1. El chico que no existe

1-1.

 「緊急事態宣言」とかいうとんでもないワードが始まって、もう一年以上がたった。最初のころはそれはもう、学校の消火器ボタンをたたき割るようなインパクトだった。営業自粛になった店舗の連中も、給料は下がるっていうのにやる気満々で、自分もなんだかわからないがやってやろうじゃねえかなんて思ったりもした。それがもう、なんだ。路線バスの停止ボタンを押す程度にしか感じない。


 人間は慣れていくもんだなぁ。空一面真っ青な中、カブに乗りながらマークは思った。今日も絶好調に晴れている。5月なのに33度を超えてクソ暑い。ハーフパンツとサンダルにしておいて本当によかった。


 配達用のこのカブは、例年なら夏日大歓迎の瓶ビール運搬中だったりする。今は貨物はすっからかんだ。ついでに自分の財布もすっからかんで、今月のスマホ代は多分無理かもしれない。契約者になっている叔父はきっと激怒するだろう。


 赤羽駅の高架下をくぐり、駅前のロータリーを越えた。雑居ビルをぐるっと回ると、ビル窓から反射した日差しが強烈に目を焼いてきた。強引に顔のパーツを中心に持ってきながらカブを飛ばす。今日は本当に日差しが強い。


 路地に入り、雑居ビルが並ぶ道を進む。


 コンクリ打ちっぱなしの建物の前で止まった。建物の1階、路面店の入り口に、バカでかい文字で「Mabuhay Bussan」と書かれた看板が、下ろされたシャッターの上に掲げられている。


 カブのエンジンを切り、店舗の脇へ向かった。隣のビルとの隙間にある、狭い日陰の駐輪場へもっていく。


「あの」


 日陰に入った瞬間、声にのけぞってしまった。


 真横、日の当たらない配管むき出しの隙間に、薄手のパーカーを着た小学生くらいの少年が隠れていた。


「あの。この店の人ですか?」

「そうだけど」


 配管の陰で体を縮こませたまま、少年が探るように口を開いた。


「オーノギ・アランって人、いませんか」

「オーノギ・アラン?」


 怪訝そうなマークの声に、少年がさらに縮こまった。


「アランはいねえよ」


 ヘルメットを脱ぎ、日陰のスペースにカブを固定した。


「どんな用事なん?内容によるけど、他のやつでなんとかなるかもしんねえし」


 一瞬躊躇した後、消え入りそうな声で少年が聞いた。


「シーラ・アヘントーって知りませんか」

「シーラ・アヘントー?」


 どっかで聞いたことある気がする。アヘントー。


「フィリピン人?」

「はい」


 あんまり聞かない苗字だ。でも聞き覚えはある。


 困ったな、とマークが思った。少年の眉が、前髪で隠れていてもわかるくらいに「ハ」の字になっている。こんな切羽詰まった感じで聞いてくるやつそうそう見ない。多分、今自分の眉もこんな感じになってる気がする。


 というか、なんでこいつアランに会いに来てんだ?


「その」

 言いにくそうにマークが口を開いた。「で、どんな用事なん?」


 マークの言葉に少年が固まった。


 なんだぁ~こいつは~。はっきりと~、物を~、言えよ~。俺が悪いみたいじゃねえか。配管の陰でさらに小さくなっている少年を見ながら坊主頭を掻いた。


「悪いけど、アランはいねえよ。そのシーラ・アヘントーっての、アランが知ってるって感じなん?」


「多分、そうだと思います」


 多分そう、ってなんだ。


 わけわかんねえなと思いながら、ヘルメットをかごにぶち込んだ。


「ちょっと待ってろよ」


 ポケットからスマホを取り出した。通話をかける。1、2、数コール。


 出ない。


 10コール目で切断し、メッセージを送った。


 スマホを後ろのポケットにしまい、踵を返した。ビル陰から表に出て、照り返しのきつい店舗入り口のシャッターへ向かった。


 少年が、日光を手で遮りながら、ビルの隙間から駆け足で付いてきた。一瞥してシャッターに鍵を差し、取っ手をつかんだ。


「まあ、今連絡してっから、ちょっと熱っ」

 反射的にシャッターから手を離した。むき出しのシャッターが死ぬほど高温になっている。


 なんなんだ~畜生~。クソ暑いしわけわかんねえのはいるし、もうマジでなんなんだ~。やってられるかと思いながら、バイク用の手袋をつけ全力でシャッターを押し上げた。


 シャッターを上げ終わったところでケツが振動した。ポケットに入れていたスマホを取り出し、画面を見る。


「お」


 マークが声を出した。後ろについてきた少年に画面を見せる。


 画面に「すぐ行く」の文字が表示されていた。

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