智賢あさがお
夕食を終えて、優菜たちは自室へ戻ってきていた。
学生寮では、宿泊の申請を通せば、食事が出る。なので、優菜は智と一緒に食事を摂ったのだが、その場に魅由の姿は無かった。
思い悩んでいなければいいけれど。スマホのメッセージアプリは未読のままだ。優菜のメッセージには即既読&返信のある魅由にしてはかなりの異常事態といえる。
だが、部屋にはいないようだし、優菜としては悶々とした気持ちを持て余すしか術は無いのだが。
そして、優菜にはもう一つ悩んでいる事がある。
今も耳を澄ますと聞こえてくる水音。
智がお風呂に入っているのだが……優菜はこの計画を実行すべきか悩んでいる。
一葉のラボを退席した後も、優菜は智に一歩踏み出そうかどうか苦悩していた。だが、結局はその一歩の勇気を持てぬまま、今に至るわけだが。
だが、このままではいけないとも思う。
そこで思いついた作戦なのだが。いや、これは我らが母親である優未のアイデアか。
「あーもー!」
ネガティブになっている心を切り替えるために、声を出す。よし、勇気出た。本当は無いけど、出たという事にする。そんな無理矢理な理屈で自分を納得させながら、優菜は服を脱ぎ出した。
「うわっ!?」
ユニットバスの電気が突然消えて、驚きの声を上げる智。それを扉越しに聞きながら、そっとユニットバスに突入する。
扉の開く音に智がこちらを向く。
「優ちゃん!?なんか急に電気が消えたのだが!?ってギャー!!」
暗闇の中で響き渡る智の悲鳴、というか、絶叫の方が正しいか。というか、ギャー!!は酷くない?とにかく、驚きまくっている智は湯船に浸かっている。そこへ優菜は思い切って入り込む。
「なっ、なっ、ななななっ!?」
突然の事にパニクる智。それに構わず湯船に浸かる。あ、かけ湯忘れた。けど、今更遅いか。
「ふぅ、良い湯加減だね、智」
昔、母親に同じ事をされた時の事を思い出しながら、声をかける。
中学二年のあの事件後、何があったのかを両親に話せないまま不登校になってしまった優菜に対して、母親が実行した作戦である。
名付けて、暗闇の中で裸のお付き合い大作戦、とは、我らが母君の命名である。
とにかく。
暗闇で裸なら心を割って話せる。という事らしい。その効果は優菜が身を以て体験している。だが、実証例が優菜だけなので、その確実性は不明なのだが、その事に気付ける余裕は全く無いようだ。
ともあれ。
優菜は今、暗闇のユニットバスの湯船で、智と見合っている。
やがて無言のまま時が過ぎると、暗闇に目が慣れてくる。
目の前にいる智は、その全身を腕に抱き、湯船の隅っこで怯えるようにこちらを見ている。
その姿は、猛獣に追い詰められた小動物のようで、何だかいけない事をしているような気分になってくる。
って、いけないいけない。まずはこの警戒を解かないと。
「あー、そういえば、どうして暗い所にずっといると次第に見えるようになるんだろうね?」
その疑問は、今、優菜からは智の姿が丸見えだぞ、と言っているようなものだが、その事に全く気付けてない。現に、その言葉を聞いて、智の警戒レベルが上がったようだ。ぎゅっと全身を抱く腕に力が籠る。
「……それは、視紅が溜まってきているからだろう」
「視紅?」
「目の網膜にある紫紅色の感光物質の事さ。光を当てると化学変化を起こして即座に退色するが、暗闇の中にいると次第に回復して、今みたいに夜目が利くようになるのだよ」
すらすらと語られる意味を、優菜は果たして理解できているだろうか。顔にはてなが浮かんでいそうなとぼけた表情を見て、智が少し警戒を解く。
「要するに、暗闇の中で溜まっていく必殺技ポイントだとイメージするといい。光を浴びると、そのポイントはゼロになってしまうんだ」
智が、理解しやすいように、ゲームに例えてくれる。
「ああ、なるほど」
それなら分かりやすい。優菜自身、ゲームはあまりしないが、妹の未来(みく)が好きで、よく一緒に遊んでいた。
「……それで?」
「ん?」
「そんな事を聞きたくて、この状況を作ったのかね?」
今のやり取りで、ある程度冷静さを取り戻したのか、智が優菜に尋ねてくる。
当然だが、そんなわけがない。けど、どう切り出したらいいものか。確か、我らが母君は優菜を膝の上に乗せて「どうしたの?」って聞いてくれた。
その時の体温を、温かい感触を、頭を優しく撫でる手のひらを、優菜は今でも鮮明に覚えている。
だが、それを、今の智にできるだろうか。しても、いいのだろうか。ここまで来ておいて尚悩むのは、優菜らしいといえばらしいのだが。
「……そういえば、優ちゃんは、夏奈ちゃんとも一緒にお風呂に入ってたな」
煮え切らない優菜に智が助け舟を出す。これではどちらが悩み事を抱えているのか、分かったものでは無い。
「あ、うん」
あれは、歌劇同好会の初練習の日か。ランニングが終わって休んでいたところに、夏奈子が突っ込んできて、噴水に落とされたっけ。
一緒に落ちた魅由とルミはそれぞれの自室へ、夏奈子は寮生ではないので、優菜の部屋で一緒にお風呂に入ったのだが、未だに一緒に入る意味があったのかは分からないままだ。
そういえば、夏奈子は平然と優菜の膝の上に乗ってきていたな。智も乗ってこないだろうか。このままでは難しいか。
「智も、夏奈子と一緒にお風呂に入ったりするの?」
智と夏奈子は同じ家に住んでいるらしい。智の叔母の大場嗣縁さんの家、苗字からして、夏奈子のお母さんだろうか。でも、夏奈子は嗣って呼んでいたし、違うのかも。
「そうだね。最近はあまりないが、昔はいつも一緒に入っていたよ」
その時を懐かしんでいるのか、上を見上げる。
「そういえば、あの時も……こんな感じだったかな」
「あの時?」
「私が嗣ちゃんの家に住むようになって直ぐの頃かな。新しい生活に馴染めていなかった私がお風呂に入っていると、今みたいに夏奈ちゃんが入ってきて」
「夏奈子が?」
優菜と同じような事をしていたのか。これで実例が一つ増えたという事になる。
「まぁ、流石に電気は消さなかったけど」
そう言って、明かりの付いていない電球をじっと見つめる。
「それで、湯船に入っていた私を後ろから抱きかかえて、膝の上に乗せて」
その時の様子を思い出したのか、表情が和らいでいく。
「暴れる私の頭を撫でてくれたんだ。大丈夫だよって。ここにいてもいいんだよって」
「そっか……夏奈子、優しいね」
何というか、夏奈子らしいな。そう思っているだけに、先程の部室での言葉が胸に刺さって抜けずにいる。
「まぁ、いきなり体を持ち上げられた時は流石に驚いたがね」
やれやれといった感じで、でも嬉しそうに。そういう所もパワフルな夏奈子らしい。
優菜にもできるだろうか。
勿論、智の体を持ち上げて、とかは無理だろうけど。
「智」
だから、両手を広げる。智の瞳を見て。
「……全く、優ちゃんも夏奈ちゃんも、私を甘やかせてどうするつもりなのやら」
智の体が動き、優菜の胸にその小さな背中が凭れ掛かってくる。広げた翼を畳むように包み込むと、小さな指がそっと掴んでくる。
「物心がついた頃には、あの人と二人暮らしだった。それほど裕福では無かったけど、慎ましく暮らしていた……」
そう言って一つ間を置く。少しだけ、胸に掛かる重みが増す。
「私は……小さい頃から博識でね。あれは幼稚舎からの帰り道だったかな。飛行機雲が見えたから、その発生する仕組みを得意げに話したんだ」
「飛行機雲の?」
優菜も何度か見た事がある。でも、どうしてそれが発生するかなんて、全く知らないし、疑問に思ったことも無かった。
「それを聞いたあの人はね、一言、気持ち悪いって」
「えっ?」
気持ち悪いって……実の娘に対して……そんなのって。
「それからの、あの人の私を見る目は明らかに変わったよ。それと同時に、自分の娘を取り戻そうと躍起になった。可愛らしい恰好、可愛らしい振る舞い、可愛らしい言葉使い……私を自分の理想の娘に作り替えようとしたんだ」
それは……智にとってどのような日々だったのだろうか。
「けど、それはお互い上手くいかなくて。次第にあの人が家に帰ってこなくなる日が増えていった……」
「家に帰ってこないって……その間、智はどうしてたの?」
「幸い、私は色々と知っていたし、その知識で出来る事もたくさんあった。冷蔵庫には買い溜めされた食料もあったし、掃除や洗濯も一通りできたから、生活する分には支障は無かったよ」
それでも、子どもが一人で暮らす事の苦労は、優菜でも想像できる。いや、想像すらできない困難もあっただろう。
「でも、お金だけは持ってなかったから。あの人がいない間に食料が少なくなってくると、何とか節約したりして。酷い時は、水だけなんて日もあったかな」
あはは、と笑う智は今どんな表情をしているのだろう。優菜は、どんな表情でそれを聞いているのだろう。胸の奥から込み上げてくるものに飲み込まれそうになる。
「それでも、小学校に通っていたから給食は食べられたし、しばらく我慢すれば戻ってきてくれたから。でも……」
優菜の腕を掴んでいた小さな指に力が籠る。それは小さな痛みとなって優菜を傷付ける。その身も、心も。
「あの時は違った。あの人はずっと帰ってこなくて。食べ物も、洗濯粉も、石鹸も、シャンプーも、歯磨き粉も、全部無くなっても戻ってこなくて」
声が震えている。もう止めてほしい。そんな辛い事、思い出さないでほしい。でも、思い出させたのは優菜だ。こんな酷い思い出を語らせているのは他でもない優菜だから。
だから、最後まで聞かないといけない。どれほど辛くて、張り裂けそうでも。
「それでも、いつかは戻ってきてくれるって信じていたのに……ある日、小学校から帰ってきたら、家の中の物が全部無くなっていて……」
腕に突き刺さる痛み毎、小さな体を抱きしめる。
「何も無い家を見て、気付いてしまったんだ」
私は捨てられたのだと。
「それでも、智は悩んでいるんだ」
お風呂から上がり、洗面所で智の髪を乾かしている。智の髪は長い。ドライヤーの温風が全てを乾かすには今しばらく時間がかかりそうだ。
「我ながら、愚かだとは思うよ」
智が自嘲する。
「実は、嗣ちゃんの家でお世話になると決まった時、養子に来ないかって言われたんだ」
養子の話はあったのか。けど、智はそれを断った。
「それはきっと、心のどこかでは信じていたからなんだと思う。いつかは迎えに来てくれるって。いつかは分かってくれるって」
そして、そのいつかのうち、一つは今、現実に起こった。
「けど、やっぱり半ば諦めていたんだろうね。昨日、あの人の顔を久しぶりに見て、我を忘れて狼狽えてしまったよ」
結果、ここへ逃げてきてしまった。
「でも、今日一日を過ごして、あの人とも話して、もしかしたら、今度こそ上手くいくんじゃないかって思ってしまったんだ」
それは希望と呼ぶにはあまりにも脆い、泡沫の夢だ。でも……それでも……
「あの人がね、褒めてくれたんだ。この髪を」
「この髪を?」
優菜に身を委ねながら、智が静かに頷く。
「あの人は、女の子らしく髪を伸ばしなさいと、いつも言っていたから。だから、この髪を見て、言いつけを守ってくれて偉いわって」
今、優菜がドライヤーを当てながら櫛梳いている、ゆるふわできれいな髪。智の見た目にはとても似合っているが、日々のお手入れも大変そうな長すぎるそれは、その言葉に縛られていた時間の長さをも意味している。
正しく呪いだ。だが、その呪いは、智にとってはいつかを迎えるための希望の一つだったのだろう。
「ねぇ、優ちゃん。私は……どうしたらいいんだろう」
それは問いではない。智は背中を押してほしいのだ。今度こそ大丈夫だよって。今度こそ幸せになれるよって。
だから、抱きしめる。その小さな後姿を。
「優ちゃん?」
「私は……智がどんな選択をしても応援するよ」
例え何が起こったとしても、智の味方だからと。
「ありがとう、優ちゃん」
智の小さな指が優菜の腕を撫でる。腕に刺さった小さな痛みを和らげるかのように。優菜の心に刺さったまま抜けずにいる鈍い痛みが、いつか癒されますようにと。
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