湧き上がる不安

「んーっ」

 優菜は自室のユニットバスから出ると、軽く一伸びする。

 昨日から今日までの合宿では本当にたくさんの事があった。

 皆が練習に頑張る姿を見て、講堂での緑星祭に向けてのゲネプロ、そして、仕上がらなかった脚本。

 最後に関しては、本当に申し訳ないと思っている。だが、そんな優菜に対して皆は責めないでくれた。待ってくれると言ってくれた。

 その事が嬉しい。

 ただ、単純に嬉しい。

 だから……だからこそ、優菜はこの脚本を何としても仕上げなくてはいけない。

 その道筋も、皆が示してくれた。

 だが、本当に良いのだろうか。

 緑星祭まで一週間を切っている。

 この段階でシナリオの大幅改編。

 それは、同好会メンバーの負担だけではなく、他の部にも迷惑がかかる事だ。

 でも、それでも。

 私を待ってくれると、必ず良いものが出来ると信じてくれる人たちがいる。

 その事が唯々嬉しい。

 だから、何としても仕上げないと。

 皆の期待に応えるためにも。


 気合を入れ直した優菜のタブレットに学院からのメッセージが入る。

 タブレットに届くメッセージには生徒同士でやり取りするものの他に、学院側からの通知もある。

 今回入ってきたメッセージも学院側からのものだ。内容を確認すると、

「えっ?」

 通知は寮母さんからのものだった。

 寮母さんからメッセージが届くのは珍しくはない。荷物が届いたとか、その他諸々で通知が来る。

 だが、今回の通知でいえば、かなりイレギュラーな内容だった。

「……智が?」

 優菜はそのメッセージに込められた意味を図りかねぬまま、部屋を出て、エントランスへと向かった。




「智!」

 学生寮のエントランス。そこにあるラウンジのソファに果たして智の姿があった。

「あ、優ちゃん……」

 答える智の声は弱々しい。

「えっ、どうしたの?なにかあったの?夏奈子は?」

 思わず矢次早矢に質問をしてしまう優菜の肩に手がかかる。

「優菜ちゃん、落ち着いてください」

 振り向くと、魅由が息を切らせながら立っていた。


「それじゃあ、私は戻るわね」

 と、優菜たちに声をかけて立ち去っていくのは寮母の一人である、新城奈緒美だ。

「はい。ありがとうございます」

 魅由と二人、お辞儀をして見送る。

 彼女は、学院内でも何度か見かけた事がある。

 魅由にその事を尋ねると、一年生の学年担当教諭だという。

 星ノ杜にはクラスという概念が希薄だ。それは、大学のような単位制を取っているからなのだが、教員も担任制ではなく、学年担当として数人が当てられている。

 新城奈緒美もその内の一人、一年生の学年担当だ。

 そういえば、入学式の前に、教室に集まった生徒を講堂へと移動を促したのが彼女だった気がする。

 と、今はそんな事を考えている場合ではなかった。

「智、一体どうしたのです?」

 魅由が智の横に座り尋ねる。

 今の智はどう見ても正常ではない。魅由も智が心配なのだろう。その顔はいつもの無表情ではなく、慈愛に溢れている。

「みーちゃん……私……私は……」

 だが、智はなかなか話し出せずにいる。

 優菜は智の正面に座り、その手を取る。一瞬あさがおの体が強張るが、手を取ったのが優菜だと分かると力が抜ける。

「優ちゃん……」

 智はまだ混乱しているのか、優菜と魅由の名前を呼ぶくらいしか反応できずにいる。

「とりあえず、私の部屋に行こうか」

 そう言って立ち上がるが、智の体はソファに縫い付けられたかのように動かない。

「智、行きましょう」

 魅由が耳元で囁き、ようやく動き出す。

 いつも落ち着いた雰囲気で皆を見守ってくれている姿はどこにも無い。優菜はその先にある、見えない不安を隠そうと、智の手をしっかりと握った。


『あー、良かったー!智、そっちにいたんだ!』

 部屋に戻り、優菜は夏奈子に電話を掛けた。どうやら夏奈子たちの地元でもあさがおの突然の失踪は問題になっていたようだ。

「うん。今はお風呂に入ってるから話せないけど、どうする?」

 優菜の発言通り、あさがおは今、優菜の部屋のユニットバスで湯浴みをしている。一人にするのは不安だからと、優菜が一緒に入ろうかと提案したが、大丈夫と言われたので、その言葉を信じて部屋で待機している。

『うーん。優菜が迷惑でなかったら、今日は泊めさせてあげて!』

「うん。それはいいけど……」

「そもそも、こうなった経緯は何なのですか?」

 優菜の曖昧な返事の後に、魅由が説明を要求する。こういう時、魅由は事実関係をはっきりさせようとしがちだ。今はそれが有り難い。

 無論、今のあさがおを放り出すなんてこと、優菜には勿論、魅由にもできないだろう。だが、合宿の帰路に着いていた智が、どうして星ノ杜に戻ってきたのか。それだけははっきりさせておきたい。

『んー、それなんだけどねー』

 と、夏奈子が珍しく歯切れの悪い言い回しをする。

『えっ、代わるの?うん、いいけど』

 と思ったら、夏奈子が何やら向こう側で話し始める。

『えっと、優菜ー魅由―。今から嗣に代わるね』

 つぐ?代わるって事は、通話相手が代わるって事だろうか。困惑する優菜の耳に響く大人の声。

『こんばんは、初めまして、かな。私は大場嗣縁です』



―interlude side Asagao―


 湯船に浸かり、何も考えずに天井をじっと眺め続ける事で、漸く落ち着きを取り戻すことが出来た。

 それにしても、ここは優ちゃんの匂いがして、妙に落ち着く。夏奈ちゃんがよく優ちゃんにくっ付きたがるのも、この匂いに引かれているからだろうか。


 ……迷惑を、掛けてしまった。

 きっと、優ちゃんもみーちゃんも、気にしなくていいと言ってくれるだろうが、それでも申し訳ないと思ってしまう。

 特に優ちゃんは脚本を仕上げなくてはいけない大事な時期だ。それなのに、私的な問題で時間を取らせてしまった。

 いや、もしかしたら、これからもっと迷惑をかけてしまうかもしれないのだが。

 嗣ちゃんの家の玄関前で交わされた会話を思い出す。


 私は……どうなるんだろう……


 湧き上がる不安を、勢いよく立ち上がる事で吹き飛ばそうとする。

 ユニットバスの鏡には、痩せぎすの小さな身体が映り込んでいた。




 体を拭き、優ちゃんのTシャツを羽織ると、ユニットバスから出る。

 私は小さい。このTシャツの裾が長いせいもあって、膝まで隠れてしまう。

 部屋へ移動すると、優ちゃんとみーちゃんが電話をしていた。通話相手は、夏奈ちゃんか、もしかしたら嗣ちゃんかも知れない。

「……代わってもいい?」

 声をかけると、二人が振り向く。スマホから『智ちゃん?』と声がする。

「……はい」と優ちゃんがスマホを手渡してくれる。

「嗣ちゃん?」

『ええ』

 短い返事。こちらを気遣ってくれているのが分かる。

「あの人は?」

 単刀直入に聞いてみる。

『……今日は帰ったわ。でも……』

 また来る、か。

『とりあえず、今日はもう遅いからそちらに泊まりなさい。優菜さん達にはもうお願いしておいたから』

「うん、ありがとう……話したの?」理由を。

『いいえ』まだ、と。

「……ありがとう」

『あ、夏奈に代わるわね。』『智!?大丈夫!?』

 と、大きな声が私の鼓膜に響き渡る。本気で心配してくれる幼馴染につい笑みが浮かぶ。

「うむ、大丈夫だとも。というわけで今日は優ちゃんの部屋に泊まるぞ。羨ましかろう?」

 だからこそ心配はかけたくない。いつも通りに話してみたが、上手く出来ているかは自信が無い。

『えー、良いなー。私も今からそっち行ってもいい?』

 電話越しに『駄目よ!』という声が聞こえてくる。

「あはは。仕方が無いから、明日の朝、おいで」

『うん!絶対行くから!』

 だから待っていて、と。もう勝手にいなくならないで、と。夏奈ちゃんの気持ちが痛いほど伝わってきた。


― interlude end―



 静かな寝息が妙に耳につく。

 腕に絡みついてくる体温は夏奈子程では無いにしても高い。

「どうしてこうなったんだろう?」

 優菜はベッドで一人ごちる。


「いいのかね、私がベッドに寝て」

「うん、私は床でも大丈夫だから」

 あれから、あさがおの宿泊手続きを行って、無事申請が通ったところで、魅由は部屋に戻っていった。

 後はもう寝るだけなのだが、あさがおとどっちがベッドで寝るかの譲り合いが起こってしまい、

「うーむ。じゃあ半分という事で」

「半分?」


 という訳で、優菜は今、あさがおと一緒のベッドの中にいる。

 あさがおは、余程疲れていたのだろう。ベッドに入るなり、眠りについてしまった。優菜の左腕を抱き枕代わりにして。

 横で眠るあさがおに目を向ける。その躰は驚くほど小さい。今までは気にした事は無かった。いや、気が付かなかった。

 お風呂から出てきたあさがおの、優菜のTシャツを羽織ったその姿を見て、子どもみたいだな、と思ってしまった。そして、そう思ってしまった、そう思わせてしまうあさがおの躰は、まるで子どもの頃に成長を忘れてしまったかのようで、優菜は軽い衝撃を受けた。


 一体、合宿後のあさがおに何があったのだろう。本人は明日の同好会で話すと言っていた。その意味するところを考えると、優菜は不安で眠れなくなる。

 結局、優菜が眠りについたのは、日付が変わってからとなった。

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