第3話

 二週間前――千年樹の根元で、それは起きた。


「愛している、ティア。――私と共に、『永遠』を歩もう――」

 そっと両頬に手を添えられ、ゆっくりと顔が近づいてくる。

(わ――!)

 さすがに恋愛経験の乏しいハーティアでも、それが何を意味するのかは察しがついた。

「っ……!」

 息を詰めて、ぎゅっと固く瞳を閉じる。

 吐息が混ざるほど、あの美しいグレイの顔が近づいていると思うと、ドキドキと心臓が外に聞こえてしまいそうなくらいうるさく騒ぎ始める。

 まぎれもなくそれは、ハーティアにとってのファーストキス。

 まさか、<狼>と――グレイと、それをすることになるとは、思ってもみなかった。

 ゆっくりと、しっかりと、二人の唇が重なる。

 かぁっと頬が人生で一番の熱を持ち、心臓が飛び出しそうに早鐘を打った。

 ハーティアがしっとりとしたその唇の温かさを実感する前に――

「――――――んぅぅう!!???」

 ハーティアの口から、戸惑いの声が漏れた。

(なっ――何何何何!!!?)

 口の中に、何か、生暖かく柔らかい物が入ってきたのだ。

「んんんんんん!!!!!」

 色気も雰囲気も情緒もへったくれもない。

 混乱のあまり全力で抵抗し、身体を引き剝がそうと藻掻くも、生態系の頂点にいる存在に、たかが十四歳の少女の抵抗が意味をなすはずもなかった。

 あっさりと抑え込まれ、ねっとりとした口づけはむしろもっと激しさを増す。

「ふわぁ~お♡」

 明らかに面白がって揶揄う声は、シュサのものだ。

「~~~~~~~~っ!!!!」

 その声で、ハーティアは我に返る。

 ――そうだ。人の目がある場所だった。

 ドンドンドン、と渾身の力でグレイの身体を叩き、離れてほしい意思表示をするも、グレイはぎゅっと眉間にしわを寄せてハーティアの唇を貪ることをやめない。

 獣を思わせる熱烈な口づけに、明らかに、ギャラリーの視線が集まっている。それも――めちゃくちゃに痛い視線が、突き刺さっている。

「っ……ふ……ぅぅ……」

 やっと離してもらえたのはハーティアが酸欠になるその寸前だった。

 くたっ……と思わず身体の力を抜いたハーティアを抱きしめ、グレイは一つはぁっ……と熱い息を漏らす。

「あぁ――堪らない」

「……は、ぁ…ぅ……へ……?」

「足りない、ティア。――足りないんだ――」

「ちょっ――待ってグレイ!人前!人前だから――んぅ!?」

 明らかな熱情に浮かされた<狼>相手に、抗議の言葉が聞き入れられるはずもなく。

 あっさりと再びその唇が重なり、先ほどと同じく熱烈なキスシーンが繰り広げられる。

(なんでなんでなんでなんで!?)

 てっきりハーティアは、ファーストキスというのは、おとぎ話の中で王子様とお姫様がするような美しい口づけだと思い込んでいた。あるいは、<月飼い>の集落で見たことがある祝言の中で行われる、愛を誓う口づけのような清らかで神聖なもののように思い込んでいた。

 幻想がガラガラと音を立てて崩れていくのを感じながら、ハーティアは涙目で必死に抵抗を示す。

 助けを求めようと周囲を見るが、明らかにニヤニヤしているシュサも、我関せずのいつも通りのクロエも、砂を吐きそうな表情のマシロも、誰も助けてくれそうにない。

「まっ……待っ――グレ――んっ」

「待たない。ティアっ……!」

 角度を変える合間に囁いて、グレイは何度も口づけを執拗に繰り返す。

「ひ、人前っ……だかっ……みんな見て――んんん~~~~!」

 唇の周囲がお互いの唾液まみれになっていることにこれ以上ないほどの羞恥を感じながら、必死に言い募るも、やはり聞き入れてはもらえなかった。

 散々貪るように口づけた後、グレイは口を離して囁く。

「――他者の目があるから、なんだ?」

「はぁっ……はぁっ……――え?」

「そんなものが、何だと言っている」

 はぁっ……と息を吐くグレイの瞳には、明らかに劣情めいた何かが宿っている。

「い、いやいやいや、ちょっ……れ、冷静になろ!?ね!?ひ――人前、だよ!?」

「関係ない。――お前がどうしてもそれを気にするというなら、全員をどこかに吹き飛ばしてやってもいい」

「まっ――待って待って待ってそういう話じゃないから!」

 熱に浮かされたような表情のまま、煩わしそうに指を鳴らそうとしたグレイを必死に止める。マシロが恐怖に慄くようにビクンッと震えた。鼻の利くクロエと白狼の戒もどきを使えるシュサはどこに飛ばされようと自力で何とでもなるだろうが、マシロはそういう訳に行かない。耳の毛を逆立たせて、蒼い顔をしていた。

「ティア。――お前は何か、思い違いをしていないか」

「ぇ……ぇえ……?」

 至近距離で、雄の色香をこれ以上なくまき散らしながら、グレイは押し殺した声で言う。

「ナツメが死んで、クロエが今のナツメと出逢い、番うまで、何年だったか知っているか」

「へ?え、えっと――たしか、百年……だっけ……?」

「そうだ。たかが、百年」

「え――――」

 最狂と言われた<狼>の狂気の沙汰を生んだ期間を、たかが、と言い切られてハーティアは面食らう。

 グレイは片目を眇め、ぐっとハーティアの身体を強く抱きしめた。

「私は、千年。――千年、だ」

「え、あ、う、うん――え?」

「単純に、期間だけでも、クロエの十倍だ。愛情の重さも、深さも――お前たちが口を揃えて『狂っている』というクロエの十倍以上に決まっているだろう」

「え――えぇえ!!?」

「言ったはずだ――<狼>の愛は、一途で、重い」

 はぁっ……と切ない吐息を漏らし、グレイは再び顔を近づける。

「愛している、ティア。――今更、逃げたいと言っても聞けぬ。クロエがナツメにしたように、お前を監禁してでも私は決してお前を手放すことは出来ない」

「か――監禁!!?」

「あぁ――こんな気持ちは初めてだ。本当に、言われた通りだな。この匂いは、思考を狂わせる。堪らない――」

 言いながら、スンスン、と首筋に顔をうずめて匂いを嗅ぐ。ぞわっ……と言い知れぬ恐怖に身を竦めるが、がっちりと身体を抱き留められている状態では、身を引くことすらできなかった。

「理性的な部分は、一連の事態の後処理を進めろと囁いているが――駄目だ。こんな甘美な匂いを漂わせるティアを前に、我慢など効くはずがない」

「えぇえ!!?」

「今すぐお前を全て私のものにしたい。――このまま抱いて良いか?」

「!!??」

 キスさえ経験のなかった少女に、この男はいったい何を言っているのか。目を白黒させて、ぶんぶんと必死に首を振って拒否を示す。

「なぜだ?確かに繁殖期ではないから子供は出来ないが――」

「いやいやいやいやそういう問題じゃないから!!!!」

 赤い顔など通り越し、真っ青な顔で必死に抵抗する。何とかその腕を逃れようと身を捩るも、伝説の白狼の腕はピクリともしない。

「っていうか、涼しい顔で繁殖行為とか言ってた人が何言って――!」

「そうだな。私も自分で自分の変化に戸惑っている。あんな行為は所詮、後世に種を残すためのものだと思っていたが――今はそんなことは関係なく、お前を抱きたい。仮に今、そこに転がっている<夜>が復活したとしても、私はお前を抱くことを優先するだろう」

「ちょ、ちょっと!!?何言ってんの!?」

「これから<狼>種族に舞い起こるであろう混乱も、危機も、何も関係ない。そのせいで長を下ろされても構わない。ティア、お前が欲しいんだ――」

「っ――――!」

 バッと涙目のまま必死に顔を捩り、ハーティアはギャラリーへと視線を投げる。

 シュサ、クロエ、マシロ。

 自発的に助けてくれるような者はいないだろうが――それでも、可能性があるとすれば。

「助けてっ――マシロさん、助けてっ!」

 圧倒的強者を前に、いつだって怯むことのなかった瞳に涙をいっぱいに溜めて必死に懇願する姿に、マシロは動揺する。

「ぐ、グレイ――あの、ちょっと、さすがに可哀想って言うか――」

 なんだかんだで一番の常識人であるマシロが、同情のあまりおずおずと口を開きかけたとき。

「そんなにあ奴らの目が気になるなら、誰の目も届かぬ所へ行こう。――ティア、愛している。永遠に、もう二度と放しはしない」

「ちょ、待っ――――」

 背筋が寒くなるほどの狂愛を感じさせる発言に、ハーティアが慌てるのにも構わず。

 ゴキンッ

 ふぉんっ……

 胸焼けしそうなラブシーンを繰り広げていた、今後の展開が酷く心配なカップルは、一瞬でその場から姿を消していた。

「……え。これ、どうやって帰れと……?」

 ぐるりと泉に囲まれた千年樹の根元で、マシロの呆然とした響きだけが、虚しく響いたのだった――


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