俺はあいつのことを何も知らない
ぽぽぽんすぽ
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道路わきの電信柱が、シャーベット状になった雪で覆われている。踏まれて、固まって、排ガスを吸い込んで。より一層灰色になる。
車のヘッドライトを、スモールランプから通常に切り替えた。
雪道を運転するなんて思いもしなかった。ハンドルを握る男が思った。自分の国では雪なんて降らない。自分よりも前に来ていた同郷の人間が、先輩面をしながら3年ぶりの大雪だと言っていた。日本に来た最初のころ、初めて見た雪の粒は感動したものだったが、今朝方自宅を出て印象が変わった。実際に積もるとただただ面倒だった。この車は借り物だが、結構な値段がすることくらいは自分でもわかる。下手に傷でもつけたら自分の給料が軽く吹っ飛ぶだろう。
片道一車線の狭い路地に入った。
もう夕方4時を越えている。雪の反射で明るく感じるが、この時期はすぐに暗くなる。1時間もしないうちに完全に夜になるだろう。1年目にはわからなかった。
路地をくぐり、小さな公園の前を過ぎる。
道幅が少し広がった場所で車を止めた。
日が完全に落ちていた。シートベルトだけ外し、エンジンはそのままにした。暖房が無ければ耐えられない。運転席に座ったまま、脱いである上着のポケットに手を突っ込み携帯を取り出した。
番号を押し、コール音を耳に当てた。
視線をフロントガラスの奥に向けた。公園の脇からすぐ見える2階建ての木造アパート。多分、安いんだろう。外にむき出しの、2階につながる鉄の階段が錆びて崩れている。
ここの101の住人が電話に出ることになっている。
コール音を10回。切る。再度コール。
通話を切り、投げやりに携帯をポケットに突っ込んだ。ダウンジャケットを取り出し、車の中で羽織る。ドアの取っ手を握り、一瞬気を引き締めて車のドアを開けた。
耳が切られるような感覚がした。寒風が顔面を叩きつけてくる。2年目になったが寒さは一向に慣れない。
アパートのほうへ向かった。コンクリートで作られた安っぽい段差を上り、101のドアの前に立った。
ペンキの禿げた木のドアを叩く。
「いますか」
反応はない。
もう一度、強めにドアを叩いた。「迎えです」
ドアの奥からは、何の反応もない。
玄関の隣にある鉄格子付きの小窓を見た。じんわりと、すりガラス越しに光が漏れている。ドアの上の電気メーターは高速回転をしていた。中にいるはずだ。
玄関から離れた。アパートの入り口へ戻り、2階へ続くむき出しのさびた鉄階段を回る。建物の背面にある、苔に覆われたブロック塀に足を向けた。
入口の反対側は、誰も踏み込んでないのか、一面真っ白の雪の上で、室外機が音を立てて動いていた。
101の裏側に回った。窓につけられた遮光カーテンの端から光が漏れている。ベランダもないこの窓は、鉄格子と窓まで10cm程度の隙間しかない。鉄格子に顔を密着させ、部屋の内側を覗き込んだ。
人影だ。
「マホさん」鉄格子越しに声を上げた。「仕事です」
瞬間カーテンが窓に押し付けられた。思わぬ反応に体がのけぞる。同時に顔に鋭い痛みが走った。のけぞった拍子で、凍った鉄格子に顔の皮膚がもってかれた。
「クソ!」顔を手で触る。血は出ていない。
一気に顔が火照るのを感じた。同時に痛みが消える。
すぐさま玄関に回った。薄い木のドアを強く叩く。
「マホさん!仕事!」出てくるまで叩いてやる。
声にならない声が出て突き飛ばされた。いきなり開いたドアが鼻づらにぶち当たったようだ。固まった雪で転びそうになる中、ブロック塀に肩から倒れこみ転倒を回避した。
完全に頭にきた。
閉じようとするドアの取っ手を無理やり引いた。引っ張った勢いで若い痩せた金髪の男が転げ落ちてきた。
転げ落ちた男の、引きつった顔と目が合った。
瞬間、男がはだしのまま、水を掻くように前のめりに走った。「お前!」思わず声が出たが、追いかける間もなく男はブロック塀の角を曲がり見えなくなった。
口に何かが垂れてきたことに気が付いた。鉄の味がする。鼻に手を当てた。鼻血が出ている。
頭にきた。完全に頭に来た。頭にきてしょうがないが、さっきの男を追いかける理由がない。大きく息を吸う。それよりも仕事だ。
「マホさん!」開いたドアから部屋に上がる。「いる?いるなら電話出る!」
「来んな!」
1コンロだけの狭いキッチンを抜けたあたりで声がした。ドアで閉じられた部屋の奥から悲鳴に似た女の声がした。
部屋のドアに手をかけた。引くタイプじゃない。片手で押した。一瞬開いた後、すぐに押し戻された。部屋の向こうから、体重をかけて閉めようとしている。
どこまでも頭にくる。両手で力を込めドアを押し開けた。
押し入った部屋の中を見た。押し開けられた反動でこたつ布団へ投げ出された女が、起き上がりながらこちらをにらんできた。
ああ、と思った。失敗した。ここまでやる必要はなかった。
にらんでくる女の表情が一面恐怖を訴えている。
女の視線が、横目でこたつの奥に向かった。視線を追う。うつぶせになっている、小さな赤ちゃんが寝ていた。
一瞬だった。一瞬で、頭に上った血が強烈に引いていくのが分かった。
この女の表情は、自分に対する恐怖だけではない。あの男が逃げたのも、自分への恐怖ではなかった。
こたつの奥でうつぶせになっている小さな生き物は、ぴくりとも動いていなかった。
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