見て発言しろ。正しいことを言うことが必ずしも正義ではない」
「何よクロくん」
「今、グレイと番を離したとして――そのあとのこいつの心理状態とそれに振り回されるだろう周りの迷惑を考えろ。……それを思えば、一人の女が心を壊すくらい、軽い犠牲だと思えないか」
「ぅ゛っ……い、いやいやいや、ちょっと、とんでもない提案しないでよ!一瞬ぐらついちゃったじゃない!」
一瞬脳裏に、瓦礫の山となった始祖の根城の光景が広がり、ぞくりと背筋が冷たくなった。番に逢うことの出来ないストレスを、番の無事をすぐに確認できないストレスを、彼がどんな形で昇華するのかわからない。何もないのにあんな発散の仕方はしないと信じているが、グレイと離れている期間にうっかりハーティアが他の男と一言でも言葉を交わしでもしたら、それも現実味を帯びてくるだろう。
一つの<狼>の群れくらい軽く壊滅させそうなそれを思えば、ハーティアを『尊い犠牲』として生贄に捧げよう、というクロエの主張も、わからなくはないがわかりたくはない。常識人として、決して譲れない一線だけは守りたい。
「……はぁ。わかったわかった、わかったわよ。じゃあ、一緒に暮らすことは許可するとして――でも、手を出すのは禁止」
「ぐっ……!」
「ハーティアの心の準備が出来るまで、エッチなことは一切禁止だからね!」
「…………わ……わか…………った……」
ふるふると、震えるか細い声を出し、断腸の思いで承諾する。ハーティアを抱き寄せ、存分に匂いとフェロモンにあてられているこの状態でその言葉を口に出すことがどれだけ苦しいか、マシロにはわからないだろう。経験のあるクロエはグレイに同情したのか、呆れたように嘆息した。
「……三日以内にしびれを切らす、に金貨一枚」
「賭け事にしないで。……せめて一週間は頑張る、に金貨三枚」
「ほう。大きく出るな」
「勝負事に遠慮は無用。賭けるときには大胆に、がお姉ちゃんの教えなの」
「……貴様ら……楽しんでいるだろう……」
楽しそうな二人に、ギリギリ、と歯を鳴らすグレイは恨めしそうな声を響かせる。
マシロは軽く肩をすくめてその声を流してから、グレイを見上げた。
「ちなみにグレイ。今、ハーティアの匂いってどんな感じ?」
「?」
「何の匂いがする?」
「何を急に――……変わらず、私の匂いだ。愛しい」
首筋に顔をうずめて、スン、と鼻を鳴らして満足げに言う。嬉しそうなその様子に苦笑して、マシロは口を開いた。
「じゃあ、まだ駄目ね」
「……?何がだ」
「ちゃんと、雌も、雄のことを認めて心も身体も許していい、って思うとね。匂いが少し変わるんだって」
「……どういうことだ……?」
「鼻が利かない私にはよくわからないけれど――雌が、雄のことを『好き』って思ってくれると、塗り替えられる前の、本来その雌が持ってた匂いがふんわり香るときがあるらしいわよ。『好き』って思う瞬間だけらしいから、普段は変わらず雄の匂いしかしないらしいんだけど」
「――――……」
グレイは驚きに目を瞬いた後、視線を腕の中に落とす。
(――嗅げるのか……?また、あの匂いを)
胸の中にじわじわとあたたかい物が広がっていく。
<夜>に無理やり番にされたとき、絶望と共にもう二度と嗅げないと覚悟したあの香しい香りが――再び鼻腔を擽ることがありうる、というのか。
「グレイ?」
「……そうか。――そうか」
幸せをかみしめるようにそう言って、ぎゅっと腕の中のハーティアをしっかりと抱きしめる。
そんなご褒美が待っているというのなら、しばしの禁欲など、いくらでも耐えてやろう、という気になるから不思議だ。グレイはさらりと愛しい黄金の髪を撫でて、いつかの日を待ち望む。
「――――……ほう」
「……?」
小さくクロエが口の中で呟いて、隣のナツメを見る。翠の瞳が不思議そうにクロエを見上げた。
「なるほど。――興味はなかったが、好かれているという事実は、悪くない」
ニッ……と頬を歪めて笑うと、目つきの悪い三白眼が、いくらか親しみやすくなる。
一瞬何を言われているかわからなかったナツメは、会話の流れから、おそらく自分の匂いが時折変わっているのだということに思い至る。
「――――はい、クロエ」
ふわり、といつもの定型文を口にして、肯定の笑みを浮かべると、そのまま有無を言わさず唇を重ねられ、部屋の中へと連れ込まれた。
「あー……」
これから部屋の中で始まるであろう激しい情事の気配を察して、マシロは砂を吐きそうなうめき声を漏らしながら、そっと部屋の扉をパタン、と閉じて外に出る。
どいつもこいつも、番同士で二人の世界を造らないでほしい。独り身の自分が切なくなる。
「とりあえず。……グレイ、会議の再開予定は?」
「あいつが満足するまでお預けだな」
期待せずに声をかけると、グレイもまた、苦笑して嘆息したのだった。
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