第8話
くぁ……と一つ欠伸を喉の奥で噛み殺しながら、クロエは会議室を後にして、いつもの習慣でナツメの部屋へと足を向ける。報告書をさっさと記入し終え、もたつくセオドアにその完成品を渡して書き方の参考にしろと言い伝え――新人をただ放置したとも言う――まだグレイからの通達がなかったため、暫く時間が出来たと判断したのだ。ならば、いつも通りナツメといちゃついたところで誰も文句は言うまい。
そう思っていたのだが――
ひたりっ……
クロエの足が、目的地を目前にして、驚いたように止まった。
「―――――何をしている……?」
「――――……」
珍しく、少し困惑したような声音。怪訝そうに眉間にしわを刻むその表情は、いつもの三白眼が五割増しで剣呑さを増す。
だが、それも仕方あるまい。
「……クロエ……私はもう生きていく気力を失ったかもしれない……」
「…………はぁ……?」
名実ともに世界の生態系の頂点に立っているはずの最強の<狼>が、目当ての部屋の前の廊下で情けなく四肢をついてうなだれているのだ。震えるほどか弱い声を出す序列最上位の<狼>の言葉に、クロエは眉間にもう一つ深いしわを刻んだ。
「
「……はぁ」
「私は死んだ方がいいのかもしれぬ……」
「……何を言いたいのか、全く読めん」
クロエはズバッと切り捨て、大股で近づく。
つい先程、グレイは、会議室から転移をした。――とりあえず、どうしても、子供のように泣き晴らした顔の愛しい少女の現状が気になったので、そっと、彼女らがいる部屋の前へと。
マシロは匂いがわからない。部屋の真ん前に直接転移して物音さえ立てなければ、グレイの来訪に気づく者はいないだろう、と踏んで飛んだのだが――
――中から聞こえてきた会話の内容に、これ以上なく、精神的に滅多打ちにされたのだ。最強の<狼>が、その場に膝をついて頽れるほどに。
「……その様子だと、会議はしばらくお預けか」
「とても今の私にそんな気力はない。――今すぐ死にたい」
「………?何があったか知らんが、死ぬ前に最後、もう一度手合わせをさせろ。約束だっただろう」
心配することも、理由を問うこともなく、己の希望だけを通そうとするあたりがクロエらしい。戦闘狂の名を恣にする古の盟友の変わらぬ様子に苦笑し、いくらか心が和んだ。――その程度で浮上するほどの軽い傷ではなかったので、気分は沈んだままだったが。
「あぁ……今すぐ赤狼の群れに行きたい……」
「お前は本当に何を言っているんだ?」
今度こそ、理解できない不気味なものを見る目でグレイを見下ろし、クロエが呻く。こんなにうじうじしているグレイは初めて見た。
中で繰り広げられる女子たちの会話を一言で簡潔にまとめるなら、グレイの夜の営みに関して率直に『へたくそ』と言われたも同然だ。何事にも動じない白狼も、さすがにそれはへこむらしい。
(しかも、それでティアを苦しめ、思い悩ませていたとは……)
彼女の笑顔を奪い、涙を誘ったのが己の身勝手な所業のせいだと突き付けられ、深く反省する。立ち直れないほどに反省する。言われてみれば、何度も泣かれていた気もする。
――そんなことに構っていられないほど、『蜜月』に分泌される特殊フェロモンのせいで、前後不覚になって相手を求める日々が続いていたため、こうして滅多打ちにされるまで気付けなかった。
(しかし……あの理性を根こそぎ奪っていくフェロモンを前に、自制できるのか?私は……)
いや、出来るかどうかは関係ない。せねばならない。他でもないグレイ自身が彼女を苦しめるなど、あってはならないのだから。
「……クロエ。お前は、ナツメに好かれているのか?」
「……今度はなんだ。長い付き合いだが、今日のお前は本当におかしいぞ」
気味悪そうな怪訝な視線をやるクロエに、グレイはなんとか立ち上がって質問を重ねる。
「無理やり番にしたんだろう。監禁までして、恐怖で縛って、心を麻痺させて、お前しか見ないように洗脳して――」
「酷い言い様だな。……まぁ、何一つ間違ってはいないが」
「そんな風に無理やり手に入れておいて――ナツメはお前に惚れたのか?何故だ?全く理解が出来ん」
「……失礼な奴だな。知るか。ナツメに直接聞け」
「聞いたところで、あいつは喋らんだろう。――お前が自分以外の存在との会話を禁じたせいで」
先ほどまで死ぬほど落ち込んでいたくせに、今度はやたらと絡んでくるグレイにクロエは面倒くさそうに嘆息する。
「あいつに愛されるとか、惚れられるとか、そんなことには微塵も興味がない。だから、聞いたこともないし、これからも聞く気はない。俺があいつを必要としている。それだけで十分だ。――あいつの気持ちなど聞いたところで、俺は何があってもあいつを離さん。たとえ、蛇蝎のごとく嫌われていたとしても、だ。……ならば、聞く意味などないだろう」
「お前……我が道を行くにも程がないか……?」
「知るか、俺は昔からこんな性格だ」
苛立つように歯をむき出すクロエに、グレイは重たいため息を吐く。参考事例が特殊過ぎて参考にならない。
(……認めねばならんな。ティアは――私を好いているわけでは、ない……)
明確に『グレイと同じ気持ちかと言われるとわからない』と告げられたことを思い出す。恋愛経験もほとんどないと言っていた。もしかしたら、初恋すらまだかもしれない。
彼女の中で、グレイは『家族』なのだ。<狼>の中にその概念がほとんどないため、知識として理解するしかないが、どうやら人間たちの中では、『家族』は恋愛対象にはならないらしい。
(とんだ皮肉だな。番にすることが出来て、千年越しの願いが叶ったと浮かれていたが――何ということはない。私とティアの関係は、昔から未だに、何一つ変わっていない。いつまでも、気持ちは、私の一方通行のままだ)
だとすれば、この二週間の行いは、ハーティアに愛想をつかされても文句は言えなかった、と反省する。
本来、マシロが言うように、ゆっくりと気持ちをすり合わせていくべきだった。ハーティアの気持ちがグレイに追いつくまで――グレイの気持ちが、ハーティアに寄り添えるまで、じっくりと時間をかけて、関係を育むべきだった。
グレイにとっては千年想い続けた唯一の存在だが、ハーティアにとってはつい数週間前に初めて出逢った男――そもそも、<狼>自体が未知の存在だったのだ。<狼>という動物についても知識が乏しい上、色々なことに巻き込み、振り回してしまった。何もなくとも、まずは心を整理する時間を設けさせてやるべきだっただろう。
(すべてはあのフェロモンが――いや、全ては言い訳だな)
結局グレイの我慢が利かなかった、それだけだ。
グレイは憂鬱な重たい吐息を肺から吐き出す。耳の奥で、先ほど聞いてしまった部屋の中の声が蘇った。
『正直、後悔してるんじゃない?――グレイの番になったこと』
それを聞いたときは、ドキリ、と心臓が冷えた。ぎゅぅっと痛みを発する胸を抑え込み、必死にハーティアの返答に耳を澄ますが、部屋の中から返ってきたのは沈黙だけだった。
『……そっか』
マシロも、短くそう答えただけだった。――ハーティアが何と答えたか、わからない。
(いや――聞くまでもなく、わかるだろう……この期に及んで、自分に都合の良いように解釈したくなるとは、情けない……)
あれほど号泣して、グレイに対する不満を立て板に水で並べ立てていたのだ。いくら蜜月のせいで頭が馬鹿になっているとはいえ、この状況でハーティアが後悔していない、などと思えるほどの花畑にはなっていない。
「まったく、鬱陶しい……痴話喧嘩などさっさと収めろ。犬も食わん」
不機嫌そうに鼻を鳴らしながら、クロエは臆することなくナツメの部屋の扉をノックし、声をかける。ほどなく、扉が開かれてナツメが顔を出す。
「話は終わったか?」
「はい、クロエ」
こくり、と頷くナツメは、いつもの定型文を音に乗せる。鈴を転がす美声が、この一言のためだけにしか使われないことは、不憫にも思われるが、本人たちが納得しているなら外野が口を出すことではないのだろう。
部屋を覗くと、奥にはマシロとハーティアがいた。グレイと目が合うと、パッと不安そうに瞳を揺らして視線を逸らす。ぎゅっと痛みを発する胸に軽く眼を眇めて耐えているとマシロがハーティアの手を取ってこちらに近づいてきた。
「グレイ。……お説教、していい?」
「あぁ。どんな苦言も、全て受けよう。何でも言うがいい」
「まっ、マシロさんっ……あの、だ、大丈夫なので――」
「アンタはそう言うけどね――」
「ほ、本当に!」
ハーティアは、必死な顔で言い募る。しっかりとマシロを見据え、意志の強い瞳で、言い切った。
「私とグレイの問題だと思うので――自分たちで、ちゃんと、話し合います」
「……アンタがそれでいいなら、いいんだけど……」
やや釈然としない思いを抱えているのか、ぶぜんとした表情ではあったものの、マシロはしぶしぶ頷いて引き下がった。代わりに、ハーティアが一歩前に出て、グレイの目の前に立つ。
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