心から想う、あの人の手なら
「お待たせしました、優菜ちゃん」
「ありがとう、魅由」
週明けの月曜日。優菜と魅由は寮の食堂で朝食を摂ろうとしている。優菜がやかんを持ち、魅由のトレーに乗ったコップにお茶を注ぐ。
「はいどうぞ、魅由」
「ありがとうございます、優菜ちゃん」
魅由が笑顔でコップを受け取る。お茶を汲んだだけで、この喜び様である。優菜としては妙にこそばゆい。
「沙紗先輩、いただきましょうか」
そんな気持ちをごまかす様に、同席している沙紗に声をかける。
「うん……いただこうか……」
いつもとは違う気の抜けた返事に優菜と魅由が顔を見合わせる。
今日の沙紗は、最初からこんな感じである。
因みにルミは、早朝に寮を出ている。今日から緑星祭の参加申請が始まるという事で、学院側と最終打ち合わせがあると言っていた。
そんなわけで、今日は三人での朝食なのだが。
「はぁ~」
沙紗のローテンションぶりに、優菜はおろか、魅由までもが困惑している。と思ったら、魅由はさっさと食事を取り出した。どうやら、気にしても仕方が無いと思ったのだろう。
優菜も気にはなるが、とりあえず食事を摂る。一日の健康は朝食から、とは、我らが母である優未の口癖だ。
やがて、優菜たちが食事を終えても、沙紗は手も付けずにいる。まぁ、サンドイッチなので、冷める心配は無さそうではあるが。
流石に重症過ぎて心配なので、優菜が声をかける。
「あの、沙紗先輩、悩み事ですか?」
「んー」
「私でよかったら、相談に乗りますけど……」
「んー?」
と、漸くこちらを向く。その表情は、心ここにあらず、といったところか。
「えーっと」
困惑気味の優菜にも反応が薄い。
「優菜ちゃん、これはもうどうする事も出来なさそうですよ」
そう言いながら、魅由が右手を沙紗の顔の前で振ってみる。
「あー、魅由ちゃん。一つ聞いていい?」
魅由の左右に揺れる手をぼーっと目で追いながら、沙紗が反応を示す。
「……変な内容でなければ」
魅由があらかじめ釘を刺す。が、聞く気はあるようだ。
「うん。私って、どう?」
「はい?どう、とは?」
質問の意図を汲みかねて、魅由が聞き返す。
「だからー、魅由ちゃんから見て、私ってどうなのかなーって」
沙紗が随分と面倒な事を聞いてくる。だが、魅由からはそう見えなかったようで、
「どう、ですか……」
と、優菜の顔を見てくる。その表情は真剣だが、どう答えたらいいのか決めかねている様子だ。だから優菜は小さく頷く。それを見て、魅由の決意は固まったようだ。
「そうですね。一言で言うと傍若無人です。自分のしたい事を最優先とし、周りの迷惑も顧みず、今が楽しければ後はどうとでもなれ、と。そんな感じでしょうか」
ズバリ言い切った魅由に、沙紗があはは、と乾いた笑いを浮かべる。というか魅由、ぶっちゃけ過ぎでは。恐らく沙紗はそういう事は求めていない気がする。
「ですが、信念はあると思っています」
だが、魅由の次の一言に、沙紗の表情から笑みが消える。
「……信念?」
「はい。自分の行いが正しい、というのとはちょっと違うでしょうか。間違っていない……とも違いますね。それが、必ず良い方向に向かうのだと信じている、とでも言いましょうか」
魅由の意外な評価に、優菜は勿論、沙紗も驚いている。
「そして、間違ったと思ったら、素直に謝れる人です。だから、沙紗先輩は、その信念の思うがままに行動すればいいと思います」
それが、魅由の逆那沙紗に対する見解であった。
あ、でも、と付け加える。
「それでも、後先考えないのはどうかと思いますよ。よく考えて、よく廻りを見て、行動する事も覚えてください」
迷惑ですから、といった表情で食後のお茶を飲む。
「ふ、ふふふ……」
と、いつもの不気味な笑い声が聞こえてくる。魅由の表情も一瞬で警戒色に染まる。
「そうか!そうだった!私としたことが!」
と立ち上がりながら叫んだと思うと、朝食も放置して駆け出していく。
「えっ、沙紗先輩、朝食は!?」
「優菜ちゃんにあげる―!」
その返事が聞こえる頃には、既に食堂を飛び出していた。
その突然の出来事に、優菜と魅由は再び顔を見合わせる。
「とりあえず、これ、どうしようか?」
「……優菜ちゃん、まだ食べられます?」
優菜のお腹を気遣いつつも、食事のお残しを許さない魅由が、沙紗のトレーをこちらに引き寄せてきた。
登校時。
優菜は忘れ物を取りに、寮に戻ってきていた。
魅由も一緒に戻ると言い出したが、流石に悪いので先に教室で待っていてもらっている。
忘れ物をしっかりと持って、寮を出る。校舎へ向かい、中庭を歩いていると、
「あれ?」
中庭のガゼボの一つに、一人の見知らぬ生徒が座っていた。優菜はその生徒に見覚えがあった。先週末の放課後、三七三を探していた時に見かけた人だ。
と、そこで、違和感を感じる。
優菜は最初、見知らぬ顔だと思った。それなのに何故、先週末の放課後に見かけたと思ったのだろう。
この奇妙な感覚に、優菜の歩みが止まる。
時間はまだ余裕がある。優菜はガゼボに近寄っていき、思い切って声をかける。
「あの、おはようございます」
優菜の呼びかけに、顔をこちらに向ける。やっぱり見知らぬ顔だ。なのに、見覚えがある。
「……おはようございます」
優菜の困惑は挨拶を返されたことにより、霧散する。あれ、この人って……
「あの……どうかしましたか?」
固まった優菜を心配して声をかけてくれる見知らぬ顔。
「えっ。あ、いえ。ここで何しているのかなって思って」
返事をしながら、変じゃなかったかなと思う。まぁ、今は登校時間で、これから授業が始まる。まだ時間に余裕があるとはいえ、ここでのんびり寛ぐには早すぎる気もするし。
「……分からなくなって」
「分からない?」
優菜の鸚鵡返しに頷く見覚えのある生徒。何か悩み事だろうか。つい先日、優菜は三七三の悩み事の相談に乗った。結果としては、三七三が一人で立ち直ってくれたけど、その時の吹っ切れた笑顔はとても素敵だった。
だから、と思うのは傲慢だろうか。
この見覚えのある生徒の、その見知らぬ顔も笑顔にしたいと思うのは。
そして、今の優菜は割と強気だ。魅由と三七三の事もあり、でも自分なんかが、という後ろ向きな考えが薄くなっている。まぁ、調子に乗っていると言えなくもない。
だから、見覚えのある生徒の隣に腰掛ける。途端、見知らぬ顔が、困惑する。
あれ、間違えたかな、でも大丈夫なはず、と笑顔を作る。
その見知らぬ顔は、優菜から視線を外し、下を向いてしまう。
「あっ、えーっと。悩み事とか?」
その様子に焦る優菜。背伸びしようとして失敗した時の子どもの様な狼狽えぶりである。
だが、その様子が可笑しかったのか、くすっと笑みを浮かべてくれる見知らぬ顔。
九死に一生を得た安堵感が、優菜に冷静さを思い出させてくれる。
じっと待つ姿勢になった優菜に、見覚えのある生徒が言葉を紡ぐ。
「んー」
見覚えのある生徒が、優菜に悩みを打ち明けた後、優菜は思わず唸ってしまう。
その悩み事を要約すると、したい事はあるが、それで周りに散々迷惑をかけてしまった。だから諦めたのに、とある人がそれは間違いだと言って来て、困っている。
優菜としても、誰かに迷惑をかける事は嫌だと思っていた。その事で誰かが傷付くのはごめんだし、何より、その事で自分に悪印象を持たれる事を何よりも恐れている。
だが、ゴールデンウィークの件も、先週末の件も、優菜にとっては試練のようなもので、それを乗り越えた先の光景を知ってしまった。
だから、優菜にできる事は一つ。今の気持ちを素直に伝える事だけだ。
「でも、それを断れば、そのとある人は傷付きますよね」
優菜の言葉に、はっとした表情を見せる見知らぬ顔。それはまるで、そのとある人が何にも傷つけられない存在だと思っていたと言わんばかりだ。
だが、人は誰だって傷付く。表情の変化が少ないものでも、クラスの上位に位置する雲の上のような存在でも、聖母のような笑みを絶やさずにいた似非聖母でさえも。
誰だって傷付くし、誰だって傷付ける側にも成りうるのだ。だから、
「だから、自分のしたい事をしながら、周りを傷付けないように気を付ければいいと思います」
そう言って優菜が微笑む。その笑みを眩しそうに見つめながら、
「でも、それでも傷付けてしまった時は、どうすればいいの?」
傷付けてしまった人たちの顔を思い浮かべているような、苦しげな表情に、
「その時は謝りましょう」
そう、謝ればいいんだ。自分の非を認め、誠心誠意謝る。
もしかしたら、許してもらえないかもしれない。もしかしたら、非難暴言を吐かれるかもしれない。
でも、それでも、心から謝る意思があるのなら、きっと相手にも伝わるはずだ。
優菜が江島美希を許したのは決して博愛精神からではない。彼女の、心からの謝罪の気持ちが伝わってきたからだ。
勿論、優菜としては、特に彼女が悪いとか思ってもいなかったわけだが。
それでも、伝わってきたのだ。申し訳ないという気持ちが。心から反省しているという想いが。
だから、これからは仲良くしていけるのだと優菜は信じている。人は、変われるんだ。
「でも、私にそれができるかしら」
それでも、見覚えのある生徒の傷は深い。この傷は優菜では到底癒せないだろう。
「確かに、一人では辛いかもしれません。挫けそうになるかもしれません。でも、思い出して下さい。手を差し伸べてくれる人がいるって事を」
差し伸べられた優菜の手を見て、見知らぬ顔の瞳が見開かれる。だが、その瞳は、優菜の手を映してはいないだろう。その手は、優菜の手を取らないだろう。
だが、他の人なら……見覚えのある生徒を心から想う、とある人の手なら、きっと……
「だから、もし、その手が差し伸べられたなら、見逃さないで下さい」
そして、決して離さないで下さい、と。その瞳に伝わるように。
「それじゃあ、私は行きますね」
と、優菜があっさりと手を引っ込めて立ち上がる。
笑顔のままお辞儀をして、立ち去る。
そんな優菜の背中を見つめながら、見覚えのある生徒は、スマホを取り出していた。
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