第2話

「……ふむ。早いな、お前たち」

 物音と気配に、ピクッ……と眠っていたクロエの瞼が開く。くぁ、と欠伸を漏らしながら声の方に視線をやると、白銀の<狼>がいつものように余裕と威厳の溢れる風格を伴って入室してくるところだった。

 ――黄金の髪を持つ美女をその脇に侍らせるようにして。

「「「――――――……」」」

 思わずその場にいる全員の視線が、グレイの傍らに侍る女に注がれる。

 グレイにしっかりと腰を抱かれるようにしてぴったりと寄り添うその距離感は、人前に現れるときの距離としては近すぎると言わざるを得ない。いかに番と言えども、近すぎる。

 何せ――普段のクロエとナツメより、近い。

 そしてもっと強烈な違和感を発するのは、その女の表情だ。

 人前で異常なほど密着するその状況に、恥ずかしがるでもなく、良い男に愛されている優越に浸るでもなく――

「――――……」

 ――無。

 その表情を言葉にするなら、それが的確だろう。

 虚無。

 ナツメと比較しても引けを取らないほどの美しい造形に、彼女と同様の――彼女以上の虚無を漂わせ、笑顔の一つもなく、ただ冷たい能面のような顔でされるがままに佇んでいる。

(――え……あれ、これ、突っ込んでいいところ……?)

 ぱちぱち、と目を瞬いて、どんな言葉を発するべきか悩む常識人のマシロの胸中などグレイが察するはずもなく。

 当然、といった様子で隣の美少女――ハーティアを伴ったまま、いつもの彼の席へと向かう。

「お前も掛けるか?椅子を――」

 ハーティアに回した手とは逆の手を鳴らそうとするのを、ハーティアは無言のままゆるく手で制し、ふるふると首を振る。その顔には、相変わらず何の感情も見えない。

「……ふむ……?」

 軽く首を傾げた後、グレイは愛する番の意向に沿うという決断をしたようだ。己のみいつもの席に腰掛け、傍らに立ったままのハーティアに腕を回し、そのまま再び密着する。

「――――あの。マシロさん」

「何も言わないで」

 固まったまま控えめな声で助けを求めるように状況説明を請おうとしたセオドアの言葉を遮る。

「ふむ。お前が黒狼の新しい族長か。――ラウンジールの分家出身、と言っていたな」

 言われて、ハッとセオドアは我に返る。予想外の事態に硬直していたが、本来開口一番、彼の方から謝罪をすべきだった。ガタンッと椅子を鳴らして立ち上がる。

「はっ、はい!セオドア・ラウンジールと申します!こ、この度は、我が一族の恥ずべき失態により大変なご迷惑をおかけし――」

「あぁ、構わん。全ては終わったことだ。お前たち黒狼の中で、納得する答えが出ているのなら、それでいい。他の<狼>種族からも、不当な糾弾など無いように取り計らう」

「ぁ――ありがとうございます――!」

 何でもないことのように言う<狼>の長に、その器の大きさに感動しながら勢いよく頭を下げる。

「我ら一族――黒狼すべてが、今回のことを重く受け止めております。二度と謀反を企てるものがないよう、一族全員で互いに目を光らせ、再び序列の意識を強く持っていくつもりです」

「……ふむ。まぁ、そう固く考えるな。――序列、と言っても、上の者が間違うこともある。その場合、序列を過度に意識する考えは、良い結果を導かぬ。千年前の大戦で、私はそれを痛烈に経験した。上を崇め、従うことだけが正義ではない。……勿論、規律を守るための序列は必要だが、それ以外の観点では、各々が、<狼>という種族をよりよくするため、という認識で意識を高めてくれることを私は望む」

「はっ……はいっ……!」

「それに、ここに集う者に序列はない。対外的に、私が<狼>種族の長ということになってはいるが、そんなものは長く生きている年の功があるが故だけだ。この族長会議の場においては、私は白狼の族長だ。我々は、その意味で対等な立場だ。私が間違っていると思ったときは、遠慮などせず正直に伝えてほしい」

「は――はいっ……!」

 千年を生きているとは思えぬ若々しい外見とは似つかず、出てくる言葉は落ち着きはらって威厳に満ちた懐の深い長としての理想の言葉ばかりだった。セオドアは、今まで聞いてきたグレイに関する数々の逸話や、先ほどマシロから聞いたばかりのグレイの話を脳裏に描き、噂に偽りがなかったことを確信する。そんな素晴らしい<狼>が長に立っていて、その下で働けることの喜びすら感じた。

「まぁ、そう肩ひじ張らずに掛けるがよい。我らは同志だ」

「は、はい、グレイさん!失礼します!」

「……呼び捨てでいい。……"さん"付けされるのは好きではない」

「へ!?……あ、は、はい」

 渋面を造ったグレイに、椅子に掛けながら虚を突かれたようにうなずく。

「その昔、何度言っても頑なに"さん"付けして呼ぶ者がいてな。――昔は気にせず流せただろうが、今の私にそれは、酷く難しい。あまりその者を思い起こすことをされると、機嫌が悪くなる。不必要に空気を悪くしたいわけではないのだ。呼び捨てにしてくれ」

「えっ……あ……は、はい……グレイ」

「あぁ。それでいい」 

 満足げにうなずくグレイを見て、セオドアは助けを求めるようにマシロを見る。

 どうして今の話の流れの中で、ハーティアをより強く抱きしめ、独占欲を露わにするように身体を強く密着させたのかがわからなかったからだ。

「……やめて。見ないで。あたしにもわかんないから」

 マシロもまたその助けを求める視線から逃れるようにして視線をそらして呻く。耳が垂れ下がっているのを見るに、現実逃避をしたい気持ちが強いようだ。

「では、会議を始めよう。今日の議題は、セオドアの顔合わせと、例の事件から二週間が経った後の各種族の現状報告と課題選定だ。マシロはシュサの現状報告も忘れるな。……状況によって、他種族の助けがいるような事態があれば、申し出ろ。――では、最初は東だ。クロエ」

「あぁ。――いや、待て」

 当たり前のように話を振られて、普通に答えかけて、クロエが我に返り待ったをかける。

「?……なんだ。三人の中ではお前が一番年長者で、族長歴が長い。初めて参加するセオドアのためにも、報告時の手本を――」

「いや違う。――その女を侍らせたまま進めるつもりか?」

「――……む?」

 ぱちり、と黄金の瞳が一つ瞬きをする。

 クロエは呆れた顔で言葉を続けた。

「お前があまりに当たり前のように進行するせいで、ナツメを下がらせる機会も逸した。……お前が『蜜月』で浮かれる気持ちはわからんでもないが、忘れるとはお前も相当色ぼけているな」

「……ふむ。しまった。私としたことが」

 言って、グレイはハーティアを見上げる。

「ティア、すまないがしばし別室で――」

 グレイの言葉が、中途半端に途切れる。

 ハーティアが、グレイを見下ろしたせいだろう。

 その瑠璃色の瞳には――この部屋に入ってきて初めて、"感情"が宿っている。

 それを言葉にするなら――"期待"。

 キラキラと輝くその瞳に、グレイは一瞬言葉を失い――

「――――やはり、このまま進めぬか?」

「――は?」

 クロエの眉間に、これ以上なく深いしわが刻まれる。しかしグレイは、ハーティアから視線を一切そらすことなく口を開く。

「……ティアが、いつも以上に美しい」

「は――?」

「こんなティアを見たのは久しぶりだ――」

「――――!」

 言葉と共にぐいっと無理やり手を引かれ、ハーティアの瞳に驚きが宿る。

「愛しい。とてもではないが、離れがたい――」

「っ……!」

「あぁティア――愛している――」

 熱に浮かされたように囁き、グレイは人目など一切憚ることなく、躊躇なくその花弁のような美しい唇に己の唇を重ねた。

「――あの。マシロさん」

「だからお願いだから助けを求めないで……」

 目の前で急にねっとりと濃厚な口づけを始めた二人を前に、セオドアとマシロは今日三度目のやり取りを交わす。

 マシロは己の表情を自覚する。

 そうそれは――つい数日前までは、クロエとナツメを見るときの表情だった。

 砂を吐きそうなほどに甘い、溺愛カップルを見る胸焼けしそうな気持ち。

(あぁ――やっぱり、二週間前から、変わってないのね……)

 マシロは、心を無にしながら、半眼のまま二週間前の記憶をたどった。

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