第5話
マシロの勇ましい宣言と共にバタン……と閉まった扉を呆然と見やったまま、しん……と部屋に沈黙が下りる。
「……グレイ」
「――あ――あぁ」
クロエのもの言いたげな呼びかけに、ハッと我に返ったグレイは、ふるっと一つ雑念を追いやるように頭を振る。
「ナツメに任せておけば悪いようにはしないはずだ。マシロも、赤狼の族長を務めるくらいだから、医者としての能力はずば抜けている。何があっても大丈夫だろう。放っておけ」
「わかっている。――今、我々には片付けるべき要件がある。会議を始めよう」
瞼を閉じて深呼吸をして気持ちを切り替えたグレイに、軽く嘆息してクロエは報告のために口を開いた。
「調査の結果、以前灰狼の若者たちに接触してきたという黒狼の外見特徴が分かった。緋色の髪と隻眼に眼鏡の長身の女だそうだ。――あのシュサとかいう女で間違いないだろう」
「……あぁ。そうだな」
「どうやって真逆の黒狼の群れから灰狼の縄張りに侵入して接触を図ったのかと不思議だったが、タネがわかれば何ということはない。あいつの白狼の戒で転移してきたんだろう。<狼>でもない以上、鼻の利かないアイツが俺が近くを通ったことをどうやって知ったのかと考えたが――大方、白狼の戒で結界を張っていたんだろう。条件をどんなものに設定していたかは知らんが」
「……そうだな」
グレイは静かにうなずく。
クロエは呆れたように半眼でグレイを見た。
「――グレイ」
「…………あぁ。わかっている」
長い付き合いだ。クロエが族長になって、すでに百五十年近くが経っている。そうでなくとも、彼の初代の魂の持ち主たるクロードとの付き合いまで考えれば、二人の関係は千年だ。言葉に込められた微妙な響きとニュアンスで、相手が言いたいことは凡そわかる。
グレイは眉間に指をあてて目を閉じ、ふーっと大きく息を吐いた。
「……すまない。集中出来ていないな」
「わかっているならいい」
「だ……大丈夫ですか……?」
どこか尊大とも思える態度で鼻を鳴らすクロエに加え、恐る恐ると言った様子で、セオドアまでが口を開く。
「……いや。情けないところを見せた。すまぬ」
グレイは素直にもう一度謝罪を口にしたが、それですぐに気持ちが切り替わる、というわけでもなかった。
(今までこんなことは一度もなかった。――重症だな)
冷静な自分が、脳裏で大きく警鐘を鳴らす。今の自分が、<狼>種族の長として相応しくないことなど、誰に言われるまでもなく自分が一番よくわかっている。
だが、それでも――つい先ほどこの部屋を去っていった愛しい番の存在が、いつまでも気にかかって仕方がない。
(……泣いていた)
ぎゅぅっと胸が締め付けられるように痛み、思わず目を眇める。
すぐに追いかけ、理由を聞き、彼女の憂いの源となっているものを取り除いてやりたい衝動に駆られる。
――約束したのだから。
少女に、生涯決して尽きぬ幸いを贈ると――
「まぁ……俺は、人のことをとやかく言えたものではないが」
何かを考えていたクロエが、控えめに口を開く。
「いくら『蜜月』でお前がハイになって、普段から考えられないくらい頭がおかしくなっているとしても――確かに、アレは、傍から見ると異常だな。渦中にいたときは――そして今でも――何が悪いと言うんだと思っていたが、改めて外から、第三者として冷静に見ると、あの女の様子とお前の様子は確かに、狂気の沙汰だと言われても頷ける」
「……私はお前のように監禁はしていない……」
「一緒だろう。お前もまた、あの女に頑なに自由を与えていない。――家の中に縛るか、お前の腕の中に縛るかの違いだけだ」
「――……」
グレイの顔が痛いところを突かれて苦く歪む。
「たった二週間でよくもここまで、とも思うがな。――俺でさえ、ナツメが恐怖に泣かなくなり、諦めたように抵抗の全てをやめて、感情の起伏が平坦になるまで、二か月近くかかった」
クロエが世間話の延長とでもいえるほど当たり前のように紡ぐ言葉に、ゾッ……とセオドアの背筋が寒くなる。本人はそんな彼に気づいた様子もなく――もしかしたら気づいていても気に留めていないだけかもしれないが――旧友へと言葉を続ける。
「俺は、ナツメの気持ちなどどうでもよかった。あいつの幸せも何も関係がないと思っている。誰かにとられる前に、俺の物にして、二人だけの完結した世界に囲ってしまえればそれでいい。他の誰かと口を利く必要もない。――だが、お前は違うだろう。お前は、俺のような狂気を身の内に飼っているくせに、本心であの女の幸いを願っている」
「…………あぁ」
「……ならば、今の接し方は改めるべきなのだろうな。――まぁ、同じ道を通ったものとして、とても理性で押さえられるような衝動ではないことはよくわかっているつもりだが」
フン……と鼻を鳴らして瞳を閉じ、面白くなさそうに言うクロエに、グレイは苦笑する。――ナツメを数か月監禁したことは、その狂気を騙るときのエピソードとして広く知れ渡っている話だが、実は、クロエ自身も丸二か月ほど、誰に何を言われようと――グレイに直接苦言を呈されようと――その家から出てこなかったという事実を知っている者は少ない。先ほどの話を聞く限り、その二か月間というのは、ナツメがクロエの家から逃げるということを諦めるようになるまでの期間だったようだ。
序列では文句なく最上位にいるグレイの命令にさえ離反するその行いは、間違いなく彼が理性で行動できていなかったことを示しているだろう。
それがわかっているからこそ、クロエはグレイの行いに、この世の中で最も理解を示している。むしろ、ハーティアを所かまわず伴っているとはいえ、曲がりなりにも長としての仕事を遂行していること自体を褒めてやってもいいとすら思っている。――クロエは、二か月間、完全に灰狼の族長業を無視して、ナツメの心が壊れるまで家にこもっていたのだから。
「……そうだな。すまない。少し、頭を冷やす。会議は中断だ」
「それがいいだろう」
「残っている報告は紙にまとめて後ほど提出してくれ。――セオドア、初日なのに情けない姿を見せてすまないな」
「い、いえっ……あの、だ、大丈夫ですっ……」
「わからぬことがあればクロエに聞け。――目つきは悪いが、族長としてはそこそこ優秀な男だ。信頼していい」
「はっ、はひっ……」
部屋に来た時の鋭い視線を思い出し――そして今彼自身の口から語られていた番への狂気の沙汰が脳裏に思い起こされ――セオドアが情けない声で返事をする。
「会議の再開はこちらから声を掛けよう。報告書をまとめ終わったら、各自自由にしていい。……ではな」
コキッ……と小さな音を立ててグレイが指を鳴らすとともに、その姿が掻き消える。
「ふぁ……すご……白狼の戒、初めて見ました……」
セオドアが、間抜けな声を上げて、それを見送ったのだった。
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