第四章
私の幸せな世界
私がその存在に気が付いたのは、まだ一人で立つ事すらできない頃だった。
私の目に映るもの、それが何かと疑問に思う度、頭の中に響き渡る不可解なノイズ。
それらは、最初は理解できないものだったが、そのノイズや、他から得られるものを頼りに、徐々に理解できるようになった。
自力で立てるようになり、掴まり歩きから、自足歩行ができるようになる頃には、私は自分の意思を相手に伝えることが出来るようになっていた。勿論、言語野が発達するまでは、それらを口にすることはできなかったのだが。
でも、それは、私の疑問に逐一答えてくれる存在がいたからで。
だから、その事に、私は気が付かなかった。
一般的な幼児と呼ばれる存在としては、それが、異常であるという事を。
そして、事は起こる。起こるべくして。
あれは、幼稚舎からの帰り道。母親と一緒に歩きながら空を眺めていた時。
一筋の飛行機雲が視界を横切っていった。
私は母親にその存在を指差して伝えた。
母親も、過ぎ去っていく白い筋を見上げながら一言、不思議ね、と言った。
その時の母親の疑問に、私は答えてしまった。
得意げだった。母親が謎に思う事を、すらすらと答えてしまえる自分。それらは、私の頭の中にいる存在が教えてくれることであり、決して私の知識ではない。
だけど、その時の私は、その事に気が付いてなかった。
飛行機雲の発生するプロセスを得意げに説明した私に、母親は、
「……何言ってるの?気持ち悪い」
その時の貌が、目が、口調が。
私が子どもとして振舞える、最後に見たものとなった。
「優菜ちゃん、この台本はどうでしょう?」
「えー、優菜ー!こっちの方が面白そうだよ!?」
週明けの火曜日の放課後。場所は歌劇同好会部室にて。昨日一日で、協力部の手続きを終えた優菜は、来る緑星祭へ向けて、演目選びをしていた。
して、いたのだが。
「ちょっと待ってください、夏奈子。今は私が優菜ちゃんにお勧めをしているのですよ」
「いやいや、そう言っていっつも魅由ばっかじゃん!たまには私にも話させてよー!」
と、優菜の周りで、というか割と近くで言い合っているのは二人。
「なっ!べ、別にいつもというわけでは!」
そう言いつつも焦っているのは、艶やかな黒髪を肩口くらいで切り揃えた、日本人形のような可愛さを湛えた人物、粉雪魅由である。
その表情は、以前と比べて、格段に豊かになっている。その表れとしては、優菜以外に対しても、というところが大きい。特に夏奈子に対しては、実に様々な表情を見せている。これで仲良く出来れいれば、と、優菜はいつも思い悩むわけだが。
一方の夏奈子は、苗字を大庭という。苗字と名前を続けて呼ばれる事を嫌っているのは、実際に読んでいただければ分かるであろう。
腰まで伸びた髪を右耳辺りで豪快に一括りにしており、自身の感情を率直に反映する表情の豊かさと、底抜けの陽気さが魅力の、正しく太陽のような人物だ。
優菜たちは、そのパワフルさに振り回される日々を送っている。けど、それを迷惑と思えないのは、夏奈子の裏表の無い性格のお陰だろう。
「あ、あはは。二人とも、ちゃんと見るから順番にね」
そう言いながら、絹の様な黒髪を揺らし、魅由の手元にある台本を見る。
「ぶーぶー」
と、夏奈子が魅由におぶさってくる。背中に広がっていく熱を感じながら、相変わらず体温高いなぁ、と思う。
「どれどれ」
優菜の背中に体を預ける夏奈子を、魅由が羨ましそうに眺めている間に、優菜が台本を確認する。妖精が王子様に恋をして、自分の声と引き換えに人間となり、王子様と結ばれると言った内容だ。乙女な魅由が選ぶのも頷ける。
「んー、でも喋れなくなっちゃうのはつらいよー」
優菜の右肩から顔を出しながら、夏奈子が率直な感想を述べる。
「でも、最後は王子様の口づけで声が戻ってくるみたいだし、ハッピーエンドだよね」
この台本の元となったオペラの最後は悲劇で終わっていた筈だが、その辺りはアレンジが加えられているのだろう。台本の表紙にはタイトル、原作名と、その下の脚本の欄には有馬八重と記載されている。
「はい。やっぱり最後はハッピーエンドがいいですよね、優菜ちゃん」
魅由が自分の身を抱きながら、うっとりとしている。そういうところが乙女全開で、本当に可愛いなぁと思う。
「はい!じゃあ次!私の見て!」
夏奈子が優菜の背中越しに台本を見せてくる。というか、何時までくっついているつもりなのだろう。相変わらず、一度くっついたら中々離れないよね、この子は。
「ちょっと夏奈子。いつまで優菜ちゃんにくっついているつもりですか」
離れなさい、と言わんばかりに夏奈子を持ち上げようとするが、全く動く気配もない。寧ろ、離れまいとより密着してくる。
「えーっと」
優菜が夏奈子が持っている台本に目を通す。内容は、生き別れの母親を探す踊り子と、その母親の愛憎劇のようだ。最後は、すれ違いの末、踊り子の自害で終わる、か。
何だか、夏奈子にしては随分とドロドロした内容だ。
「ねぇ、夏奈子。どうしてこれが良いと思ったの?」
「んー?」と、背中から離れて、悩みだす。急に起き上がるものだから、その身を引っ張っていた魅由が「きゃっ」と言いながらふらつく。
「んー、なんかねー、このお母さん役が気になったんだー」
と、台本を呼び差す。その先にはお母さん役の台詞が書かれている。「私は、お前の探していた母親なのよ!」という告白に何か感じるものでもあったのだろうか。
魅由が、夏奈子が指差す台詞を読み上げると、瞬き一つして黙り込む。魅由にはいまいちピンとこなかったのだろうか。
こちらの表紙も確認する。脚本には先程と同じ名前が書かれていた。
「それじゃあ、今日はこれくらいにしましょうか」
そうこうしているうちに、部長の
「ふむ。もうこんな時間か。では夏奈ちゃん、帰るとするか」
と、読書に耽っていた人物が椅子から腰を上げる。だが、その高さは座っている時と変わらない。腰を優に超えるゆるふわな髪を揺らしながら、
「おっけー。優菜たちも一緒に帰るよね!?」
「あ、うん」
「一緒に、と言っても、校舎を出るくらいまでですが」
優菜と魅由は寮暮らし、夏奈子とあさがおは実家からの通いだ。ここ、星ノ杜の学生寮は学院内にあるので、放課後、どこかに寄り道するという事が起こらない。まぁ、しないだけで、出来ないことは無いのだが、優菜も魅由も、放課後に学院外に出た事は無い。ゴールデンウィーク前は校内を見て回ったり、学院の食堂でお喋りをしていたくらいだし、ゴールデンウィーク後は歌劇同好会での活動がメインとなっている。
「じゃあ、戸締りするよー」
今日、部室に集まれた五名が各々の荷物を持ち、部室を後にする。最後に出た燈火がタブレットを操作すると、部室の扉が施錠される。
「じゃあ、明日はいよいよ演目を決めるからねー。みんな、よーく考えて来てねー」
燈火が笑顔で四人を見回す。
「あの、良かったら燈火さんも一緒に帰りませんか?」
思い切って優菜が誘ってみる。
「あら、嬉し―。でもごめんなさいね。今日はこの後、生徒会長に呼ばれているの」
だが、既に予定があるみたいだ。残念そうに笑う燈火は、それでも誘われたことが嬉しいのだろう。その気持ちは優菜に伝わっている。
「では残念ですが、ここで失礼します」
「はい、また明日ねー」
生徒会室に向かっていく燈火の背を見送る。
「んじゃー、私たちも帰ろっかー!」
と、優菜の腕に夏奈子が絡みついてくる。
「ちょ、夏奈子!あなたはまた!」
すかさず魅由が引き剥がしにかかる。が、やはりびくともしない。
「んー?魅由も腕組みたいのー?」
と、引き離そうとする行動を勘違いしたのか、空いている腕で魅由も絡め取る。
「きゃっ」
「おお。両手に花だな、夏奈ちゃん」
「わっはっはー!智は足に捕まる?」
と、右足をひらひらさせる。
「いや、遠慮しておこう。流石に変だろう?」
「大丈夫!私、強い子!」
いや、あさがおが遠慮したのはそういう理由ではないのだが。ふと、反対側にいる魅由を見ると「……もぅ」と、口を尖らせていた。
―interlude side Asagao―
「智ー!ご飯できたよー!」
階下から夏奈ちゃんの私を呼ぶ声が聞こえる。部室から借り出した台本の一つを閉じ、自室を後にする。
既に廊下にはいい匂いが漂ってきている。
階段を降り、ダイニングに入ると、
「ああ、智ちゃん。ただいまー」
この家の大黒柱でもあり、私の叔母でもある、
「嗣ちゃん、おかえりー」
互いに挨拶をして、ハイタッチをする。と、そこへ、
「はーい、どうぞー!」
夏奈ちゃんが配膳してくれる。私と、夏奈ちゃんと、嗣ちゃんの三人分。
これが、大場家に住む全員だ。
「へー、じゃあいよいよ部活動らしくなってきたのね」
「うん!明日は演目を決めるんだ!」
夕食の団欒、話題は歌劇同好会の活動だ。
「その緑星祭というのは、生徒以外も見に行けるの?」
「ああ。部活動の発表の場という事で、一般開放されるのだよ」
「そうだ!嗣も見に来てよ!絶対楽しいから!」
自信満々に親指をぐっと立てる夏奈子。
「そうねぇ。せっかくだから見に行きたいわ」
嗣ちゃんの前向きな回答に、夏奈子の表情も輝き出す。入学式の時は来られなかったからか、嗣ちゃんも楽しみな様子だ。
「よーし!そうと決まれば、絶対いい舞台にしないとね!」
「然り。ここは盤石の態勢で挑まねばな」
夏奈ちゃんと意気投合する。こうなった時の私たちは無敵だ。いつもお世話になっている嗣ちゃんを楽しませるためにも、頑張り時だな。
「ふふっ、楽しみにしているわ」
そんな私たちを優しい目で見つめる嗣ちゃんを見て、私はなんて幸せなのだろうと実感する。
夏奈ちゃんがいて、嗣ちゃんがいて、私がいて。学校に行けば、優ちゃんやみーちゃんに、ルミ女史、三七三女史。
こんな日々がずっと続いてほしいと、思わずにはいられなかった。
― interlude end―
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